まだ、薄目。 | アマヤドリ

まだ、薄目。

なかなか難しい。
こんなに自分の体は非冗舌だったのか、と何度も下を向きそうになる。
まだしみ込んでいないから当たり前。まだ何の積み重ねもないから。
でもそれにしてももっと一瞬でとらえられるものだと思っていた。できることしか思い切ってできないなんて何だか悔しいな。

バレエの稽古ではいつも、なるべく丁寧にバレリーナのふりをしてやろう、と思う。私に欠けている正確さ、繊細さ、ひとつにまとめることを覚えたいから。派手に動くことはいつでもできる。崩そうとしなくてもくずれちゃうから、まずはかたちにすることを覚えさせたくて。
だけど崩すこと、大胆に動くことへの過信も痛感しているから、いちからつくりあげなきゃいけないと思う。

今からでも間に合うのかな、という気持ちはいつもあって、だけどそれを何年もひきずってしまっていてだめだな。
間に合うのかなじゃなくてどうしたいかということしか本当は問題じゃない。間に合わせたければやるしかないしその先のことはわからない。むにゃむにゃ考えていたって。

とにかくまだ隠れているたくさんの感覚、手放してしまった感覚を取り戻さなきゃ。


同じことを繰り返したってかまわないしすべてを掴みきれなくたっていいと思っていた。
だけどそれはあくまで、その取り逃がしたもののことを考えることで大事な、上向きな気持ちだったらすんなり受け入れられるはずのものを台無しにしてしまうよりはましだ、という程度のもの。
少し勘違いして自分を甘やかしすぎたかもしれない。
ぼんやりしていても感じたり、得るものはある、なんてやはり都合がよすぎる。それじゃほんとうに、何も得ないまま堂々巡りをしてそのことに気付かないということになる。
感じただけのものをかたちにできなくて必要以上に悲観的になりたくはないけれど、からだのどこかにあるよね、とひとごとみたいな顔をしていたら本当にすぐにさっと風に吹かれて持っていかれてしまう。
もっと自分に問いたださなきゃ。
うまくひとに説明できるくらいにはっきりと。
ひとにそのかたちが見えるように。
私がどこに向かいたいのか、なにを見せたいのか。
どんなかたちを大事にしていてどの音をどうつかうのが好きなのか。
自分すら気付かないことをいつのまにかにじませたりものがたったり、ということはもちろんあるしそれは素敵だけれど、そこに負いすぎているといつしかすかすかの部分が生じてしまう。
うまくその両方を一瞬で取捨選択して進んでいるつもりだったけれど、過信、とはそういうことで、やはりなんとなくでも鋭くそこを縫ってゆくのとぼやっと振り向くのとは大きな違いがある。

感覚を信じながら、信じる礎を築くこと。
バランスってそういうことか。