アマヤドリ -135ページ目

呼吸、虹のろうそく



リハーサルの後友達とガレットを食べる。
寒くて変な天気の一日だったけれどそこから切り離されたみたいにあたたかいサスが目の前の顔におりていて、つくる影をずっと見ていた。

友達とこうして深い話をすることが増えた。
そのたびに練り直したり、ちいさく発見したり。
もどかしいな、ことばって。でもそのもどかしさ全部で伝わっていることもあるのかもしれない。たとえ正確にそのことをさせなくてもお互い響いたり、ちかちか遠くにヒントのひかりが見えたり、たぐりよせたり。
これもそう、答えばかりを求めてるわけじゃないからいいんだった、とおいておけることはそこに、漂わせておく。

いくつになっても確信したと思えることがほとんどみつからなくていつも手探りだ。
香りはする。
色の温度も感じている。
だけどぴしりと定着することがなくてふわふわと綿毛のように遊んでいる。
ずいぶん年下の友達と話して、そんな部分も曇りなくすっとことばにしたりよどみなくつかんでいるらしいことを感じると、はぁ、私はほんとにどうしたものだろう、と苦笑いしたくもなる。

けれど。

私だけはわたしの歩みを否定してもはじまらない。
ちりちりと積もってきたことがいまようやっとすとんと落ちてきた(らしい)ことは認めてあげていいし、すとんと落とせないこの感覚をただ感じる、そのなんともいえない心地も知っているのだもの。

今日は柘榴のお香を焚いて、寝るんだ。

回廊


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とても体が重かった。
身軽になりたかったからではないから、そのことに驚きはしなかったけれど。

頭のてっぺんから目の奥も、ふくらんだみたいな舌も。みぞおちもぞくぞくする膝もしっとりした足の裏も。
吸い込む息は芯ばかりを冷やしてすきまに痛みを運ぶ。

だけど、わからなかったことをわかるようになった自分にまた気付く。
このことがどれだけのことなんだろう、と思わなくもないけれど。このことが誰を慰めるでもないことも知ったのだけれど。

細かい雨が降って、
私はそこにある出口にむかって目を塞いだ。

目覚めた春の陽


200704041111000.jpg ガーベラはとても強い花で、切り花にしても長くもつ。
してはいけないのはたっぷりの水を花瓶に入れること。上の方まで茎を水に漬けると傷みやすいから水は切り口がひたるくらいのほんの少しでいい。

ガーベラは強いけれど土のなかから出てくるのもすごく時間がかかる。
じっと辛抱強いところもこの若いときの感じも、少しひまわりに似ている。


ガーベラの葉っぱってあまり見たことがなくて、花が開くまでずっとこれをガーベラだと知らなかった。

おひたしになりそう。
ちょっとちくちくだけれど。



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ふたりを見送る



夜桜を見にいった。

赤いぼんぼりに照らされたさくらはこまかく燃えているようだった。

とっぽぎとバターたっぷりのじゃがいもとお好み焼きとやきそばを買って小さいテーブルを囲む。
さくらの花びらが髪にからまる。
冷えて少し震えてくるまでずっとその時間がつづくような気がした。

漆黒の空、かすみのさくら、照らす屋台。




一緒に曲を聴きながら、ふたりはなんてはげしく私のこころを通り過ぎていくんだろうと思う。
夏の終わりのように。
音楽が耳にいつまでも反射している。

まぶしくて見つめているだけで精一杯のような気がしていたのに、いつのまにかじっくり目を見ている。
おだやかに祈る。
確信する。

2度目の淋しいは、1度目の淋しいの残像をもういちど嗅がせてゆく。
もういちど、ふたりを見送るみたいな気持ちになって胸がきりきりする。

だけど、祈ったのもふたりぶん。
託す思いも、大丈夫だよの送るちからも。
楽しみだなと思うわくわくも。


どこにいても、
また夏みたいに遊ぼう。





さくらデート/『パリ、ジュテーム』

今日はたぶん5月の舞台までの間の最後の完全オフ。
年始からずっと逢いたいねー!と言っていた友達とデート。
小さな公園でさくらを見ながら延々とおしゃべり。こんなに話すことが尽きないってすごい。
一緒にいて何も話さなくてもその空気だけでふふっとなれる友達もいるし、こうして自分や相手のどこかいつも触れないところを掬うみたいにことばが出てくる友達もいて、なんだか不思議。なんだか幸せ。
土曜日に約束していたお花見は仕事疲れでいけなくなったので(B級グルメのみんな、ごめんね。)今年初めてのお花見らしいお花見はささやかに、だけどゆっくりと時間をかけてとけこむように楽しんだ。

話に夢中になりすぎて危うく逃すところだったけどぎりぎりに映画館にすべり込んで『パリ、ジュテーム』を見た。
パリの風景をつい最近見たということがとても不思議だった。「ここ、歩いたなぁ」って思う日がくるってことが。
やっぱりまたもう一度『サクリファイス』を観なきゃと思う。

すごく心に響いたのが最終話。
ごく普通のおばさんがパリに憧れてフランス語を勉強してパリに来てみました、というとても静かな、地味なお話。
おばさんも地味だし心踊るドラマがあるわけでもない。ひたすら地味な場所を歩きめぐる。せっかく習ったフランス語で話し掛けても英語で答えられちゃったり、出会いにつながるなにごとも起こらない。
素敵な景色を誰かと共有できるわけでもない。
だけど彼女はわくわく憧れてたパリを見回す。あんまりわくわくしてるように見えないけど、胸のなかはどきどき興奮もしている。
そして同時にいろんなことをひとり心のなかで考える。
人生のことや孤独のこと、友達のことやこれからのこと。失ったこと、諦めてきたこと。
地味だと思っていた表情はときおりすごく魅力的な表情をのぞかせるようになる。
『バグダット・カフェ』みたい。

あるちいさな公園でサンドイッチを食べながら、他のひとにとってはただ日常にすぎない風景のなかにちょっと居心地悪くも溶け込もうとしているうちに、なにかが彼女のなかに流れ込んでくる。突然、ふいに。
そして彼女は涙する。
突如として生きていることを感じたから。
…なのかな。
あたりが急に輝いて、すべてのひとの幸福を祈るような気持ちになって、急になにもかもがいとしくとびこんでくる。
…うまくいえない。でもきっとそんなようなこと。
そのことがすごく幸福で、だけどなぜかしら悲しみが含まれている。悲しみのようなもの。
だけどその悲しみは、今自分が生きていて、いとしさを感じているんだという大きな喜びの前ではちいさなこと。
そんなすべてをいっぺんに感じて、の涙。
私は今パリにいてパリを愛しているし、その瞬間、パリが私を愛していることを感じる。


セリフひとつひとつ、この気持ちなにもかもにとても覚えがあった。
私が初めて外国に行って初めてひとりでコペンハーゲンを歩き回り、帰りのフェリーの甲板でわんわん泣いたのは、たぶんそういうことだったんだ。
そういうことだろうとは感じていたんだけれどそれをこんな簡単なセリフ、こんな簡潔な表現のなかですべて、まさにこれだった、って確かめさせられて、胸がいっぱいになった。

ひとっていとしいな、と思う。

このお話がこんなに胸にせまったのは友達といろんな話をしてすごくわたしのこころがすっとなんでもつるりと受け入れるすがたになれていたから。

ときどきこんなふうになれることがある。
こころやからだが透き通って、なんでも鮮やかに映せるとき。
夜道の闇も透明で看板のひかりすらきらきら見えるとき。
こころがふくらんですべてのものに包まれて、私も触れに行っているという感触。
今踊りたいなぁ。そしたらすごく、しなやかで駐車場のパイプや電信柱にすら響くかも。
いつもこんなんでいたいのに。

泣きたいような、いつまでも永遠に歩いていたいような、気持ち。


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ちえさん