アマヤドリ -37ページ目

another time、淵


7月のスタジオパフォーマンスの創作がだんだん固まってきたとともに、8月の芝居の舞台の稽古も始まった。
実際の小屋を見に行って感触をつかんだりイメージを膨らませたり。
照明や舞台美術や衣装のことでも予算や実現するかということに対しては無責任なくらいただイメージを提案してみている。
思っていたよりも存在感のある空間で目に飛び込んでくるいろんなものが近い。
90度の角度でお客さん同士のことも見えちゃうからきっと視界はざわつくだろう。
考えていた静謐さやどおんと永遠なかんじをどう出せるのか。悩むところではある。
私に託されているパートが、いいイメージを生むとよいと思う。

5月から始まったクラスがますます大事なものになってきている。
毎回とらえきれないことばかりだ。
からだも、ことばを理解することにもついて行けていないかもしれない。
ぐっと神経と集中させてなんとか自分のものにしようとしているけれど、追いついているとはいえない気がする。
自分にがっかりする。
そんな多くを期待してたわけじゃないけど、こんなにか、と。からだも頭もこんなに鈍かったんだ!と。
がっかりしてる暇はないこともわかっているけれどやっぱり、こんなに発想もからだも貧困だったとは…と苦しくもなる。
とはいえ、そのベクトルよりも私のこころはがつがつしたいとかわくわくしてるとかが大きいので、これでいいと思っているけど。


動きとかひとつの作品を創って行くときにどんなものを題材としたらいいのかということを私はずっと迷っていた。
よく言う「テーマ」みたいなもの、骨になるものはなんなのか、ということをずっと考えていた。
なんとなく私が求めているものはここにあるし景色や色もあって、なにかしら叫びたいような強いものもあるのだけれど、それを動きに変えるって一体なんだろう。
踊っている理由はことばが苦手だから、かたちのないものをことばにするよりも踊りにしたほうがずっと簡単だから、なんて考えてきたけれどじつは動きにすることだってものすごく難しいんじゃないか。
私のなかにある傾向とか好きなものとか、大切にしている景色やおはなし、忘れられない気持ち、繰り返されるストーリー、そんなものをもう一度おさらいすることで自分がどんなエッセンスでできているのかを知り、…
…それで?
それからどうする。
そこからじかに動きに落とし込むには、どうしても躊躇がある。
芝居みたいなものだったらもう少し簡単なのに。
きっと私は自分が考えているよりもずっといろんなものにことばを介在させているんだ。そしてずっと、直截的だった。だから、芝居みたいになっちゃう。(きちんと芝居ができているわけでもないし)

すごく頭でっかちな自分に気づいた。勘や感性にもっと占められていると思っていたのに。
こんなに理詰めで、一から十まで考えとかないとがちがちになって動けなくなっちゃうなんて。
私のなかのずれで一番大きくって重要で、重大で、もしかしたら命取りになるくらいのものは自分への勘違いなんじゃあないだろうか。そんなことをこの3年くらいで、どんどん気づき始めている。
私はわたしが思っているようでは決してない。
良くも悪くも決めて縛っていることが自由になることに足かせをしているのだとしたら、ちょっとずつとっぱらおう。自分を戒めることから目をふさいでいるのだとしたら(こっちのことのほうがずっと多い)まっすぐに見つめて聞く耳を持たなきゃ。
年末年始に一緒に横浜でWSを受けたコントラステのAちゃんに言われたことが、ちょっとずつわかってきた。
Aちゃんが本当にそのことを指して言ったかどうかは実は確かめていない。
けれどあのときに私がわからなかった(わからなかったのに何故かとてもショックを受けた)ことが、今なら見当がつく気がしているということは、とても大事なことだと思う。

そして昨日は、自分がずっとあたためていたものがやっぱり動きになりうるんだ、そういう創りかたをすることが可能なんだ、と思えたことと、けれどそこからまっすぐに引き出せるもののみではかたちにすることは難しくて(超能力者じゃないんだから)、ここに工夫なり、引き出しなり、とにかく肉付けをすることが必要なんだということがちょっと見えた。


なんだかとても、私のためだけの反省文みたいな日記。

『少女ソフィアの夏』


またまたトーベ・ヤンソン。

弟のラルフ(ムーミンの漫画を描いている)の娘ソフィアとおばあちゃんをモデルとした話。
長いながい夏休みを小さな孤島で過ごす、ひと夏。

永遠のような冬を終えて島はいのちやその残りで溢れている。
立ち枯れた乾いた幹や蔓、苔が地面を覆い、隙間を埋めるように花が咲き、鳥の骨が波打ち際に打ち寄せる。
生きることも死ぬことも日常のすぐそこにあって、季節をわたるのはひとも同じ。
ソフィアとおばあちゃんがそこで喧嘩をしたり発見をしたりしてゆく毎日が描かれている。

子供のころは時間は永遠だった。
毎日なにがあったかなんて覚えていないけれど一日が長くてなんの歯止めもなかったことを覚えている。
樹にのぼっても、アスファルトにしゃがんで蟻をずっと追っていても、ガムにからみついた砂利を日がな眺めていても、世界と私は密接でありながらどこか、時間からは乖離していた。
私はあまり自然の多いところで育ってはいないのだけれどそれでも、造成地に大きな蔦を見つけてターザンごっこをやったり、橋の外側を通ったりどぶの溝をずっとたどったり、トンボが何秒で帰って来るかを数えたり…探求は永遠だった
きっと都会で遊ぶところがなくて可哀想なように感じる今の子どもたちも何かしらを見つけて遊んでいるんだろう。
何もみつからないと思うのは大人だけだ。
もちろん、そりゃあこの島のようなところでもっと命や摂理のようなものを肌で感じることはどんなに素敵だろうとも思うけれど、たぶん決め付けるのはよくない。

でもそれはそれとしても、ここに描かれているのは私がほとんど触れたことのないような景色で、読んでいてずっと胸が苦しいくらい憧れた。
宿なんかとらなくてもいいから今すぐ電車でちょっと遠くの海に行って夜通し空を眺めたり砂を掘り返したりしたくなった。

誰もいない海にいきたい。
真っ黒な波の近くにずっといて、いつの間にか空が青白くなってくるところに立ち会いたい。

なんでも長い間こころをよせていればそのことを自然に理解できるようになる。
ひとから聞いたり勉強したり調べたりしてわかるような劇的なことじゃなくて、もっとその根底にただあることに近づくような。
そんなことに惹かれている。
私のおばあちゃんが丁寧に暮らしていることをとても大事に思うのもそれだし、海と一晩かかわりたいと思うのもそれだし、自分の、早くて目移りする流れよりもっと奥底に静かに呼吸している部分を知ったりそこから話したりしたい、というのもそれ。


おばあちゃんになったらまた子供のころの永遠の時間を味わうのかもしれない。
それともその、自分を深くふかくもぐることでそれが今でも得られるのかも。


まっとうで美しい景色でした。


少女ソフィアの夏

交通ルール、ハンモック


こんな3人乗りはあたりまえ。
片手で赤ちゃんを鎖骨あたりに押し当てながら片手運転するお父さんとか、4人乗りとか、なんでもありだった。
14歳以上は免許がなくてもバイクに乗れるし、ヘルメットや乗車人数への規制もないし、自由だ。
でも観光客のバイクは禁じられているんだって。事故が多いから。
この町には2箇所にしか信号がない。
あとはずっとぶんぶん、自由に走っている。

最初は道路を渡るのが一苦労だった。
でもだんだんに慣れてきた。


赤ちゃんをこうしてハンモックに昼寝させているところをよく見かけた。
可愛いなあと覗き込むとお母さんはにこにこして赤ちゃんを揺する。

あとで知ったのだけれどカンボジアにはハンモックが多かった。
赤ちゃんだけじゃなくて大人も昼寝しているをよく見かけた。
お土産やさんにも結構安く売っていたので友達は重たい荷物にもめげず買っていた。
私はそろそろ20キロオーバーするんじゃないか…と心配だったので買わず。
欲しかったなあ。吊るすところないけど。

夢/しこり、うらやおもてや


夢。

心臓の近くにしこりがあるのを見つける。
肌を見てみたらひどくぶつけたときのように盛り上がった青あざみたいになっている。
もうこんなに侵食されてしまったんだと絶望的な気持ちになるけれど、同時にしばらくはずっと本を読んだりして過ごせるなと思う。
触ると古い消しゴムみたいな固さでこのちいさいものは生きているわけじゃないのに何故私を攻撃することになったのだろうと考える。


これも夢。

友人が、Mさんから最近どうしているの、何故か突然心配になって、というメールをいただいて、ちょうどとても気持ちが落ち込んでいたときだったからうれしかったということを言っていた。
よかったね、と言いながら私はこころのどこかで、私はそんなふうになかなか心配されないんだということがちょっぴり寂しくなる。
寂しくなりながら、自分の身勝手さにまた、ためいきをつく。

***

おきてから心臓の近くを見てみた。
さっきと同じ肌、同じ曲線なのに、あのあざ色のしこりだけがなかった。
すごく変な感触。

睡蓮


睡蓮にこころひかれる。
いつからか覚えていないけれど。
おととし川村美術館に行ったときよりは前。

カンボジアのシェムリアップ空港に着いたときにそのあたたかく湿ったかおりをかぎながら睡蓮のことを強く思った。
ちょっとした中庭がついていてそこにちいさな池があって、いかにも睡蓮がありそうだったのになく、ひょろっと草だけが伸びていた。

ホテルの近くの川に睡蓮を見つけて、夜も朝も撮った。
思ったよりも見かけなくてどうしてだろうと思ったら最終日にこの茶色い川にざぶざぶ頭から入って花を摘んでいる男の子がいた。
きっとお供えするのだろう。
そうか。


日本に帰ってきてしばらくして、睡蓮の夢を見た。
内容は忘れちゃったけれどやっぱりあたたかく湿っていて、でも気温は低くあたりは夜か夜明けの蒼さだったと思う。
葉に水滴が浮かぶような霧のなかだったような気がする。
息をするたびに肺に水分がしみこんでいった。

どんな夢かわすれたんだけど、その睡蓮を私はからだのどこかにずっと抱えている。
何故かちょっとだけ、胸がきゅっとする。
だからきっと水滴と一緒に花を吸い込んでしまったんだろう。