17:55

自分が愛されていることを知っているひとは強い。
今日、話した女の子から感じたこと。
両親に、兄弟に、友達に愛情を注がれてそのひとは力一杯前向きだった。話していてあんなにぐいぐいひっぱられるなんて。
なんて淀みなく話すんだろう。まっすぐ、だけどぶつけてくるだけじゃなくてちゃんと汲んでくれる。それが表面のことじゃないからきちんとここに届く。
私も勢い込んで、話したい、と思う。うまく話せないのはいつものことだけれど。
どうしてこんなに迷うのだろう。ひとつひとつに?もっと会話のなかに一瞬の反応で飛び込みたいのに。まるであまり会話に慣れていないひとみたいだ。触れられないうちに手放してしまうのは焦りなのか、ただあてどがないだけなのか。
ただ愛されているだけじゃなくて、ちゃんとその意味をしっているひと。
愛情をしっかり受けとめてすべて信じている。
強い、と思う。
幸せかどうかなんてそのひとのこころのありようだ。
私だって十分に恵まれている。大切なひとがたくさんいて、毎日あたたかく包んでもらっている。
こんなふうに気持ちがむにゃむにゃしちゃうのが恥ずかしいくらいに。強くいられるはず。
なのに、いつまでも実態がない。ふわふわと頼りがなくていつまでも空気を噛んでいるみたい。
友達のことばを信じることができないのではない。それは違う。受け取っていることはちゃんと信じている。たくさんもらっていてあふれちゃってるくらい。それはしってるし、ちゃんと感じている。
信じることができないのはただ、自分。自分のこころのありよう。だからこそもしかしたらこのままでは、こんなところでいつまでもぐずぐずしていたら私が本当に信じようとしていないのは大切だと思っているまわりのことすべて、ということになってしまうのかもしれない。
甘ったれで、臆病なんだな。
ときどきくやしいみたいな気持ちになる。
いっぱい受け取りながらいっぱい伝えたくて、なぜかしら泣きたいような気持ちになった。お昼を一緒に食べてて楽しい話をしているのにおかしいな、と笑いたくなった。
ほんと。このごろの私はおかしい。
ひとつひとつのことがやけにこころにこたえる。良いほうこうにも、ちょっとくよくよした方向にも。
でも心配はいらない。自分のことに悩むのは当たり前のことだもの。いまさら気付くことが多すぎて大きすぎてときどき愕然とするけれどゼロじゃないから、ましだ。少しましな私になれる。その通過を、しているのが今なんだろう。
たぶん。
なんだか何年も前から繰り返しているような気もするけれど振り出しに戻ることはないこともしっている。
本当はもっと真摯に深刻に自分を受けとめるべきなんだろうな。だけどどこか、楽天的で忘れっぽいから。自分に甘いから。それがだめだなとも思うのだけれど、落ち込んでも仕方がないからきっとちょうどいいのだろう。
うまくことばが生まれないこともきっとその変化のなかでもがいているから、だ。
結局私はひとが好きなんです、ってまあるい笑顔で言い切るそのひとを、うれしいようなかなしいような気持ちでみつめた。
私も言い切れるようになりたい。
なりたい、と思ったから大丈夫だと思う。
だらけた火曜の日記
宮沢りえは大好きな女優さんだし管野よう子の音楽もかっこよかったけどちょっとちゃちすぎたなぁ…
バートン・フィンクはまさかこういう話だったとは…と驚いた。はじめに感じた不気味さ、そのままでよかったのか…
夜は友達と恵比寿でフレンチ。お手ごろだし、おいしかった。レバーにはフルーツが合うんだと知った。
友達と話しているうちにヨーロッパへ行くはらが決まった。
オランダと、友達のいるマグデブルクには行きたい。できたらルクセンブルクのカンパニーにも遊びに行ってみたいしベルギーのお友達にも会いたい。
ベルリンでお世話になった先生や友達、ザールブリュッケンの友達やポーランドにも!…って、きりがないのだけれど。
明日にでも仕事先に相談。
大阪/海遊館

はじめは鼻の奥がつうんとした。
まだ私には未来の記憶があって、そこで呼吸をすることに体の中心が抵抗したから。
硬い感触を押し戻そうとする喉をなだめながらゆっくり細く呼吸する。
空気と味が違う、と思う。空気よりもそれは鼻の奥の壁を波立たせ、冷たく、それからほんのすこし甘い。
慣れると水は空気よりもきっちりと肺を満たして染みた。内から、そとから。
体じゅうを浸されて私は前に進む。
水を呼吸する夢をときどき見る。たぶん私がまだ魚だった頃の記憶。
★ ★ ★
海遊館には観察冒険ノートみたいなものがある。
ラッコの耳は水中ではどうなっているか観察して描いてみようとか、アザラシは何秒水に潜っていられるか計ってみよう、とか。
子供むけのものみたいだったけどもちろん挑戦。
面白い格好のラッコを描いたり写真を撮ったりを差し挟みつつ楽しみました。
これ、子供じゃなくても大人でも楽しいし、ちょっと難しい。なんじゃそれ、みたいのもあったけど。
海遊館消しゴムとシャープペンがついて300円。海遊館へお出かけの際にはぜひ購入してください。
室内が暗かったせいか(それともやっぱり腕のせいか)写真がまったくうまくとれなかった。
カメはこんなだし。
おばけ。

頬杖をついて一生懸命寝ているラッコもいた。眉間にしわをよせて、ずれるひじを何度も直している。
海遊館といえばいくつものフロアを抜いて作られている巨大水槽が有名で、私のなかでそのイメージは大きくおおきく広がっていました。
8F建てのフロア分の深さの水槽があるのだと勝手に想像していた。8Fからは海でも実際表面に近いところに生きている魚が、そして1Fからは海の底に生きる魚が(ひょっとしたら深海魚が)見られるのかと思っていた。
一体どれだけの強化ガラスなんだろう。どうやってメンテナンスしてるんだろう。
謎だらけでした。
しかし実際は3フロア半、くらいの水槽でした。横幅もあるから深い、という感じはそんなにしなかった。
私の思い込みはどこからヒントをえたものだったのか…。
よく考えたらちょっと不可能なのかもしれない。
でも、そんな水族館が見たいなあ。
ぐるぐると階を降りるにしたがってその広さを感じて、こんなに魚を見上げられる水族館はやはりない、と見入ってしまいました。
やはり、うまく撮れなかったけれどジンベイザメの遊ちゃん。

ジンベイザメは一番大きな魚。(くじらは魚じゃないから)
でもその肉は美味しくなくて、すりつぶしてかまぼこにされます。
という子供図鑑の知識は正しいのだろうか。
ハーモニカみたいな口に水が流れ込むことで呼吸をし、一生泳ぐのをやめることはないそうです。
岩影に頭をつっこんで寝ている(?)カメが可愛かった。


クラゲはなんだかセクシーでした。
照明のせいかな。
これなんかカトちゃんぽいし。

タカアシガニに囲まれて呆然とたたずむさかなくん。
エイリアンとか、重機みたい。かにって。
ひとが考え付くあらゆる造形は、もうすでにこの世にある。
ような、気がしたのは「ディープ・ブルー」を見たときだけれど、やっぱりどうしてこんないろんなかたち、色んな色が生きているのかと思うと不思議でしかたがない。



水槽に張りついてじっと魚たちを見ていると水中は乾いている、といつも思う。
水中の魚たちの肌はいつも全然濡れているように見えない。
大阪/可愛い雑貨屋さんとか
2日目は心斎橋をうろうろ。
日記のコメントやメッセージを頂いて知ったお店にも行きたかったのだけれど友達が予定してくれていたところを点々と寄る。
とても古いたこ焼きやさんがあって、近くにある鳩や原宿のひらひらの女の子みたいのがたむろしているちょっとした広場でたこ焼きをあつあつ、と食べる。とろとろであまり卵が入ってなくて美味しかった。
続いてたこせん。
たこせんって知っていますか?
大きなえびせんべいにたこ焼きとチーズをぎゅーっと挟んで食べるもの。私は知りませんでした。
私はこの、はさみものを食べるのが凄く下手で(マックのてりやきチキンバーガーとかも)具がいつもずるずる包み紙の中に落ちていってしまう。先回りして食べようとまわすとソースをこぼす。
まんまと白いマフラーにソースとマヨネーズをこぼして、がっかり。
心斎橋は原宿とか代官山とか新宿とかをごちゃまぜにしたようなかんじだった。あ、ここは代官山ゾーンだ。ここは青山ゾーンだ。とか。
ずっと欲しかった高いろうそくをアメリカンラグシーで見つけたのだけれど、やっぱり高くて手が出なかった。
安い感じの雑貨屋さんとか、大阪の若い男の子はこんなものを着てるのかーとかきょろきょろしたり、とても楽しかったです。
そして夕方からは海遊館に。
吹き抜け(?)の水槽をずっとずっと見たかったので今回の旅の目的はほぼこの海遊館でスケッチ!というものだったのだけれど。
海遊館に向かう道から見た空は本当に夢のような色の空だった。
昔、ここは天国かなあって思うくらい綺麗な七色の空の下の海岸に立っている夢を見たことがあって、その時の空の色にちょっと似ているような気がした。
慌てるな、走るな、と言われても走っちゃいながら乗った観覧車からは一番良いタイミングで夕日が沈むのが見えてため息がでました。
ここの観覧車は世界一の高さなんだって。
知らなかった。
可愛い雑貨屋さんで見つけた、壁紙に貼る遊び壁紙がとっても気になる。
26:56
今日は会社から帰ってきてずっと寝ていた。ご飯もそこそこに。友達へのメールの返信をしようと携帯を握ったまま眠り、気付いたら訳のわからない文章。
…眠くて仕方のない一日。
興味のあるカンパニーが募集を出している。望んでいたことなのに悩んでる。仕事のこともあるし英語も一歩も進む努力をしてこなかったから。
踊りに対しても。
ヨーロッパから帰って半年もあって日本でできることもやれてないのにわざわざもう一度外国にいくのは何故なのか、納得のいく説明が自分に対してできない。
色々考えているうちにつかえているのはそういうことだけじゃなくて自分の本質への不安なんだということがわかってきた。私を一番信じてないのは私自身。一番よくわかっているから。冷たさも恩知らずさも、だらしなさも(物質的なことも精神的なことも)。
やさしさを受け取ったり大切にしてもらってそのことが嬉しくてもなにもお返しする努力ができていない。いつかいつか、と思う間に時がたちすぎてもうそのことが適切でなくなってしまう。そんな恩知らずな自分に落ち込む。自分の責任だと十分わかっているのに落ち込むなんておかしいけど。
きっと失うまで私はわからない。痛い目を見るまで。その痛い目を恐れてる。きっと大きいであろうそのことを。
なんなの、その悪循環。断ち切れるのは自分だけなのに。
私が感じていることを友達が見破らないわけはない。それが恐いから私はひとに対して緊張するんだろう。女の子が恐いのはずっと男の子扱いされていたせいばかりじゃない。同性のほうが見破るからなんだ。
激しく感動したり小さなことにわくわくしたり。まっすぐだったりちゃんと透明なものに気付いたり。自分にはいいところもあると信じたいけどそれがからだの奥にまでちゃんと根付いていることなのかわからない。現実的な作業がついていっていないから、だ。
こつこつやることとか忘れないこととか後回しにせずあたたかいうちに片付けることとか。いちばん大切な部分が欠落している気がする。
いつもそのことに小さくちいさくしっぺ返しをされる。自信が持てないというしっぺ返し。その部分たちがいつか自分のましなところさえ曇らせるんじゃないかという恐れ。
はったりに実がついていってないことをどうにかしなきゃ。大切な気持ちは伝えなきゃ。あげたいものはすぐあげなきゃ。得たいものはすぐ手をのばさなきゃ。
もし輪廻転生がほんとうにあるとしたらきっと私は今回が人間初めてなんだろう。自分のことがこれほどわかっていなくてよろよろ危なっかしくていいのかな。。そのたびに逃げるように眠って、すこし癒されてむくっと起きて反省してみる。
後回しにしないこと。
気おくれに負けて好きなひとたちやものごとを見送らないこと。
…こんなこと自分の手元のノートに書けばいいことなんだけど。
はったり好きだから、書いちゃおう。
大阪で買ってきたオレンジのろうそくがいい匂い。

