memo/しずかな嵐
窓枠にもたれながら夢をみた。
目覚めるとその時間はわたしのなかから消える。
けれどまた夢をみるたびに還ってくる。
だからこのことは夢のなかのわたししか、知らない。
夢のなかのわたしはわたしではない。
けれどどこかがわたしでもある。
わたしはわたしの感覚で考える。
けれどその映像はわたしのしらないシーンを歩む。
歩くたびに服から伝った水が砂にしみ込んでゆく。
砂に触れた部分がかすかな音をたてて吸い付き、遠退く。
その感覚はわたしのものだ。
波は荒れて厚い雲がひしめき合って流れてゆく。
雲と雲の隙間にはまるで静かな夜明けのような青とまぶしい灰色の光が精一杯にあたっている。
たっぷりと泡を含んだ峰が抉られたなめらかな横腹を刺し、混ざりあう。
わたしは躊躇なく海に進み、呼吸がしおからくなってくる。むせるほどに。
髪がばらばらに吹かれ散り、頬を打った。
分厚いガラスを通してその景色を見ているように何の音もしなかった。
瞬きすら、わたしはしなかった。
遠くに小さな船が見えた。
びっくりするほどそれは高く持ち上げられ、しばらくするとまるっきり見えなくなった。
ちいさな船にはわたしが横たわっていた。
『他人のそら似』、寄席
友人のお芝居を見に、サニーサイドシアターへ。
ここはおととしこの友人とコラボレーションをした懐かしの小屋です。
思えば彼と初めて対面したのもここでした。
夢なのかうつつなのか、そのさかいを曖昧にしたまま進むストーリーはなかなかスリリングで、デビッド・リンチ好きな彼らしい。
もうひとりの自分ということを扱うお話は数あれど、最後にはオチのようなものが説明されることが殆どなのに、この作品ではそれをもっと意識のなかに引き込んでいる。
そこがとてもよかったな、と思う。
話として説明がついてすべて符号することは気持ちがよいけれど、ひとの時間やものへの認識はそんなにはっきりとクリアではないし時系列も整わない。
体感したときにうんうん、なんとなくとても納得、という程よい感触だったように思う。
もしかしたら今私がそういうことにアンテナや毛穴が向かっているということも関係あるかもしれないけれど。
なんでもない会話も心地いい。
これも、私の日常の感覚にとって自然なものだったからだろう。
今まで見てきた彼の作品はサスペンスが多かったのだけれど、こんなごく近しいやりとりのなかから生まれるほんのりとしたドラマもいいじゃない。と思ったのでした。
こないだ生まれて初めて末広亭に寄席を見に行ったのだけれど、とっても面白かった。
お扇子を巻物の手紙に見立てたりおそばのお箸に見立てたりというしぐさも素敵だったしおそらく定番なのであろういわゆる落語の可笑しみも楽しんだのだけれど、一番こころに残ったのはもっと感覚的な部分。
ひとと話したり生活したりこずるいことを考えたり変な空気に戸惑ったり…。
そういう共通の感覚のようなものをとても鋭く観察して再現し、観客にかえしている。
ひとは持って生まれた性格とか育った環境とかでもちろん千差万別なのだけれど、それでも「そうそう、それそれ」といちようにうなずける感触とかシチュエーションを、その底には持っている。
ひとりで2人分の会話を再現しているときにも、ときどき相手のセリフを言わなかったりする。
でも私たちはその相手のセリフを想像することができる。しかも瞬間的に。
きっと全部会話にしてしまったらうるさいだろう。
でもあえてそこはお客さんにゆだねる。
ゆだねられるだけの空気をそこまでに作っておく。
プロの仕事だなあ、と思った。
この「共通の感覚」を表現のなかに取り入れる、というような意識は去年まで私のなかにはなかった(意識できるレベルでは)ものなのだけれど、素敵なダンサーであり振付家であるMさんと出会ってからしばしば認識にのぼるようになった。
最初は言葉づらしかわからなくて、いったいどういうことなんだろう、なんかわかるような、わからないような、であった。
紹介された本を読んでみて、うんうん、なんとなく。だけど消化しきった感じはしなくて。
今もまだはっきりとはつかめないのだけれど、ときおりはっとそのことが示されている状況に心がとまるようになった。
霞の景色の向こうに鮮やかな色合いの花を見るように、こころに焼き付けられるようになってきた。
体感することでしかきっと育ててゆけないのだろうな。
寄席で踊りのことを学べるとは。
当然のことかもしれないんだけれど、私にはうれしい発見だった。
自分を通じて、あしもとのもっとどこか下の方かで繋がっている、共有できるなにかを感じ取って知りたい。
伝えるって、もしかしてここを通じさせることなんじゃないかな。
ここはおととしこの友人とコラボレーションをした懐かしの小屋です。
思えば彼と初めて対面したのもここでした。
夢なのかうつつなのか、そのさかいを曖昧にしたまま進むストーリーはなかなかスリリングで、デビッド・リンチ好きな彼らしい。
もうひとりの自分ということを扱うお話は数あれど、最後にはオチのようなものが説明されることが殆どなのに、この作品ではそれをもっと意識のなかに引き込んでいる。
そこがとてもよかったな、と思う。
話として説明がついてすべて符号することは気持ちがよいけれど、ひとの時間やものへの認識はそんなにはっきりとクリアではないし時系列も整わない。
体感したときにうんうん、なんとなくとても納得、という程よい感触だったように思う。
もしかしたら今私がそういうことにアンテナや毛穴が向かっているということも関係あるかもしれないけれど。
なんでもない会話も心地いい。
これも、私の日常の感覚にとって自然なものだったからだろう。
今まで見てきた彼の作品はサスペンスが多かったのだけれど、こんなごく近しいやりとりのなかから生まれるほんのりとしたドラマもいいじゃない。と思ったのでした。
こないだ生まれて初めて末広亭に寄席を見に行ったのだけれど、とっても面白かった。
お扇子を巻物の手紙に見立てたりおそばのお箸に見立てたりというしぐさも素敵だったしおそらく定番なのであろういわゆる落語の可笑しみも楽しんだのだけれど、一番こころに残ったのはもっと感覚的な部分。
ひとと話したり生活したりこずるいことを考えたり変な空気に戸惑ったり…。
そういう共通の感覚のようなものをとても鋭く観察して再現し、観客にかえしている。
ひとは持って生まれた性格とか育った環境とかでもちろん千差万別なのだけれど、それでも「そうそう、それそれ」といちようにうなずける感触とかシチュエーションを、その底には持っている。
ひとりで2人分の会話を再現しているときにも、ときどき相手のセリフを言わなかったりする。
でも私たちはその相手のセリフを想像することができる。しかも瞬間的に。
きっと全部会話にしてしまったらうるさいだろう。
でもあえてそこはお客さんにゆだねる。
ゆだねられるだけの空気をそこまでに作っておく。
プロの仕事だなあ、と思った。
この「共通の感覚」を表現のなかに取り入れる、というような意識は去年まで私のなかにはなかった(意識できるレベルでは)ものなのだけれど、素敵なダンサーであり振付家であるMさんと出会ってからしばしば認識にのぼるようになった。
最初は言葉づらしかわからなくて、いったいどういうことなんだろう、なんかわかるような、わからないような、であった。
紹介された本を読んでみて、うんうん、なんとなく。だけど消化しきった感じはしなくて。
今もまだはっきりとはつかめないのだけれど、ときおりはっとそのことが示されている状況に心がとまるようになった。
霞の景色の向こうに鮮やかな色合いの花を見るように、こころに焼き付けられるようになってきた。
体感することでしかきっと育ててゆけないのだろうな。
寄席で踊りのことを学べるとは。
当然のことかもしれないんだけれど、私にはうれしい発見だった。
自分を通じて、あしもとのもっとどこか下の方かで繋がっている、共有できるなにかを感じ取って知りたい。
伝えるって、もしかしてここを通じさせることなんじゃないかな。



