無題
どうしてだかひどく強くこどくに似たものを感じることがたまにあって、それをもう今まで何回も繰り返してきたからいつか過ぎることとは知っていつつもどうしようもなくくうを見つめてしまうことがある。
淋しいのならば誰かといればいいのだろうけれどそんなときはそれよりむしろ、ただ知らないひとたちを眺めていたほうがいい。
これはなんとか解決しようとしておさまるものごとではなくて、ただ急にやってきてまた去ってゆくものだから。
原因もちゃんとあってそれは全部うたがいようもないわたしのなかにあることだから、それがふと釣り糸にひっかかって浮かんできてしまうことだから。
わかってるよ、と針から外してもそれを戻す場所はやっぱりもとの、深いみずうみのなかでしかありえない。
よいしょ、と腰をあげて、また空を見たり歩いたりして、ゆるゆるとそれが沈んでゆくのを、待つ。
天窓から
からだやあたまに大丈夫だよ、と自信をあげることは大事だなぁ。身の程を知ることが美徳のような気がしていたけどやっぱりそれも行きすぎると、というか道を間違えると、ただ自分を押さえ付けることになっちゃう。
なんでも行きすぎると裏返しのだめな性質ばっかりのびてきていつのまにかそれに絡めとられてることすら気付かなくなるから、絶えず新鮮な空気を吸わなきゃ。
けれど行きすぎてみることも、大事か。
いつか気付ければ。
ものすごく素直な部分とからまっているような気がする部分。
いったりきたりを疲れる、と感じたこともあったけれど今はそうしてつくられてゆく複雑さがたいせつに思える。
自分にとってのただしさがわからないことにいらだちを覚えたりそれで失敗することはあるにせよ。
それじゃあダメだよ、というサインに敏感になりたい。
それでいいんだよ、は、必要以上に取り入れてしまおう。
初さくら、黒猫、人間の土地/22.Feb
湖を離れ住宅をぬって散歩をしていてさくらが咲いているのをみつけた。
まだ2月なのに。
信じられない思いで近づいてもやっぱりさくら。
もしかしたら日本のさくらとは種類が違うのかもしれないな。
だけどそれにしても早い。確かにさくらが咲いていてもおかしくないほどにあたたかいんだけど。
去年ドイツではさくらは帰るぎりぎり、4月の終わりだったような気がする。(今年は3月初旬にもう咲いていたから、やっぱりヨーロッパも暖冬だったみたい)
むくむくの大きな猫と逢った。
急いで近寄ると嫌われちゃうからちょっと近寄ってはそっぽを向いて、ふっと警戒が解けた隙にまた近寄る。
もうくるかな?という頃になってしゃがんで指を出したら向こうから近づいてきた。
大きいなあ、と思ってはいたが近づいてくるにつれてどんどんどんどん巨大になり、私の膝に頬を摺り寄せるにはちょっと頭を下げないといけなかった。
でかいねえ、と話しかけながら暖められた背中を撫でる。
黒猫なんだけどところどころ白い毛が混ざっているから、もしかして年をとっているのかな。
黒い毛はまるで人間の、元気な少年の髪の毛のような黒さと手触りだった。
黒は七色でできている。
しゃがんだ私のまわりをいつまでもくるくる回ってくれた。
太陽に、猫と一緒に照らされながらおなかが空いたなあ、と考える。
何しろ、ヨーロッパについてから買った食べ物はチョコレート一枚だけだったから。
朝食はちゃんと食べていたしその時にサンドイッチを作って夕方にまた食べていたけれど、ちゃんとした昼ごはんや夕ごはんを食べていない。
貧乏旅行だから、という理由ではなくてただ単に荷物が重すぎて買い物を躊躇したら、ホテルが田舎だからお店がなかったことと、緊張のためあんまりお腹が空いてなくて何も食べずにいた、というだけのことなんだけど…。
考えたら今私の体はパンとチーズとハムとバナナとみかんと卵とチョコレートと、それから水でできているんだ、と可笑しくなった。
きっとここで緊張が少しとけたんだろう。
おなか空いたね、と話しかけてから、立ち上がって猫にばいばいした。
オランダは海も空も港なんだと思う。
飛行機雲がとても多い。
上空は風が強くないのか、昔は飛行機雲だったということを忘れさせるくらいに太くにじんだ飛行機雲までなかなか消えない。
21日はものすごく雲が早かったのに。
嵐のように。
林も家の壁や屋根にも、たくさんの植物が絡まっている。
日本でも蔦の絡まっている建物はいくつも見るけれどそんなレベルじゃない。
層を成している。
たくさんの生き物がそこに、世界を作って、だけどしんとしている。
どこに移動しても、どれだけ飛行機で空を飛んでも、私もこんなふうに、入り組んだ生き物の世界のなかのひとつ。
「人はどれだけ自由だと思っていても井戸からへその緒が離れることはない」
と、旅行中に読んだサン・テグジュペリの本に書いてあった。
砂漠に落ちた彼が、その渇きにからだもこころも打ちのめされそうになったときに、ひとはしょせん水からはなれては生きてゆけない、ということを言ったものなのだけれど。
私は今、切実にどこかに縫い止められているんだろうか。
想いはどこかにつながっていなければ生きていられない気がする。
だから旅は、誰かがどこかで待っていてくれないと(または待っていてくれると信じないと)できないのかもしれない。
旅をしていろんなことを感じるのは自分。
それらはすごく個人的な体験にほかならないと思っていたけれど、やはり自分のなかに留めてそれで満足、というだけじゃない気がする。
だから写真を撮るし、ハガキを送るし、こうして日記に書き留めたりする。
まったくわたしだけのものだったら、誰ともなにともかかわらないものだったら、そんなことはしない。
誰のことも想ったりしない。
誰かが待っていてくれる、想っていてくれる、ということじゃなくてその誰かを想うことこそが、自分をたすけてくれるのかもしれない。
水と鳥とみどりとレンガ/22.Feb
朝ごはんを食べて、ちょっとだらだらしてから12時まで散歩することにする。
フロントのひとに地図をもらって近くの湖に行く。zildelmeerという名前。なんて読むんだろう。何度聞いても聞き取れなかった。
meerというのはどうやら、湖とか水っぽいものを表す…んじゃないかなと思う。海とかの語源と似てるのかな。aalsmeerもだったし。
母音をつなげる字が多い。
湖に接近してゆくと林が見えた。まだ茶色い、目覚たての林。
ドイツにいるときに冬から春を経験してその時に感じたのだけれど、まだ葉のない枯れた(ように見える)枝から小さな春の芽がふいてくるとき、近くで見るよりも遠くから見たほうが全部が緑に見える。
近づくとやっぱり芽はほんの先っぽがでたばかりですかすかの枝ばかりが目立つのに、遠ざかって見ると芽吹いた命のほうがつよいのか、きみどり色の霞がかかったみたいに全体を包んでいる。
これはさくらの花にしても同じこと。
林にはとにかくたくさんの鳥がいた。
鵜のような真っ黒で、頭からくちばしまでが白いのとか、澄んだ声で鳴くやつとか、小さくてちょこまか枝から枝へ飛びまわってるやつとか、やっぱりどこにでもいるカモとか、カモメとか。
あと、青灰色のこうのとりみたいな大きな鳥がいた。あいつはいったいなんなんだろう。あんなでっかい鳥、動物園でしかみたことない。
湖のほとりにベンチがあって、そこに座って鳥たちの声に包まれた。
旅を通して感じたことだけれど、これだけの色んな鳥の声を聞いたのは初めてかもしれない。
これはあきらかにちゅん効果で、私は日本でももうヒヨドリの鳴き声は完璧に聞き分けられる。
他の鳥のことはまだまだわからないんだけど、鳥のうたをこれほどに意識するようになって、聞こえてくるようになったのはちゅんのおかげなのだ。
座っているとだんだん陽が照ってきた。顔がほかほかするくらいのあたたかさ。
みどりたちがだんだんきらきらしてくる。
木の幹とか水の表面に白っぽい顔料みたいな色の鮮やかなみどり色の苔が覆っていて、ゴッホ博物館でみた絵のみどりがこんな蛍光色みたいなつよさだったことを思い出す。
灰と水色は空の色だから好きだ。
レンガの深い赤茶と、くすんだ紺色の屋根。
厚い色合いの景色。
オランダは水田のようだと飛行機で思ったけれど、ベンチに座っていたら足下に水がひたひたとあがってくるような気がした。
まっ平らな静かな水のうえに、薄くのばしたシートのようにまっ平らな土や芝。
水路がはり巡らされているんじゃなくて、その逆。
水の上にシートのような薄い地面が這っている。
樹は枯れていて深い黒に近い茶。
ごつごつしてグーをしているみたいな枝先。
そこに羽毛のような下草。黒や、赤い実。
カラッポ
やっぱり!こんなに素直に動くことができなくなってる。
なんじゃこりゃ。
きっとこれは頭からだな。
最近壊れそうになるくらい踊っていない。あの、もう死ぬ寸前くらいまで踊ってひたっと頭が停止して感覚や流れだけでからだが動き、軽くなる感触。自分の心臓はからだのあちこちで打ってるのに、澄み切ったように静かでどこまでも跳べそうな。このまま息が止まるまでむちゃくちゃに走っていられそうな。
私はたぶん基本的に野性のひとなので、そういうぎりぎりが必要なんだろう。
全部忘れよう。ときには。
ただ生きてるみたいに、ひかりを浴びたりしてるみたいに踊ってみよう。
…ときには。
手放すこともしないで、でも全部をさらってこよう!っていう努力もできないなんていやになっちゃうな。
稽古、けいこ。
むかしは、踊りのことだけじゃなくて本当になにも纏っていなかった。野放しでいっときもからめとられることがなくて、自然だった。
むかし、ってどのくらいむかしかはわからない。実際には小さいころから色んなしょうもないことを考えてぎゅっとなっていたことも記憶しているから、もしかしたらいつかそこにかえろうと思ってからだやこころのどこかに居させていた、という感覚のありかにすぎないのかもしれないけど。
いつからかな。
変と思われないように、とか当たり前ってどんなんだ、とか、へんにかっこうつけちゃうようになったのは。
ああ、いやだいやだ。
もう脳みそに呪縛をかけるのはやめよう。




