another time、淵
7月のスタジオパフォーマンスの創作がだんだん固まってきたとともに、8月の芝居の舞台の稽古も始まった。
実際の小屋を見に行って感触をつかんだりイメージを膨らませたり。
照明や舞台美術や衣装のことでも予算や実現するかということに対しては無責任なくらいただイメージを提案してみている。
思っていたよりも存在感のある空間で目に飛び込んでくるいろんなものが近い。
90度の角度でお客さん同士のことも見えちゃうからきっと視界はざわつくだろう。
考えていた静謐さやどおんと永遠なかんじをどう出せるのか。悩むところではある。
私に託されているパートが、いいイメージを生むとよいと思う。
5月から始まったクラスがますます大事なものになってきている。
毎回とらえきれないことばかりだ。
からだも、ことばを理解することにもついて行けていないかもしれない。
ぐっと神経と集中させてなんとか自分のものにしようとしているけれど、追いついているとはいえない気がする。
自分にがっかりする。
そんな多くを期待してたわけじゃないけど、こんなにか、と。からだも頭もこんなに鈍かったんだ!と。
がっかりしてる暇はないこともわかっているけれどやっぱり、こんなに発想もからだも貧困だったとは…と苦しくもなる。
とはいえ、そのベクトルよりも私のこころはがつがつしたいとかわくわくしてるとかが大きいので、これでいいと思っているけど。
動きとかひとつの作品を創って行くときにどんなものを題材としたらいいのかということを私はずっと迷っていた。
よく言う「テーマ」みたいなもの、骨になるものはなんなのか、ということをずっと考えていた。
なんとなく私が求めているものはここにあるし景色や色もあって、なにかしら叫びたいような強いものもあるのだけれど、それを動きに変えるって一体なんだろう。
踊っている理由はことばが苦手だから、かたちのないものをことばにするよりも踊りにしたほうがずっと簡単だから、なんて考えてきたけれどじつは動きにすることだってものすごく難しいんじゃないか。
私のなかにある傾向とか好きなものとか、大切にしている景色やおはなし、忘れられない気持ち、繰り返されるストーリー、そんなものをもう一度おさらいすることで自分がどんなエッセンスでできているのかを知り、…
…それで?
それからどうする。
そこからじかに動きに落とし込むには、どうしても躊躇がある。
芝居みたいなものだったらもう少し簡単なのに。
きっと私は自分が考えているよりもずっといろんなものにことばを介在させているんだ。そしてずっと、直截的だった。だから、芝居みたいになっちゃう。(きちんと芝居ができているわけでもないし)
すごく頭でっかちな自分に気づいた。勘や感性にもっと占められていると思っていたのに。
こんなに理詰めで、一から十まで考えとかないとがちがちになって動けなくなっちゃうなんて。
私のなかのずれで一番大きくって重要で、重大で、もしかしたら命取りになるくらいのものは自分への勘違いなんじゃあないだろうか。そんなことをこの3年くらいで、どんどん気づき始めている。
私はわたしが思っているようでは決してない。
良くも悪くも決めて縛っていることが自由になることに足かせをしているのだとしたら、ちょっとずつとっぱらおう。自分を戒めることから目をふさいでいるのだとしたら(こっちのことのほうがずっと多い)まっすぐに見つめて聞く耳を持たなきゃ。
年末年始に一緒に横浜でWSを受けたコントラステのAちゃんに言われたことが、ちょっとずつわかってきた。
Aちゃんが本当にそのことを指して言ったかどうかは実は確かめていない。
けれどあのときに私がわからなかった(わからなかったのに何故かとてもショックを受けた)ことが、今なら見当がつく気がしているということは、とても大事なことだと思う。
そして昨日は、自分がずっとあたためていたものがやっぱり動きになりうるんだ、そういう創りかたをすることが可能なんだ、と思えたことと、けれどそこからまっすぐに引き出せるもののみではかたちにすることは難しくて(超能力者じゃないんだから)、ここに工夫なり、引き出しなり、とにかく肉付けをすることが必要なんだということがちょっと見えた。
なんだかとても、私のためだけの反省文みたいな日記。
