アマヤドリ -47ページ目

なつかしの地

あさってからカンボジアへ旅に行きます。
いつ帰ってくるかわかりません。というのはうそで1週間ほどで戻ります。


小さいときに何故だかずっとインドが好きで、前世はインド人だったんじゃないかなと本気で思っていた。
町でインドの人とすれ違うとそのひとが必ず親愛の情を込めて私に微笑みかけてくれるのはきっとその証拠だと思っていた。
でもあんまり今インドのひととすれ違うこともないのできっと、髪が金色じゃないけれど日本人じゃなさそうなひとのことをすべてインドのひとだと思っていたのだろう。
微笑みかけてくれたのは私が子供だったからかもしれない。
とにかく。

小さな私はアンコールワットの遺跡の写真が載っている本を見て、やっぱりインドに行きたいなあ、と考えた。アジア圏のことを全部インドと思っていたみたい、やっぱり。
そして、どうしてそんなことをしたのか覚えていないのだけれどその遺跡の写真を見ながら絵を描いた。
もしかしたらサンタさんにコンテや絵の具をもらった年で、それで何かを描いてみたくてたまたまそれを題材に選んだだけかもしれないけれど。

カンボジアに行くことになって地球のの歩き方を見ているうちにその石の塔に出会った。
私が描いた景色。
縁のくっきりしたくちびるを持った大きな顔と、土みたいなレンガみたいなテラコッタみたいなものでできた塔。
小さな湖ができていてすべてがさかさまに映っている。
わあ、これだ。
アンコールワットはやっぱりインドじゃなかったよ。
そう父に言ったら、今まで出した学費を返せ、といわれた。


元気にいってきます。
まだなにも用意してません。
サングラスと虫除けと帽子以外になにか必要かなあ?

カラーマスキングテープ



写真家の友人が作品をマスキングテープで壁に貼っているのを見て、これだ!と思う。
たくさんある写真や絵ハガキを飾りたいのだけれど穴を開けたくないし、額はそんなに持っていないし、だから今まではばねがついている画鋲を愛用してきた。
でもこれ、ちゅんがよく落とす。

マスキングテープとひとことに言っても粘着力にもいろいろあるようで、写真や絵をきずつけたくないから色々ネットで調べていた。
そうして出会った、可愛いマスキングテープ。
見に行った舞台や展覧会のチケットをノートに貼り付けたりもできる。


**sorariumさんのブログ にも。

『モモ』/ミヒャエル・エンデ

もう何回も読んでいるのだけれどもう一度『モモ』を読んだ。
男の子だったらコナン(未来少年の方)、女の子だったらモモになりたかった。

時間泥棒からみんなのたいせつなときを守るお話なのだけれど、私が一番好きなのは、モモが自分の時間と対面するところ。
この部分は奇跡のような風景。
きらきらとひかりがふりそそぐ音も、そのぬくみも、あでやかな花のかおりも、まぶしい乱反射も、全部が私をとりかこむ。
呼吸をしながらなんども瞬きをしてその花を見つめているのがモモなのか、自分なのか、わからなくなる。
景色を想像できる描写はたくさんあるしこころの奥を震わせる描写はいくつもあるけれど、こんなふうにまるごとを生々しいほどに包む体験ってそうそうない気がする。
しかも苦しさやかなしみじゃなくて幸福感で、だなんて。
『はてしない物語』もそうだったけれど、まるで読者が主人公のひとみの中の水晶体のなかから彼や彼女の見るものを見ているかのような感覚。
扉を開けたら奔流にのまれるように、その感覚が襲ってくる。
もう息ができないくらいに。
けれどぱあっとそこをすぐ抜けて風と光みたいなものに触れて…って、なんだか生まれてくるときみたい。

こころに沸き起こるたくさんの矛盾や謎も、なんてことなく、しるしてあった。
じぶんの存在のようなものを別の方向から気づくような瞬間があった。



文学の使命は啓蒙ではなく、治癒である
~ミヒャエル・エンデ


モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語

夢/ちゅん


6時半頃一度起きたら廊下にちゅんがいて、潜り込むように私の部屋にきた。
窓を開けてあげてちゅんが外をみられるように。
私はベッドに潜り込み、二度寝。

ときどき急にちゅんは私をつつきにくる。
起きるのが遅いからいらついているのか。
布団に潜ると一緒になって入ってくるくらい、追い掛けてくる。

ここまではいつもの、夢でない光景。

またちゅんがしつこく手をつついてきた。
布団に潜ってうつぶせになって左手の方向をみると、ちゅんが布団に入ろうとしている。
もぞもぞしているのがとても大きい。
けど恐いからはっきりみることができない。
ずっともぞもぞしているから引き寄せたら桃色のほっぺたの赤ちゃんで、私と目が合ったらいたずらっぽくにやりとした。
とても可愛い顔で、肌はベージュでさらさらだった。

根と葉のあいだ


参加しているWS(というのかしら?)で自分が何故踊るのかというようなことを話す時間があった。
ほかのひとの話を聞きながらそして自分もぽつぽつと話しながら、こんなにもまとまりがないのだということを痛感。
それこそ想いがあるなんて当然のことで、ぐんぐん吸い込むことや核みたいなものをみつめることも当然であって、そんな自分がじぶん以外の世界全体にどんなふうにかかわったりはっしてゆけるのか(ゆきたいのか、だけではいけない)をことばにできなくてはなぁ…と、少し帰り道しょぼしょぼ。
きっとそこがはっきりつかめれば、ないわけはないからまとめることができたら、それを何かしらの方法でかたちにできるんだろうと思う。
教えるにしろ作品をつくるにしろ。
足りないのは経験や信念だけじゃなくて、そこの通路を打ち建てること。

それぞれのひとがそれぞれの動機を持っていて踊ることに対して求めることも違う。
違うけれどももちろん共感がある。
これも、同じ水場に根をおろしているからなんだろう。
ダンサーやアートにかかわるひとに限らずひとはみんな表現をする生きものだから。…あ、動物だってそうかしら。