アマヤドリ -92ページ目

やさしい夢


やさしい夢をみた。
近くに辛抱強くまもってくれるひとがいて、だけど決してもうそういうふうには手に入らないと知っている。
けれどだからこそそれは約束などなく続く。

微熱のせいでいくらでも眠っていられる気がした。

なにかを約束した。
けれどあたたかかったことに胸がつまるだけで、それがなんだったのかを思い出すことができない。
薄い蓋をされてそれはゆらゆらと沈んでゆく。
ときおりきらりとひかってまた、あたためる。

『アンリ・カルティエ・ブレッソン-瞬間の記憶』

写真家の才能はその場所に居合わせられるかどうかだよ。
という友達のことばを私はわかったような気がしていたけれど、まだいまひとつ、だとしたらどうしたらいいんだろう、というところに行き着いて止まっていた。

ブレッソンは、目を使って世界をみることだ、と言った。
まずはその瞬間をとらえることが重要で、物語や感情はあとからついてくる。

気持ちありきじゃないのか?と、昔の私だったら考えただろう。
でも今はなんとなくその意味がわかる。
構図や画面のバランスを狙うことと、感情から生まれたもの(という分類の仕方もとても安易だけど)、ブレッソンが言っていることはどちらも含んでいるはず。その一瞬を差すことも、なにかの高まりなのだろうから。

ブレッソンの写真はそんな一瞬の勝負みたいなカットによってかえって長い時を宿しているみたいに見える。
あの自転車はどこにいくのかな。馬車がこなかった時のこの道はどんなに静かで、どれだけ濃い靄に包まれていたんだろう。
風景すらそうだから、ひとはもっとだ。
じっと見ていると、過去にも未来にも時間は膨らんでゆく。

ポートレイトにとても興味があるのだけれど、やはり私が思ういいポートレイトにはコミュニケーションの工夫が必要みたいだ。
どんなにんげんであるかということはやはり何からも外せない。
ただ、外せないものが、きっと私は好きなんだろう。

マリリン・モンローを撮ったものがとてもきれいだった。
私はマリリン・モンローがわりと好きなのだけれども、もしかしたら一番この彼女が好きかもしれない。
視線を右にやって、何かに思いをよせている。華やかさをまとった彼女の内面にただようものに、こちらも染められそうになる。
ジェネオン エンタテインメント
アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶

金木犀


今年一番の金木犀のかおりを新橋に向かう道すがら、かいだ。
秋のはじまりは空がぐんと高くなった日に感じるのだけれど、金木犀のかおりには、もう秋のなかに全身がすっぽり包まれたのだということを実感させられる。

何年か前、遅い台風が秋にきて金木犀を道じゅうに散らしていったことがあった。
私はそのときどうしようもなく淋しくて、まだおさまらぬ激しい雨のなかを傘ひとつで歩いた。
自分の足には合わないスニーカーでぬかるみを通り、たぶんこんなに靴を汚したことを怒られるのだろうとぼんやりと思った。

そこからはもうどこにもつながらない道のつきあたりに、塀のうえまであふれる金木犀に囲まれた場所があった。私がちょうどすっぽりとおさまるくらいの。
傘と私が入ると枝が風をさえぎりぱったりと音が止んだ。
見上げるとこのあたりで一番高い樹の枝が狂ったように頭を振っているのに、そこだけはやわらかな手で耳を塞がれたように、風の音からひとつひっこんだところにあった。

半透明の傘に太陽の色の花びらが音をたてて落ちてくる。音といえばそれだけだった。
雨のしずくにくるまれて、ぱたぱたと傘をたたく。
傘の柄を持つ手に確実に重みを伝えながら。
肉厚な色がしずくに溶けださないことが不思議なくらいだった。

傘がぎっしり埋もれるまでずっとここにいよう、といつまでもじっと立っていた。
嵐がどのくらい遠ざかったのかは分からなかったけれど相変わらずてっぺんの樹は激しく吹かれていた。

この風景を、私はその年はじめての金木犀のかおりでいつも思い出すのだろうな、と考えた。
たぶんそれは未来のわたしへの呪いだったのだろう。

流れる泥、濡れた椿の葉、傘から伝う雨粒の音、冷えてくるからだ、

わたしだけの場所で、私はその眠りに嫉妬していた。


TRACKBACK
お友達の「金木犀」を集めてみました。
それぞれの金木犀を、どうぞ。

ちえさん
のらさん
秋桜さん
マシューちゃん

『ベルリン・フィルと子どもたち』

踊りを教える時にはまず楽しんでもらおうということを第一に考える。
だけど、一番相手が楽しんでくれるのはどう楽しませようかと練っているときじゃあなくて、こちらが真剣になったときだと思う。

楽しむことは必要じゃないの?と子供に問われて振付家のロイスマンが言った「私は真剣さを楽しんでいるよ」という言葉が、印象的だった。


ベルリン・フィル・ハーモニーの指揮者、サイモン・ラトルを中心とした教育プログラムのなかに含まれる、子供250人とオーケストラを共演させようというプロジェクトのドキュメント。
250人が出演する舞台というだけでどれだけ大変なんだろうって思うのに、子供たちはほとんどダンスの経験のない子たちばかり。しかも6週間でそれを仕上げる。
とほうもない。
はじめは好奇心で動いていた子供たちもだんだん嫌になって文句を言ってだらけるようになる。
そりゃそうだよなあ。

だけどロイスマンはあくまでも真剣に、真摯に、子供たちのこころに訴えつづける。
一生懸命やることが恥ずかしいのか?できないところから逃げようとしてふざけたり笑ったりしているんじゃないのか?

子供がふざけるのにそんなたいそうな理由はなかったりもするのだろうけれど、でも、ロイスマンの語ることばのなかから子供たちが感じたことは大きかったんじゃないだろうかと思う。
真剣にぶつかってくれるひとに対して自分がどうあるか。
経験のない子供としてじゃなくて、ダンサーのひとりとして、決して手をゆるめないやりかた。

子供は自分がどれほど可能性に満ちているかをしらない。
自分にもできることがある、ひとと触れ合う感触、コンタクトをとろうとする空気、いつもよりももっと空に向かって指を伸ばしてみること。
そのことに気付くことがどれだけ大きなことかと思う。

からだにはこころの状態が出るというけれどそれはほんとうのことで、私も踊りをするようになってから、それから、フェルデンクライスを知ったり怪我をしてどうにかしようと考えるようになってから、そのことをつよく感じるようになった。
からだとこころはつながっていて、自分のからだのすみずみを把握することはこころを掴んでおこうとすることと無関係ではない。
踊りに触れて子供たちが感じ取ったことはさまざまだろうけれど、そこで得た感覚で世界を見るのは、たぶんこれまでのものとは違うと思う。
皮膚を感じることは、知らなかった自分の内側をあらためて見直すこと。
音をあたらしくとらえることは、自分と、自分が接するものとの関係を深いどこかで嗅ぎ取ること。


ラトルがオーケストラに対して要求してゆくやりかたが好きだなあと思った。
そしてそのことばに反応して音を深めてゆく団員のひとたちは、やっぱりすごい。
ラトルのインタビュー を読んでベルリン・フィルの芸術に対する考え方にわくわくした。

今度10月に踊る舞台もそうなのだけれど、感じるきっかけを与えてくれる。
方向性を投げかけてもらい、それを自分で咀嚼したり、しきれなくてもいいからとにかく感じてからだに映してみること。
その相互の歩みよりや、提案のやりとりがすごく面白い。
たいてい、違うよちがうよ!って自分のなかではもやもやしちゃうんだけど。
でもそれも、ありなんだ。


10月末に小学校に踊りを教えにいく。
このドキュメンタリーは大きなヒントになる。
ベルリン・フィルと子どもたち コレクターズ・エディション

カモフラージュ?

ときどきちゅんはこういうふうになにかにまぎれてる。


この表情は、ちょっと、邪魔されるのかどうか?って伺ってるかお。