ことだまのこと
どうしても遣り遂げたいことを私はことばにする。
少しくらい苦しいときにもことばにするときには前向きなことに変える。
「言霊」ということをことさら意識してきたわけではないのだけれど、自然とそうしてきた。
最近いろんな人が日記で言霊のことを書いていたり、あるいは言霊について感じさせるような記事を書いているところにぶつかる機会が多くて、たぶん今私の中で言霊がひっそりとブームなんだろうなと思う。
(おそらくこう書いたことでそれはいっそう強いブームになる)
いつもいつも良いことを言い過ぎてそれがさらりと軽くなりすぎてもいけない。私はどちらかというとそういうタイプかもしれないと思う。言霊は魔法と似ていて使いすぎるとMPの残りが少なくて小さな呪文しか唱えられなくなる。言霊を残したことでそれに一番影響されるのは自分なので、残したものによっては次の言霊の重さがかわってくるような気がする。だからことばは時と場合とその濃さを十分意識しなければならない。
つい鼓舞するように頻繁に自分に声をかけてしまうけれど。
自分の中にそれぞれ神様をもっているのと同じ。
だからなるべくなら愚痴や弱音は吐かないほうが、私の場合はいいなぁと思う。
たぶんこれはひとによるからあくまでも私は、ということだけれど。ひとによってはちゃんと吐き出してしまった方が良いこともあるだろう。
私はすぐいろんなものに染まる。たぶんそれだけいつもの自分がまだ(この年で“まだ”って…と思わなくもないけれど)白紙なのだろうと思う。分厚い白紙。表面の色はすぐに変わる。でも芯まで染み透ることは難しい。
この上っ面を、黒い言霊はすぐすすだらけにする。でも愚痴はすぐに増殖して必要以上に膨らんで深いところまで根を下ろす。
まだ未知のその芯を、簡単に占拠してしまうだろう。
とはいえつい、口にしてしまうものだけれど。
私の人生の目標の一つが「周りの人を元気にしたい」という何とも幼稚で単純なものなのだけれど、この言霊を残すことはそれに大きく関わっているのかもしれないなぁ。
言霊についてもっと知りたくなった。
名前の威力やことばの魔力。生活のなかにあふれるたくさんの波や流れ。
こういうのが日本にはたくさん神様がいることにつながるのかな。
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▼SONNETTEさん
の疑問をよんで、私もまたまたむむむ、って考えちゃいました。
言霊って、いったいなに??
私は言葉の表面の雰囲気だけでこうして日本語を理解しがち。
そういう捕らえ方ってもしかして本質を透かして見ているのかもしれないけれど、
こうやってつっこんで考えるとわからない。
アカームさん!
よかったら、なにかお返事ください。
mixiの日記を見て、ことだまのことを考えたんだった。
ブログのほうに、TBさせていただいたよ☆
光る葉を飛び越えて
私はあのひとの家まで走ることに決めた。
はじめは泥のなかを進むように足がとても重くてつんのめるようにしか走れなかったんだけれど、これは私の想像の中のことだからもっと飛ぶように走れるはずだということにする。
すると面白いように速く走れるようになって、知らない道をどんどん進んだ。
何故か月の出ている晩だった。
月は明るく私を照らしてしまう。足の速すぎるのを他の人に知られてはいけないという思いからか、私は道ではない道をゆく。
青々と茂ったおおばこの葉が月明かりに照らされて夜露で光っているのが見えた。さくさく踏む芝生、ちょっとくらいの柵も一足飛びにしてしまう。
本当に気持ち良く走った。
走ることが面白くて仕方なかった。
『トリコロール/赤の愛』
- ジェネオン エンタテインメント
- トリコロール/赤の愛
- 青の愛
と白の愛
とがしみじみと良かったのですぐ赤を観ようと思っていたのだけれどどうしてだかこんなに時間が空いてしまった。
イレーヌ・ジャコブが好きだ。
あの理性の温かみがあふれるまなざしと、柔らかな唇のラインがとても好き。
ジュリエット・ルイス(の演じる女性)のように半切れみたいな小悪魔みたいな女の子になることにもちょっと憧れたけれど、やっぱりこういう、瑞々しくてピュアな女の人になりたいな。
イレーヌ・ジャコブは赤が似合う。
『ふたりのベロニカ 』でも本当に赤の色が綺麗だった。キェシロフスキの色使いが好きなようなのだが、でもちょっと「赤」をちりばめすぎではないか…という気もした。何だか色をテーマにした習作みたい。そのシーンひとつひとつは文句のつけようもないほどに素敵なのだけれど、もうちょっとぐっとしぼっても良かったのではないかなあと3部作を通して思わないでもなかった。
赤の愛は包み込むような物語だった。イレーヌ・ジャコブの丸みを帯びた存在感にとても似合っている。受け入れて、許す。
人生において深く傷ついたとしても、もしかしたら本当に些細なあたたかみでその闇から抜け出すことができるのかもしれない。本当に小さなことで。
人の心はそんなにがんじがらめではない。だからこそすごく不確かで矛盾もたくさんあるのだけれど。
どんなことにも相反するふたつの性質があって、でもひとの心はそんなふうに柔らかだからこそその極は絶対じゃない。何かを掴むことが出来れば。なにかにやさしく包まれるだけで。水が染み込むように、凍てついた指先が解けるように、景色にちゃんと色が加わる。
そしてそんな関係を人と結ぶことは頭で考えるよりも実際は簡単で、ふいの出来事なのかもしれないな。
河に葉っぱがおちて、それが色んな岩にそっと触れながら下流を目指すように。色んなことに触れて、時には空を見て、色んな景色を見て、水に潜って。
優しく歩いてゆきたい。しっかり見つめながら。あのまなざしみたいに。
ジャン・ルイ・トランティニャンは『暗殺の森 』以来。複雑な人格を雰囲気であらわしていた。強さも弱さも、人生の皮肉も高貴さも繊細さも。ああいうさりげなさはやはり見事だなというほかない。役者としてだけじゃなくて人生を渡ってきているから、その上で塗り重ねられた厚みなのだろう。それが一番すごい。
一番印象的だった「赤」は、夜、黒い車のボディに映る強い赤い光。ほう、って感じで。
観終わって温かい、優しい気持ちになれた。
何があるわけじゃなく、こういう描き方が私はすき。
- おもしろかったのは…バレエのレッスン中にあんな風にうなっているひとはいないなぁと可笑しかった。
ティンカーベルの粉
とっても透明な黄色。今、あの樹々の葉っぱや幹の中でぐんぐん冬への準備が進められているんだな。
今週は激動の週だった(気持ちが)。でもこうして穏やかな気持ちで週末を迎えることができたのは友達のおかげ。周りにいるひとたちのおかげ。
最近ずっとこういうことを書いていて、もういい加減照れちゃうのだけれど、でも、本当だから。
ずっと伝えたかったことをちゃんと伝えることが出来た。そのせいでちょっとほっとしたのか、それともそれに対する反応の影響か、すっきりしたような、胸に空洞が空いたような、そんな気持ちになっていた。燃え尽き症候群みたいに。明らかにこれは私が歩き出した証拠だし、新しいことを手に入れるための準備段階だということは分かっているから心配はないのだけれど。
でもその、ある種の喪失感を抱えながら木曜日一日過ごし、そして夕方からお友達Nちゃんに会った。
私はそのきらきら光る目にとても惹かれて、ずっとその表情を見ていた。まっすぐな光をちょうどよいところにすっと投げかけてくれる、そういう話し方。私はこんなふうにちゃんと人に興味を向けているだろうか?うん、興味はある。でも、やっぱりどこか受身なのだ。待っている。甘えっぱなし。
私は自分に自信がないのだ。
いつだって、そう。
でもそれはただの甘え。
舞台に挑むときにはあんなに自信満々なのになあ。自信満々なふりができる。ちゃんとはったりを通せる。それができないのは甘えているんだ。誰かが私にかかわってくれるだろう、って。きっと甘やかされてきたからだ。可愛がられてきたから。
私がやっと今気付き始めた色んなことを、Nちゃんはちゃんと考えてる。すごいなあ。
私も色んなことを考えた。話しているうちにまた、意識していなかった自分を知る。素敵な体験。
本気でかかわること。
それが私の課題だ。
好きなら、もぎとろう。
Nちゃんのおかげで新しい切り口が生まれた気がする。
大切なあのひとへのかかわり方にしても。
ヒサシブリノコドク
よかった。
淋しさも膨らむ気持ちも前と似た笑顔も、そして絶望的な確信も。
なにもかも、味わえた。
これは私のたからもの。
またたからもの、ふえてよかった。
これを全部持って、
また私はぶつかっていくよ。
ほんと、チャレンジャーなんだわたし。それともMなのかしら。
この気持ちがちゃんと生まれ変わっても、
なにもなくならない。
私がそう決めたから。
つよく、まっすぐ思っていたから、このおもいを味わうことができたんだ。
よかった。
盲目になって本当に泥に落ちた子犬のようだったけれど。
それでもこれはたからもの。
それからこの今日の元気をくれた未来のデザイナーNちゃん。
ありがとう。