『81/2』
ずっと、この空を飛ぶ冒頭のシーンはカラーだと思っていた。
青空だけれどどことなく不自然な空色と、乾いた砂の色をはっきりと覚えている。
…気がしていた。
それからお父さんと出会うシーン。やわらかな眩しい若草と静かな白い塀の鮮やかな色の対象。
でもこの映画はモノクロだ。
今回見るまで色彩のついたシーンのイメージがまるで疑うように離れなかったのだけれど、ほんとだ。白黒だ。と納得した。
でもなんて鮮やかなモノクロだろう。
一晩経って思い出すとまた色がついてしまっている。じわじわ色が染みだすみたいに、思い出すたびにこの色は鮮やかになってゆくのだろうな。
それにしてもなんて美しい構図なんだろう。
どの一瞬を切り取っても完成された写真のように完璧なバランス。
その調和はちっとも静かにじっとしていなくて、まるで夢がつくりだしたあべこべみたいにひとくせが加わっている。
いっときも目が離せない気がした。
主人公のグイドの幻想はひとつひとつが作品になりそうだった。
イタリア人である彼(たぶんフェリーニ自身でもある)の懐かしい記憶が、私にとっても切ないくらいいとおしいのはどうしてだろう。
きっとフェリーニが描く個人的なことはとても凝縮されているから、もう個人的な風景にはとどまらないのだろう。
手にとれる白昼夢のように刻まれる場面たち。
すごく皮膚感覚的で、友人が「舞台芸術に近い」と言った感覚がわかる。
ピナ・バウシュもフェリーニを大好きなんだけど、なるほど。
初めて見たときには愛人役のひとがこんなに可愛らしくは見えなかった。
アヌーク・エーメもくちびるの動きひとつが美しいし。
やっぱり好きすぎてうまく感想がかけない。
「ほんとうの幸福とは、真実を言っても誰も傷つけないこと。」
幻想のなかにこころのどこかをずっと漬けおきにしていたフェリーニらしいことば。
8 1/2
青空だけれどどことなく不自然な空色と、乾いた砂の色をはっきりと覚えている。
…気がしていた。
それからお父さんと出会うシーン。やわらかな眩しい若草と静かな白い塀の鮮やかな色の対象。
でもこの映画はモノクロだ。
今回見るまで色彩のついたシーンのイメージがまるで疑うように離れなかったのだけれど、ほんとだ。白黒だ。と納得した。
でもなんて鮮やかなモノクロだろう。
一晩経って思い出すとまた色がついてしまっている。じわじわ色が染みだすみたいに、思い出すたびにこの色は鮮やかになってゆくのだろうな。
それにしてもなんて美しい構図なんだろう。
どの一瞬を切り取っても完成された写真のように完璧なバランス。
その調和はちっとも静かにじっとしていなくて、まるで夢がつくりだしたあべこべみたいにひとくせが加わっている。
いっときも目が離せない気がした。
主人公のグイドの幻想はひとつひとつが作品になりそうだった。
イタリア人である彼(たぶんフェリーニ自身でもある)の懐かしい記憶が、私にとっても切ないくらいいとおしいのはどうしてだろう。
きっとフェリーニが描く個人的なことはとても凝縮されているから、もう個人的な風景にはとどまらないのだろう。
手にとれる白昼夢のように刻まれる場面たち。
すごく皮膚感覚的で、友人が「舞台芸術に近い」と言った感覚がわかる。
ピナ・バウシュもフェリーニを大好きなんだけど、なるほど。
初めて見たときには愛人役のひとがこんなに可愛らしくは見えなかった。
アヌーク・エーメもくちびるの動きひとつが美しいし。
やっぱり好きすぎてうまく感想がかけない。
「ほんとうの幸福とは、真実を言っても誰も傷つけないこと。」
幻想のなかにこころのどこかをずっと漬けおきにしていたフェリーニらしいことば。
8 1/2
朝市と朝ごはん
次の朝。
前日の夜に見た蓮の花が咲き始めていた。
睡蓮と蓮が違うものだって知らなかった。
蓮の花は一日1回咲いて、睡蓮は1日に2回咲く。
つぼみのかたちも違う。
カンボジアから帰ってきてもずっと、睡蓮のことを考えてる。
そのまま朝市へ。
まだ市場が始まる前だった。
早く起きすぎたみたい。
でもいそいそと働くひとたちを見ることができた。
たくさんの果物やさかな、肉。
こんなふうに、ひとは生きていたものを食べるのだと感じさせてくれることが今の私の生活にはあまりない。
だからちょっと強烈だった。
肉のにおいや虫や、ぎゅうぎゅうになってあるいているひとびと。
野菜売りのおばさんと、時々みかけた星のかたちのかざり。
宗教に関係してるのかな。
きらきらと透明で可愛らしかった。
ちょっと小道に入った、市場でもないし屋台が並んだところでもない街の一角で朝食を食べることに決めた。
おばちゃんは最初まったく笑ってくれなかった。
口さえほとんどきいてくれなくて、いくらですかと訊ねると指を1本立てただけだった。
気まずいなー。
ちゃんと食器を洗っているのかな…このずっと外に放置していたようなスパイス類をかけて食べるのかなあ…という心配をしつつ、出来上がりを待つ。
でも実際できたものを食べてみたらすごく美味しかった。
ベトナムのフォーのようなスープにおじやが入っている。
たくさんシャンツァイが入っていてもやしとか鶏肉が入ってる。
おいしい!って伝えるとおばさんはゆっくり顔を緩ませて、これを入れろ、あれを入れてみろ、といろんなスパイスをすすめてくれた。
ぬるいジャスミンティーも出してくれた。…けどこれは水が心配だったからちょっとだけしか飲まなかったけど。ごめんね、おばちゃん。
私たちが食べている間にも何人かが朝食を買いに来ていた。
子供が買いにくる。
家族の分なのか、お弁当なのか。
おじやと、ふらっとあらわれた子猫。
ねこは友達が撮ってくれたもの。
夜の街
夜歩いていたら素敵な景色を見つけた。
椅子の配置も、茶色の壁もとてもいい。
入り口にお兄さんが座っていて、写真を撮っていいかと聞くとニコニコしてくれた。
写真を撮るとそれを見たがってくれた。
いつのまにか人が増えていてみんなに写真を見せた。
このときは知らなかったからこのひとたちに対してもとても警戒していたけれど、カンボジアのひとたちの人懐っこさを知ったあとで、なんだか納得がいった。
カフェから出て街の屋台をぶらぶら。
蝿はすごいし、生ごみみたいな匂いもする。
でも鮮やかで強い印象の生活のようなものにひさびさに出会った気がしてやっぱりわくわくした。
ちょっと前の日本みたいだった。
みんなでTVを見ている光景を何回か見かけた。
一番上の景色は朝になるとこんな風になる。
朝の市場が始まる直前にこの景色(と近いところ)を逆から撮った。
朝になって初めて、夜に見たあの景色が市場に変わるんだ、と知ったのだけれど。
到着の夜
初めて見たカンボジアの景色。
雨季に差し掛かっていたから地面は水分が多い。
この景色を見てすごくテンションがあがった。
ちょっと時間が前後するけど。↓
今考えるとこれ、トレンサップ湖だったのかも…。
左はホーチミンの空港のトイレ。
いい加減な日本語。
右はおやつ。
この蒸しパン美味しかった。
これが空港。
可愛らしい。
外に出た途端湿気とあつい空気に包まれてほんとうにわくわくした。
街中はバイクが多い。
道には横断歩道などなく、いつ渡ってよいやら…だった。
でも通勤・通学時間はこんなもんじゃなかった。
そしていつの間にかこの道路をすいすい渡れるようになった。
夜。
ついてすぐにうろうろしたけれど全然街の全体像がつかめなかった。
すごく簡単な街なのになんでだろ。
バーエリアにはおしゃれなカフェが多かった。
カンボジアをなめてたよねー、と話す。
ここにはヨーロッパのひとがいっぱいいた。
ご飯を食べたカフェ。
スイカシェイクを飲んだ。スイカそのまま!
それからココナッツ味のカレーと鶏肉の炒め物を食べた。
カンボジアの食べ物は辛くはなくてどちらかというと甘い。
タイとかベトナムのちょっと癖のある味付けが好きならばカンボジア料理を好きになれるはず!
memo/PP:嵐の海、片方の夢
たぶんわたしは、
何日も波に洗われた骨のように真っ白で
何日も太陽を浴びなかった羽根のようにからっぽだ
くらやみそのものみたいにどこまでも澄んで、さえぎることができない。
嘘もこわいものも曲がりくねった道も、どんなものも。
全部がわたしを通り道にしてゆく。
呼吸かと思っていたものはいつのまにか肺を満たして、ぎりぎりまで塞いだ。
それを通して息をするしかないことをわたしは知っている。
くらやみのかおり。
それは懐かしさに似ていて絶望には似ていない。
からだのなかは掻き毟る波に乱されて叫ぶのに、わたしはからっぽなままだから、どこまでもしんと、ひとみを開いている。
透明と真の闇とはひとしいのではないだろうか。
悲痛な声がきこえる。
近いのか遠いのか、風がすりぬける音なのか泣き声なのかわからない。
風にしろひとにしろ、きっと誰かのために悲しんでいるのだ。
声がかみそりで切りつけながら通り抜ける。
すべてこぼれてしまうんじゃないかと思うが、いつのまにかわたしはやわらかに凍り付いていたようで、わからない。
ふいにあたたかみを肌に感じた。
そして呼吸。
ゆるゆるとからだを輪がスライドしてゆく。
水と空気のさかい。
泣かないで。
きっとあなたは自分が泣いていることを知らない。
今度こそほんとうに、満ちてゆく。
もうなにもわたしの中を通ってゆくものはない。
その指が凍ってしまう前に離してほしいと思う。
これがすべて。
彼女がみたものの、すべて。
***
踊りのためのメモ。













