アマヤドリ -134ページ目

呼吸のひとくぎり


昔のお母さんはやることがたくさんあった。障子は張り替えなきゃいけないし季節ごとに布団の綿も取り替えなきゃいけない。朝からご飯を炊いてお弁当を作って…。
お風呂に入ってラジオでそんな話を聞いているうちに、私がおばあちゃんに対して感じている毎日を丁寧に生きるという感覚のことを思い出した。

おばあちゃんはどこに出かけるでなくとも朝ちゃんと決まった時間に起きてお化粧をする。おじいちゃんにお線香をあげる。季節のくだものを買ってくる。食器を使ったら必ずきちっと洗い拭いて、もとの場所に戻す。
特別なことはない。当たり前に、そんなふうに毎日を繰り返す。

私は日本の感覚がとても好きで、日本の四季や行事や決まりごとが好き。
そういうものを楽しむにはそのために動きだすことと、次のイベントに進むための片付け、それから次のことへの間のようなものが必ずいるんじゃないかなぁとふと思った。
ひとつひとつのことを区切ることで個々のイベントが際立つ。
たとえば季節ごとに衣替えをしてタンスを入れ替えることは心を区切ることで、もしかしたら入れ替えもせずにただタンスをかき回していたら何の間も持てない。季節が変わることにもしかしたらほんの少し鈍感になるかもしれない。
曖昧にだらだらと切り替えなく乗り継いでいったら、丁寧にひとつずつシンプルに感じてゆくことはできないんだ、きっと。それぞれへの感覚が薄まってしまう。薄まってしまうと連続しているという感覚も稀薄になる。
区切るからこそ連続性を感じるなんておもしろいけれど、たぶんそういうことだ。

そういう繰り返しの積み重ねを味わうことが、もしかしたら私に必要で、そこを大事にできたらもっと色は鮮やかに見えるんじゃないか。という気がした。

それからこのことはまたまた、踊りにもつながるのでした。
面白い。

ゴッホ美術館/21.Feb


雨が激しくなってきたのでもったいないけれどバスに乗ってホテルへ帰ろう、と思ったところ、ゴッホ美術館を見つけた。
セキュリティの厳しいかんじの、新しい綺麗な美術館。
入った途端日本の男の子に「3日前にベルリンにいませんでした?」と訊かれる。びっくりしたのと、ベルリンには去年いたなあということと何日後かに行くよ、という思考がごちゃまぜになってしまって、なぜか「いません」という非常にそっけない返事しかできなかった。
愛想が悪すぎたせいかわからないけれど男の子はそれ以上なにも言わず、自分はもう帰るからよかったらこの日本語解説の機械を使ってください、とイヤホンを渡してくれた。
せっかく声をかけてくれたのにな、とその男の子が出口からでてゆくのを見送った。
到着2日目にしてすでに日本語を恋しくなっていたしなんとなく不安だったから、よっぽど追いかけてベルリンにいたかと言った理由を訊ねようかと思ったが、やめた。

ゴッホの色彩感覚を、ヨーロッパをあちこち巡り歩いてやっとすんなり受け入れることができるようになった。
特に薄い緑や水色の、べったりと厚い、ちょっと蛍光色のような明度。顔料みたいな質感。
電車から景色を見ていると草はらや空、雲がこんな重さを持っていることがあって、ああこれか、これだ、と思ったのだった。
いちばん好きだなと思ったのは甥の誕生日に贈ったという空いっぱいのさくらの絵。
空はちょっと萌黄色を含んだ鮮やかで重たい水色。さくらはとても軽い薄桃色。透けているかのような。
そのコントラストを綺麗だと思って、いつまでも眺めていた。

アナウンスのイヤホンを譲ってもらってよかった。
何も先入観なく見るのも面白いけれど、ああしてひとつひとつの作品の背景や、解説(これはゴッホの意図したものと合致しているとは限らないけれど、それでも)を聞きながら絵をじっくり眺めているとたくさんの部分に気づいて面白い。

私がなにかを創ろうとするとき、見る人のことをやはり考える。
こういう視線のうつろいが欲しいなと思えばそう導くようになにかを盛り込む。奥にこんなことが含まれてるんだ、と表したくて微妙な計算をしたり。
なぜか私はゴッホとか岡本太郎とか、モーツァルトとかはそういう意図的な演出をしないんじゃないかというイメージを勝手に抱いていた。何にも知らないのに、なぜか。技巧とか計算とかそんなもの関係なく、ぶつけているように(爆発しちゃったりも)思っていた。
だけど当然のことながら、それだけではない。




雨が少しやんだので街を歩く。
あとで気がついたのだけれど中央駅に向かって歩いていた。
アムステルダムは中央駅から放射線状に道が通っていて、中央駅から波紋が広がるように、水路が広がっている。
だからいくつもの橋を渡って。
バス停から離れるのが恐かったけれどずんずん歩いた。


オランダはやっぱりレンガ色。ベルリンで見たポツダムのオランダ人街はレンガばっかりのお家が立ち並んでいたけれど、ほんとうにそうなんだ。
それからゴッホの空の色。

INVOTISという雑貨屋さんがとても可愛くて、記憶に残った。

   

逆の作業、輪郭のこと


いたでを受けることなんかへっちゃらなわたしだ、と思ってきたのだけれどほんとうはかちかちしたところがあって、どうしてそこをかちかちにさせたのかの所以を忘れているにもかかわらずただ継続してまもっている。ようなところがあるのだろうと思う。
そこを解いたところで本当にいたでを受けるわけじゃないかもしれないのに。
というよりも、ただ、解き方がわからないだけなのかも。すっかり落ち着いてしまっているからかちかちの有りどころすらが、もうわからなくて。
だけど少し、今日はそこにするする糸がおりてきた感触があった。

これは踊ることだけじゃもちろんなく、私の性格すべて、私の問題すべてに関係していることだから、そこにひかりがあたったというだけでものすごい大きなきざしなんだろう。
きざしをきざしのままでほっておかないように。
ここでルーズになることがたぶん一番、かちかちにさらに殻をかぶらせる。

大きな助言だったり、そのことには直接触れなくてもあ、と気付かされることだったり、気付いたことをことさら意識できないまでもなにか景色の色や明度がかわったり、
いろんなしあわせにあふれている。

へんてこな自分を隠すようなへんてこさは、かなぐりすてたいな。
そうやって迷うことも悪くはないのだけれど。

もしこうして踊るなかでつきあたることがなければ、私はこんなに自分のことをこと細かに考えたり感じたりしようとしただろうか?

橙に染まる


仕事のあと渋谷のポルトガル料理やさんで干し鱈の料理ばかり食べた。
干し鱈というからもっと干物みたいになったものを想像していたんだけど、そうではなくて普通の鱈をちょっと燻したかんじ。味がきゅっとつまってて美味しかった。

彼女は来週シンガポールへ行く。
去年から、私はたくさんの人を日本のそとに見送っている気がする。

さくらの樹はだいぶきみどり色の葉っぱが目立つようになってきた。
お昼を食べに言った時に見たさくらは2メートルくらいしかないちいさなもので、なんだかおひなさまの飾りのように可愛らしかった。

おとなになって、
多くのことを赦せるようになった気がする。
ゆるす、というと偉そうでおおげさみたいだけど、「赦す」って書くと「許す」よりも胸の中に熱いつうんとするとろとろするものが流れていそう。
自分をわかってゆくみたいに、ひとに対しても大丈夫な部分が増えていっている。
一緒に、いま、いきてるんだから当たり前か。


夕焼けみたいなきもち。
たくさんのものをみおくる春、だからかな。

A to Z


柘榴のお香は落ち着いた甘さだった。
友達がやいてくれたCDを流しながら贅沢に眠りについた。
懐かしいかおりのする街の夢をみたような気がする。クリーム色の壁と、そこに寄り掛かって誰かとはなしをしているその私の蒼い影だけが目覚めた記憶のかたすみに残っていた。


今日はベルギーで仲良くなった友達と、行ってみたかったカフェへ。
表参道は訪れるたびに久しぶりのような気がする。くるくる景色がかわるからだろうか。馴染んだようで、やっぱりなじめてないからなんだろうか。

私が鈍感になっていることに気付く。
もやもやして進んでないのは私も同じなのかも、ということにも思い至る。
私は考えてないだけだ。だから動ける、ともいえるのだけれど。

あの日あの広場で出会ったことが不思議で、いくらでもよみがえってきそうなのに遠いような、だけどはじまりの胸がたかなるようなかんじ。

クレヨンハウスで『きりのなかのはりねずみ』を読んだ。
これも旅のおはなしだなぁ。それも、大冒険の。
こどもにつたえたい。
おとなだって、冒険してわくわくしたり心細かったりはてながたくさんあるんだよ、って。

つたえたいというのとはまた違うか。
そうありたい、ということかな。


もう葉っぱがだいぶんのぞいてきてしまったけれどさくらの、黒くてぴかぴかの石の壁に姿をおとしているさまは静かで、同時に鮮やかな艶があった。

ユーリー ノルシュテイン
きりのなかのはりねずみ