『トリコロール/青の愛』
- ジェネオン エンタテインメント
- トリコロール/青の愛
キェシロフスキは『ふたりのベロニカ』でとても好きな監督。
この作品でも色や音を象徴的に多用している。
悲しみは時には大波のように、時には蛍の光のように訪れる。
それを青い光とオーケストラで表現している。
冷たい青の光はジュリーの心がすうっと冷めてしまっているように始めは見える。
夫や娘と共に自分の中の何かが死んでしまったように。
しかし、愛を削ぎ落とそうと振る舞うジュリーとは対照的に彼女は愛から離れては生きてゆけないのだという事がみえてくる。
静かな愛。冷静で且つ震えを含んでいる。プールのシーンが印象的。
ジュリーの心が解放された場面(上の画面参照)は美しかった。理性的なジュリーがみた夢のような…。
とても清潔な色気があるジュリエット・ビノシュがとてもいい。
『トリコロール/白の愛』
主人公カロルは異国にいるプレッシャーから性的不能に陥り妻から離婚を通告される。お金もなく途方に暮れるカロルは地下鉄で出会ったミコワイと意気投合し、トランクに隠れ命からがら祖国ポーランドに戻る。祖国で彼はひょんな事から成功を収め大金持ちに。しかし片時も妻を忘れたことはなかった。
「白」は平等をテーマに描かれているそうだがこの平等とは、フランス人とポーランド人という間のことではなく、愛し愛されるものの間の関係をいうのだろうと思う。
主人公カロルはとても冴えない感じに見える。
妻に手酷い仕打を受けて祖国にボロボロになりながら帰る。ポーランドもフランスに比べたら、暗い。兄の家を頼るが「看板に電球をつけたんだね」というセリフからも貧しい事が分かる。
が、何故か明るい。
カロルは祖国に帰った事をしみじみ喜び、出迎えた兄も暖かい。彼は外見の冴えない感じとは裏腹にぽっと灯る何かを持っている。
地下鉄でであったミコワイと再会し、彼の望みであった「彼を殺す」事を手伝ったカロル。
カロルもまたそこで一回死んだのかもしれない。
そこからはまるでコメディのように彼は成功してゆく。色んなアイデア、そして彼の魅力が見ているこちらにも伝わってくる。彼はその成功を「自分の葬式」という最大のイベントで幕をひく事を最初から計画している。引換えに手に入れるものは妻だ。妻をポーランドに呼び寄せられるか、これは賭けなのだ。
私は騙されていた。
これはカロルが成功して妻を取り戻そうとする話なのだと。
どんな時にもユーモアを含み、妻への一途な思いを絶やさなかった主人公は一世一代の大芝居をし築いた財産の全てを妻へ捧げその心を手中に収めようとするのだと。
しかしこれは全てカロルの罠だった。カロルは妻に復讐しようとしていたのだ。
彼はどんな事をされても妻を許していた訳ではなかった。彼は妻をある意味では憎んでいたのかもしれない。
だが…これは私の感じ方だが恐らく主人公は友人ミコワイと同じく「一度死ぬ」事によって自分の中の何かが変わる。
自分の葬式を覗き見る事で妻への復讐の中に秘められた妻への愛を、自分は到底捨てられない事に気づく。そして妻もまた自分を愛している事を確認する。
主人公は遠回りをして…妻も自分も騙して、結果的に自分の心も妻の心も手中に収める。大芝居は成功。賭けにも勝ったのだ。
平等を勝ち取る事は立場の弱い者にとってかくも難しい事なのだ。
昔怪物くん、今ワンピース
知らなかったのだけれど私は二重関節だったみたい。
二重関節というのは肩とか足の付け根の骨のはまりを押さえている腱が長すぎるために、そのはまりから外れてしまうという感じのもの。私は極端な二重関節じゃないから脱臼することはないのだけれど、通常の関節よりもだいぶ可動域が広い。だから足が肩みたいにぐるぐる縦に回るのかぁ。ストレッチしなくてもやわらかいのはそのせいか…
しかし、体がものすごくやわらかい代わりにセーブが利かない部分がある。どこまでも大きく踊れるけれど(だから実際手足が伸びるのだ…意識次第で誰でもそうできると思っていた)、まとめるのが下手だ。
床がやわらかければそのやわらかさになじんでどこまでも自分の体を遠くに感じられる。広い空間でも同じこと。どこまでも伸びて広がって、とめどがなくなって自分の体を振り回しすぎてしまう。
歩いていてたまに足の付け根の骨に腱がひっかかるのは長すぎて余っているからなんだ…。
色々わかった。
友達に極端な二重関節の子がいてその子はしょっちゅう肩が抜けていたので(意図的に脱臼できる。ダンサーというよりサーカスのひとみたいだ)まさか私があの仲間だとは思わなかった。
なので。
そんな私の体だからこそちょっと人とは違う注意をしなくてはならない。
【memo】
・プリエは膝が爪先を越えたら意図的に踵をあげる。そうしないと内側が使えなくて膝につながる筋肉が下へ下へ伸びてしまう。
・付け根は中に。膝は内側から横に。足首は中に。これで可動域を制限しつつ、でも真っすぐな腰を保つ。尾骨をコントラクションしない。
・ドゥミプリエの時に付け根をしめる。付け根をたたまないからアラセコンがつらい。たたむのは足の付け根の力ではなく骨盤のほう。
・音に遅れるのは最後まで使いきるそのスピードがみんなと同じだから。距離が長い分戻りをスピーディに。それからどこまでもいくからバランスをまとめるのが遅い。
・床を固いものと想像するとアレグロがうまくいくかも?今度実験する。
・肘も螺旋。踊りは全部細くねじりあがる螺旋。
ひとと違うなんて素敵な個性だけれど、でもそれだけにとどまってしまいたくない。それしかできない、それでしか使われないっていうふうにはなりたくないから。
どっちも身につけるようにちょっとやってみよう。
やりすぎなくらい踊ることはいつでもできる。
ちょっと押さえる訓練。制御することを覚えよう。
こうして関節がよく外れていると、今は腱が強いからゴムのようにまた引き戻してくれるけれど年とってゴムがきかなくなった時が恐い。
意外とそっちの筋力が足りないようなので、意識しよう。
課題だらけ。
楽しいけど。
ただ傍に。
フレドリクソンとの長い友だちづきあいで、わたしがいつも感心したのは、かれが、人の気持ちをしずめてなっとくさせるのに、なにもとくべつ意味のあることをいったり、むずかしいことばをつかったりしないことでした。
~ムーミンパパの思い出
焦っていろんなことを伝えようとしなくてもいいのかもしれない。
ただ目を見たりそばにいて感じる空気で、ある程度のことはわかるものだから。そういう肌の感覚で、意外とさまざまな判断はされているのかもしれないから。
私の通う美容師さんはとても丁寧にことばを選んでぽつりぽつりと話すひと。その空白に私はいろんなことを思う。
私は伝えたくて焦るばかりでその間を与えていないかもしれない。いや、話が下手だから話どおしというわけでもない。ただ、きっとその空白のなかには私が色んなことを頭に巡らすぐるぐるという音が響いているのだ。
ふと、そのひと自身に立ち返らせるその瞬間。
きっとこれは意識してできることではないのかもしれないけれど。
もしかしたら私がもっと冷静に、相手を感じたりしてみたらいいのかもしれない。
もしかしたら。
私にとって会話は組み手に等しい。
緊張しちゃって、変に力が入っちゃうとうまくいかないし(大抵そうなる)。
柳のように受け、効果的に打たないとな。
下手に手数をうつのだって、おもしろくてよいのかもしれないけれど。
子供の頃どうやって友達といたらいいかわからなかった。いつもおもしろいことを言ったりどきどきさせないといけない気がしていた。
黙っていて一緒にいることが平気でいられる友達ができたのはいつのことだろう?
でも小さな頃から私のなかのある部分は、基本的にはまったく変わっていないのだ。
おどろくくらい。
- トーベ・ヤンソン, 小野寺 百合子
- ムーミンパパの思い出
かげろう
そんなに思ったようにはすぐに自分を変えられるものではないなぁ。わかっているけれど。むずむずする。どういうスタンスでいたらいい?どういう風でありたいの?
私ってどんな風なんだろ。
おろそかにしないで済むことは全部。と思うけれど、やはり小心者なんだ。
きっと。
本気じゃないから。
本気でいたいと思える相手じゃないからなのかな?うん、たぶんそれもある。でもそれってとても…たぶん自分がもっと踏み込んだら変わることなんだろう。私は何をびくびくしてるの?どんな風に思われていたいのかしら。
いつだって大人の立場の自分と無邪気な自分が交錯する。そして中和。
複雑なんだか単純すぎて…世間知らずすぎるほどだからなのかわからない。
なにかわかるかな。
やっぱり私はいま宙ぶらりんに生きているのかもしれないから。
一日ひとつでいいから、本気で生きたり接したりしていると思えることを見つけよう。
しかし。
なぜこんなにいつも頑張ろうとするんだろ。
そっか。
それは自然体の自分が、とても不確かだからだ。
TRACKBACK
▼SONNETTEさん のおっしゃる“自然体”の定義をきいて、自分の書いた文章をもう一度読み直したら
なんだか発見がありました。
そうかあ、自然体って、自分だけではないのね。
ちゃんと対峙するひとや状況。それに向かう、もっとも呼吸の楽なプレパレーションのことなのかしら。
