グレゴリー・コルベール展/旅する美術館のこと
お台場にあるノマディック美術館にグレゴリー・コルベール展へ。
「旅する美術館」という響きに魅かれていたからこちらの会場に行けてよかった。
移動式美術館と聞いて私が考えていたのは、芯は鉄骨というよりも中空のパイプみたいな金属で組み立てられていて、軽い材質のクリーム色の壁、たとえばプレハブみたいな薄さだけどもっと薄い板や曲げわっぱみたいなものにふちどられたイギリスパンみたいなかたち…だったのだけれど、実際には壁は…。
(これから先は知らずに行ってわぁーって楽しみたいひとは読まないほうがいいのかも。でももったいぶるほど、他のひともうわぁーって思うのかわからないんだけど)
壁は、コンテナでできている。
コンテナって、夜中の線路を走る貨物列車が運んでいるあの貨物部分なんだけど、それが市松模様につまれている。
つまりひとつのコンテナの真上にはコンテナがなくて、上の面の左右に、次のコンテナがぎりぎりで接続されて載せられている。真上には何にも載っていないことになってそれじゃあ穴だらけの建物になっちゃうから、その穴はフライタークのかばんの素材みたいな布でふさがれている。
…わかりにくい説明。
コンテナ、布、コンテナ、布…が一段目だとしたら、二段目は布、コンテナ、布、コンテナ…というふうに並んでるということです。
…市松模様、でわかるか。
とにかくこんな重たそうな素材で壁ができているとは思わなくてびっくりした。
中に入るとキッチンペーパーの芯のもっと丈夫な感じのものが柱になっていて、テントみたいに張られた布が風に吹かれて波を運んでいた。
なんだか閉ざされた船のおなかのなかにいるみたい。
ブースは3本の道に別れていてその道の左右にセピア色の写真が印刷された紙が重たくぶらさがっている。
作品だけじゃなく見ている私たちにも時々スポットが当たり、その空間をかたちづくるひとつになったように感じてみる、こともできる。
風がとても強かったこともあり、ざあっとかばたばたとかがたがたとか、重い音が押し寄せる。
会場のなかには心地よい音楽が流れていて、そこに風の音や振動が混ざると思わず空をみあげたくなる。
波を目で追って、風のかたちを確かめる。
途中お手洗いに案内してくれたひとと話したんだけど、「今日のこの風の音がすごくいいです」って言ったら嬉しそうに「ありがとうございます」とにっこりしてくれた。
会場は穴だらけなわけでもないのにやはり隙間があるのか、広い空間のなかはすうすう冷えた。
でもそんなぴったり閉じていないところがいいと言ってくれるお客さんもいるんですよ、と少し嬉しそうにそのひとは言った。
向こうに見えるのは東京ベイコート。
できてきたんだー…。
『人間失格』
ベルギーで出会った友達が譲ってくれた本。帰りの飛行機のなかで一気に読んだ。
はじめにこの本を読んだのは中学生の時だったかな…。あまりちゃんとした文学を読んだことがないのだけれど、教科書に載っていた太宰治がかっこよかったから読んでみたんだと記憶している。
だけどあまりちゃんと読まなかったのか、理解できなかったのか…当時はやたらと気分が落ち込んだのを覚えてる。
でも今この年になって読んでみると全然落ち込むような要素はなかった。どうしてあんなに救いのない気持ちになっちゃったんだろうな?
自分も、闇を抱えながらもそれを表に隠して生きているように思っていたからだろうか。
だけど物悲しいきもちになったことは確かだ。
ひとはどれだけほんとうの気持ちをまわりに伝えられるんだろう。伝えようとしていることを受け取れるんだろう。少しずつすれ違うことを許せなくて諦めてしまったことを修正することはとても難しい。
本気で接すれば接するほど体力を使うし、そうしないでいようと思えばそれはそれですうすうと身軽になり、戻れないと思うと切ない。
私は常々どんなひとにもいい顔をしてしまおうとするし、そこに濁った感情がないからこそ余計に自分の存在がふわふわととりとめなくなってゆくのを感じる。
ひととの関係に悩まないひとなんてきっといない。悩んでないなぁ、って思っているひとがいるとしたらきっとそれはちゃんと頑張ってぶつかっているからだ。
信念を持たないでひととおりにこにこしていることはたやすくて、いつのまにそんなつまらない術を身にため込んでしまったのだろうと思う。
結局私は自分のことばかり考えちゃってるのかな、というのは一番いたいところ。
だから、やっぱり切り付けられたりずしりと目をつぶっちゃいたくは、なったかもしれない。
太宰治はおもしろいひとだったような気がした。
ひとが好きだという目線を世界に向けていたような。
たぶん。
- 太宰 治
- 人間失格
まだ、薄目。
こんなに自分の体は非冗舌だったのか、と何度も下を向きそうになる。
まだしみ込んでいないから当たり前。まだ何の積み重ねもないから。
でもそれにしてももっと一瞬でとらえられるものだと思っていた。できることしか思い切ってできないなんて何だか悔しいな。
バレエの稽古ではいつも、なるべく丁寧にバレリーナのふりをしてやろう、と思う。私に欠けている正確さ、繊細さ、ひとつにまとめることを覚えたいから。派手に動くことはいつでもできる。崩そうとしなくてもくずれちゃうから、まずはかたちにすることを覚えさせたくて。
だけど崩すこと、大胆に動くことへの過信も痛感しているから、いちからつくりあげなきゃいけないと思う。
今からでも間に合うのかな、という気持ちはいつもあって、だけどそれを何年もひきずってしまっていてだめだな。
間に合うのかなじゃなくてどうしたいかということしか本当は問題じゃない。間に合わせたければやるしかないしその先のことはわからない。むにゃむにゃ考えていたって。
とにかくまだ隠れているたくさんの感覚、手放してしまった感覚を取り戻さなきゃ。
同じことを繰り返したってかまわないしすべてを掴みきれなくたっていいと思っていた。
だけどそれはあくまで、その取り逃がしたもののことを考えることで大事な、上向きな気持ちだったらすんなり受け入れられるはずのものを台無しにしてしまうよりはましだ、という程度のもの。
少し勘違いして自分を甘やかしすぎたかもしれない。
ぼんやりしていても感じたり、得るものはある、なんてやはり都合がよすぎる。それじゃほんとうに、何も得ないまま堂々巡りをしてそのことに気付かないということになる。
感じただけのものをかたちにできなくて必要以上に悲観的になりたくはないけれど、からだのどこかにあるよね、とひとごとみたいな顔をしていたら本当にすぐにさっと風に吹かれて持っていかれてしまう。
もっと自分に問いたださなきゃ。
うまくひとに説明できるくらいにはっきりと。
ひとにそのかたちが見えるように。
私がどこに向かいたいのか、なにを見せたいのか。
どんなかたちを大事にしていてどの音をどうつかうのが好きなのか。
自分すら気付かないことをいつのまにかにじませたりものがたったり、ということはもちろんあるしそれは素敵だけれど、そこに負いすぎているといつしかすかすかの部分が生じてしまう。
うまくその両方を一瞬で取捨選択して進んでいるつもりだったけれど、過信、とはそういうことで、やはりなんとなくでも鋭くそこを縫ってゆくのとぼやっと振り向くのとは大きな違いがある。
感覚を信じながら、信じる礎を築くこと。
バランスってそういうことか。
『キリクと魔女』
気になっていてTSUTAYA DISCUSの予約一覧にも入れていたのだけれどBSで放送していた。
『プリンス&プリンセス』は影絵だったけれどこれは違った。でも影絵のような切り絵のようなテイストはそのまま。影絵の時にはさまざまな色に輝きちりばめられた光と影のコントラストが印象的だったのだけれど、今回はもっと地に根を張った色合いが画面全体に大胆に広がっていて、これもまた素敵だなと思った。
作者は葛飾北斎にも影響を受けているみたい。
北斎のお話もあったものなぁ…。
お話はすごくシンプル。
村人を恐れさせている魔女に、小さな赤ちゃんであるキリクがたくさんの知恵や勇気で立ち向かうというもの。
教訓めいたセリフがあったり、ひとの心が創りだす呪縛のこと、主人公が特別なちからを持ってるわけじゃなくて(キリクはとんでもなく足が早いけれど)ただものごととまっすぐ向き合ってみることの強さ、のようなものを描いているところは何だかマンガ日本昔話と神話の中間みたいな感じなのだけれど、それだからこそシンプルにどきどきわくわくするし、時々セリフにぐっと掴まれたりする。
キリクが「大きくなりたい」と言ったのに対して、小さいからここまでこれたんだ、とおじいさんが言ったことが印象的だった。
望むことは大事だけれど今の自分が何をできるのか、「もし~~だったら」という仮定のうえだけで考えるんじゃなくて今のこの私をもって、何ができるのか。何を感じられるのか。
こんな自分だからできない、というんじゃなくて、自分だからできること。または、できないから考えたりもがいたりできること。
ラストの展開に驚かされたという話を聞いていたのだけれど昔話にはよくある概念だし、『プリンス&プリンセス』のなかにもこういう流れ…というかひと同士の理解とか、もっと言うと大きな意味での自身の克服、みたいなものが描かれていたのだと思うから驚きはなかった…けれど心を動かされないわけではなくていつもああいうお話を見ると人間の不思議な真の部分を感じるような気がして胸が踊る。
吹き替えで見たのだけれどキリク役の声がすごく可愛かった。
『ハウルと動く城』の見習い魔法使いの声と同じ俳優さんなんだけど、好きだなぁと思う。
声だけじゃなくてドラマやCMに出てくるとこの子はいいなぁと思っていた。くちびるの表情が可愛い。…とか言うとなんだかエロおやじみたいかな…。だけど魅力的なくちもとをしている。
昨日何かで写真を見たら、もうそんなに小さくないみたい。ずいぶん前から活躍しているから当然なんだけど。
あとこのひとの絵の人物の体のラインが素敵。
しなやかな筋肉の張りやその下の伸びやかな骨が伝わってくる。
甘すぎない達観や妙な冷めも、嫌いじゃない。
Rijksmuseum Amsterdam/21.Feb
スルさんたちが話題にしていた美術館はたぶんこれ!と思ってRijksmuseum Amsterdam
へ行くことにした。
ホテルフロントのひとに訊いてバスに乗ると(本当にバス停はすぐ近くにあった…)、中心地まではバスで30分近くかかった。
バスで30分って言ったらたぶん新宿から埼玉に入っちゃうくらいだよね…そりゃあ、空港でこの住所を訊いても誰も知らなかったわけだ。
しかも私が目安にしていたaalsmeerというのは大きな湖の名前だった。その湖方面のバスには乗ったけれどそれで目的地につけるはずもない。
日本だったら絶対しないそんなことを、どうしてしようとしちゃうのかなあ、私は。
以前新宿のアルタ前で「成田空港はどこですか」と外国の人に訊かれてびっくりしちゃったことがあったのだけれど、あのひとを私は笑えない。
バス停を降りるとどこに美術館があるのか分からなくてきょろきょろしたけれど、大きな広場があったしひともそちらに流れてゆくので恐るおそる芝生をつっきることにした。
あ、これだ!というのがあって一安心。
ヨーロッパでこんな大粒の雨に出会ったのは初めてだった。去年のドイツは寒くて、いつも雪だったから。土砂降りが急に襲ったこともあったけれど雨というよりは霙とか吹雪のようだったから…生ぬるい、だけど最後には冷える雨、というのは初めてだった。
うつむき気味にエントランスの矢印をたよりに進む。
入り口の込みように帰ろうかと思うが、ただの荷物預けの列だった。
多分ちょっと気が弱くなっている。
帰ってしまったりせずに良かった。
レンブラントは鼻の付け根の描き方に特徴がある、と思った。
すごく惹かれたのはおばあちゃんの絵。手のしわがすごかった。
あんなにやわらかそうな…触れた感じや、おばあちゃんの匂いがふんわりと漂ってくる感じや、少しひやりと冷たくて奥はあたたか、皮膚の向こうの骨を感じる絵。血管も。
すごいと思った。
フェルメールは人気がありすぎて話題になりすぎていたからちゃんと見るまで信じないと思ってきたが、何度か実物を見て「好きかも、すきなのかも」という風に高まってきていた。今回、確信に変わった。濃密さと透明感はずっと見ていても飽きない。
ここには私の好きなブリューゲルもあったし、火事場をスケッチした特集みたいのもあって結構じっくり見たのだけれど、次に行ったゴッホ美術館
のことばかり私のノートには書いてある。
資料をもらってきてあるから、また思い出して追記します。


