2度目のGroningen/23.Feb
電車の窓からIKEAが見えた。さすが本場…すごく大きかった。列車の長さくらいある倉庫。荷物が重い。
このままだむきむきになるか、腕がどうにかなるか、どっちかだ。
次に旅をする時には半分の大きさのスーツケースにしようと思う。
1年ぶりのグローニンゲンだ。
とったのは、1年前と同じホテル。中央からは少し遠いのだけれどもう勝手も分かっているしグローニンゲンはアムステルダムと違ってバス代も安い。(アムステルダムは一回乗るのに2~5ユーロだったけどグローニンゲンは1ユーロ。)
一度行ったところにいくって、なんだかいいな。
行きの電車の窓からは色んなものが見える。
アムステルダムから北へ向かうにつれて水っぽい土地がしっかりした大地になってくる。
この感じはドイツに入るともうとっても確固たるものになるんだけど…
色んな動物を見た。馬や、ひつじや、牛や、それからびっくりしたのだけれどだちょうまで。
だちょうは普通に、馬とか牛の柵に囲われていた。
だちょうってあたたかいところの生きものじゃなかったっけな?こんな寒いところに…大丈夫なんだろうか。
ふと、だちょうが遠い故郷のことを想っている、その瞳のことを書いた詩が教科書にあったような…と思い出した。
Zwellで乗り換えなければならなかったらしい。駅の表示にはちゃんと「Groningen行き」と書いてあったのに、多分途中で気が変わったのだ。ちゃんとアナウンスをしてくれていたみたいだけど(後から考えるとお客さんたちが急にきょろきょろしだしたアナウンスが、確かにあった)オランダ語だったから全然わからなかった。
車掌さんが「Zewllに戻って乗り換えなきゃ駄目だよ」と教えてくれる。間違っちゃったね、という目で私を見る。「でも彼女もだから、一緒に乗り換えたらいいよ」と、2列くらい向こうに座っている女の子を指差す。
その女の子は乗ってきたときからダンサーだな、と思っていたので、ちょっとどきっとする。Groningenは大きな町ではないし、このタイミングでそこに向かうダンサー…しかもどう見ても旅人。
女の子はレイチェルという名前だった。
電車を降りるときに「もしかして、Galili?」と言うと彼女もやっぱり、という顔をする。
嬉しくて、電車を待つ間いろんな話をする。
レイチェルはアメリカのひとだった。あまり英語が話せない私だったけれど、全然そんなこと問題じゃないよ、と言ってくれて色んな話をした。
ノートを出して日本の漢字の「月」が、ほんとうにつきの形からきたこととかを絵で書いて遊んだりした。馬もなんだよ、と話して、そういえば途中でだちょう見たよ、と言うと彼女はすごく驚いた。アフリカの鳥だよね?と。
レイチェルはGroningenが初めてなのに地図も持っていなかったから、街についたらすぐに私はホテルの場所を駅のひとに聞いたり、中央までのバスがどこから出るか、ホテルから明日のオーディション会場までの行きかたを調べたり、した。
だけど良く考えたら、私がジェスチャーとか単語しか出てこない英語で訊くより、レイチェルが英語でたずねたほうがきっとよっぽど早かったのだ。
私は懐かしいバスに乗った。
ヨーロッパに来て初めてほっとした。
なのに、今回もバスを終点まで乗り、終点でキッとバスが止まったとき、「もう終わり?!」と去年と同じ反応 をしてしまったのだった。
だって、「次は~~駅」みたいなアナウンスももちろん、表示もないんだもん。
外はまっくらでバス停のポールも見えないし。
母娘、チューリップ、猫のあくび
お母さんがおばあちゃんちから戻ってきた。
夜ご飯にすき焼きのあまりでうどんを作ってくれて(夕ご飯くらい自分で作りなさい!)それを食べながら話をした。
夏に親戚のうちの神社に行ってお能台をみたいこと(5月にお祭りとお能の舞台があるんだってさ、TAKE!今年は従妹が踊るのかわからないけど…)、今度の舞台のこと、お風呂で聴いた吉永小百合と野口照代の対談が面白かったこと、などなど。
お母さんは関内のチューリップ祭みたいなものを見に行ったらしい。
チューリップ祭行きたいな、でもひとりで行ってもつまらないしな…とつぶやいたらしいんだけど、そうしたらおばあちゃんが次の朝5時くらいに起きて急に支度を始め、チューリップ祭に行く、と言ったらしい。
おばあちゃんはそろそろ90歳だし、その前々日にもお出かけをしているから疲れちゃって行けないだろうと思っていたのに、なんだかお母さんじゃなくておばあちゃんのほうがチューリップ祭にどうしても行きたかったかのような勢いだった、とお母さんは言う。
たぶんお母さんにチューリップを見せてあげたかったんだろうな。
あとは、友達が次の年のさくらやらチューリップを見ずにいなくなっていることも頭にあるはず。
まぁ結局10歩あるいてはお休みするし、すぐタクシーに乗りたがるし、広いチューリップ畑のとばくちまででもうばててベンチに座っていたらしいけど。
お母さんは写るんですを買って結局はひとりで、公園をめぐったみたい。
すごい低いチューリップもあればお腹くらいの高さまで背があるチューリップもあるし、花びらのひらひら加減とか色とか、ものすごくたくさんの種類があるのね、とうれしそうに話していた。
ベンチに戻るとおばあちゃんはあまり何かのお仕事をしてる感じじゃないおじさんと話していて(うちのおばあちゃんは誰にでもすぐ話し掛ける。一緒に電車やバスに乗っても、落ち着いてさて、とおばあちゃんの方をみるともうむこうのひとと友達になってる)、そのおじさんがその公園で飼っているねこが可愛かったとも言っていた。
ヨーロッパからおばあちゃんにはがきを出したのだけれど、そこに「お花見しようね」と書いたのだった。
忘れてはいなかったけど果たせなくて、だけどおばあちゃんは楽しみにしていたに違いない。
最近病気がちで(といってももう90歳だもの、仕方がないのかもしれない)なかなか散歩にもいかなくなっているおばあちゃんを連れ出したくてそんなお手紙を書いたのだった。
そんなこともすごく気になっていたから、
今晩はその話を聞けてうれしかった。
夜ご飯にすき焼きのあまりでうどんを作ってくれて(夕ご飯くらい自分で作りなさい!)それを食べながら話をした。
夏に親戚のうちの神社に行ってお能台をみたいこと(5月にお祭りとお能の舞台があるんだってさ、TAKE!今年は従妹が踊るのかわからないけど…)、今度の舞台のこと、お風呂で聴いた吉永小百合と野口照代の対談が面白かったこと、などなど。
お母さんは関内のチューリップ祭みたいなものを見に行ったらしい。
チューリップ祭行きたいな、でもひとりで行ってもつまらないしな…とつぶやいたらしいんだけど、そうしたらおばあちゃんが次の朝5時くらいに起きて急に支度を始め、チューリップ祭に行く、と言ったらしい。
おばあちゃんはそろそろ90歳だし、その前々日にもお出かけをしているから疲れちゃって行けないだろうと思っていたのに、なんだかお母さんじゃなくておばあちゃんのほうがチューリップ祭にどうしても行きたかったかのような勢いだった、とお母さんは言う。
たぶんお母さんにチューリップを見せてあげたかったんだろうな。
あとは、友達が次の年のさくらやらチューリップを見ずにいなくなっていることも頭にあるはず。
まぁ結局10歩あるいてはお休みするし、すぐタクシーに乗りたがるし、広いチューリップ畑のとばくちまででもうばててベンチに座っていたらしいけど。
お母さんは写るんですを買って結局はひとりで、公園をめぐったみたい。
すごい低いチューリップもあればお腹くらいの高さまで背があるチューリップもあるし、花びらのひらひら加減とか色とか、ものすごくたくさんの種類があるのね、とうれしそうに話していた。
ベンチに戻るとおばあちゃんはあまり何かのお仕事をしてる感じじゃないおじさんと話していて(うちのおばあちゃんは誰にでもすぐ話し掛ける。一緒に電車やバスに乗っても、落ち着いてさて、とおばあちゃんの方をみるともうむこうのひとと友達になってる)、そのおじさんがその公園で飼っているねこが可愛かったとも言っていた。
ヨーロッパからおばあちゃんにはがきを出したのだけれど、そこに「お花見しようね」と書いたのだった。
忘れてはいなかったけど果たせなくて、だけどおばあちゃんは楽しみにしていたに違いない。
最近病気がちで(といってももう90歳だもの、仕方がないのかもしれない)なかなか散歩にもいかなくなっているおばあちゃんを連れ出したくてそんなお手紙を書いたのだった。
そんなこともすごく気になっていたから、
今晩はその話を聞けてうれしかった。
再会、イメージ、石炭
舞台を見に行った。昔から知っている大好きなダンサーたちを見に。
やっぱり素敵だった。
発表会なんだけどいつもながらレベルが高いなぁ…。
同じことをこころざしているからやはりはすに見てしまうところはある。完全に楽しみたい、粗さがしはしないでいたいという自分と、演出は、とか、光と音のタイミング、表情は…となにかさがそうとする自分。
だけどその中でもどきっとしたりぐっと身を乗り出してしまう部分があって、そこは素直にわくわくする。
はすに見ている自分を知っているからこそ、本物だ、と思う。
たまたま座席の近くにオランダで知り合ったひとがいて、帰りに飲みに行った。
仕事帰りのサラリーマンばっかりがいる居酒屋で、お店のひとが用意してくれた席にもともと座ってたおっちゃんがそこは俺の席だ、と怒りだし、仕舞いにはぷりぷりしながら帰ってしまった。
ごめんね、おっちゃん。
しばらく話をしていて、そのうち出演していたダンサーの子も合流。メディアのお仕事もたくさんしている女の子でいろんな話を聞けて楽しかった。
華やかなお話にうん、うん、と頷いてあっと言う間に時間が経ってしまった。
帰りぎわにそのオランダの男の子から、自分の強みって何?という質問を切り込まれた。
しばらく考えてから素直に思うことを話そうと思って、まっさらなこと、というような答えを返した。失うものがないから何でも受け入れたくて、だけど野性児の部分が取捨選択もしてくれる。と。
だけどこれはね、やっぱり諸刃の剣なんだ、ということも言った。
このごろ少し発見した私の檻みたいなもの、それに気付いてから(助言してもらってから)自分から遠ざかったような気がしていた。
それは決して不快な距離じゃなかったしこれがどうにかなったらまたたくさんの小さな刺が抜けてひとつ自由になれることもわかっていた。だから何も苦しいことはなかったけど。
でも少なからず今まで信じていた勘のようなものとこのからだとあたまの間には相当の隔たりがあることに気付いて愕然とした。
いや、たぶんわかっていたのに、ということに愕然としたんだと思う。目をつぶってきてしまったことは甘え以外のなにものでもないし、そこだ!ほんとにそういうとこが、嫌。となんだか口惜しいようなかんじがして。
でも話してみて、相手が言ってくれたことを受けて、ひとつ角を曲がって近づいたような手応えがある。
そうだそうだ、こうしてあちこちから攻めてゆけばよかったんだった、と。
なんて抽象的なんだろうか。
これだからいけないんだな。
ぼやんととらえすぎる。せっかく文章にしてみてるのにちっとも実像をともなわない。
…ま…いいか。まずはその感触から。
今日感じたこと、眉間のしわみたいに凝っていたものがちょっととけたこと、とけたんならもういっちょ悩んでもみるか、とも思えること。
かたちになるまであたためてみよ。
出し惜しみせずにエネルギーをつかえば、こうしてちゃんと温度があがる。
苦しいなと思っていた冷えたかたまりそれ自体が実は大きな火種に変身することが、なんて多いんだろう。

