アマヤドリ -128ページ目

自然保護公園/24.Feb


Groningenで泊まったホテルは綺麗で大きくて朝食も色んなものが並んでいる。
フロントのひともとても親切。なにかを頼むといつも、「もちろん!」とにこにこしてくれる。

ホテルは自然保護地域の片隅にある。ホテルは公園に対して鳥がつばさをひろげるような形。全室から湖と林が見える。
去年来た時にはお散歩ができなかったから、今年こそはと早起きして歩くことにする。

   
とっても綺麗な湖。どこまで続いているのかなあ…。
ホテルの向こうの大きな道路沿いには川が流れていた。全然しらなかった。その道路に平行した小道をずっと通っていたのに。去年も今年も。

古い船が浮かんでいてずっとたぷたぷとゆれている。今でも使っている船なのかそうじゃないのか、わからない。
藪のむこうにひとの住んでいる雰囲気もあるし、だけどここは自然公園だから管理のための小屋かもしれないし…と考えながら歩く。

空気は少し湿気を含み、濃い土と濡れた樹の幹のにおいがする。
昨日雨が降ったから。
湖の全貌が分かるまでは大きな道を行こう、と車の道を行った。
ウォーキングをしている老夫婦が私を眺める。
ここではほんとうに、色んなひとに見つめられる。
おもむろに足を止め、全身をこちらにむけて凝視するひともいる。多分アムスと違ってGroningenにはあまり日本人は来ないんだろうな。朝食の時にも視線をよく、受け止める。
にっこりしたつもりだけれど私はこれから向かう冒険に緊張して、きっとそれもかたいものになっていたかもしれない。

歩いてもあるいてもキリの良いところがなくてよし、と心を決めて準道、みたいなところに降りる。
車を磨いているおじさんがかなりぽかんとした顔で私を見る。
もしかして保護のため芝生に入っちゃいけないとかなのかもしれない、とどきどきする。

雨のせいでちょっとむにゃむにゃブーツに土がつくんだけれど、芝生の根が張っているから沈み込んでしまうようなことはない。
水際に近づけば近づくほどどんどん湿って、そして草が大きくなってゆく。
湖のにおい。
折れた藁、錆びた何かの部品のようなもの、幹の途中から無残に折れた樹。
やわらかでふさふさの苔、小さな黒い実、ごつごつの細枝。
なにを切り取っても絵になるような気がするのはなぜだろう?
私はぜんぶいとしいみたいな気持ちになって、しょっちゅうしょっちゅう立ち止まる。

やっぱりオランダは濃い茶色とつやつやの、ちょっと透けるようなつややかさの緑。

お母さんとぼくが犬にボールを投げて遊んであげてた。わしわしのモップみたいな可愛い犬。遊んでもらうことが嬉しくて仕方なくって、全身をばねみたいにして飛びまわっていた。
道なりに親子も進み、私も進み。
犬はたまに私を振り返る。
怪しくないよ、私もお散歩をしているだけなんだ。


   
    
風車が遠くに見えてそれに近づこうと歩いていたら水際まで来た。
湖にはしけがL字型に伸びていて、先端まで行くと水に囲まれたような感覚になる。
はしけの足を水が洗って、向こう岸からの風が髪をぼさぼさにかき回して逃げてゆく。


   

本当はもっと、あの風車まで行きたかったんだけどここから迷うことを考えたらホテルのチェックアウトの時間が心配になって、引き返すことにした。
帰りはもう恐くない。のんびり。色んなものを見て。

ちょっと違うルートで帰ったらホテルから入ったすぐのところに自然保護地域マップみたいなものがあった。
それによるとこの公園はものすごく大きくて(私が歩いたところは公園のほんの右っかた、20分の1くらいの部分にすぎなかった)、しかも、ものすごく整備され、付属品(水族館とか植物園とか)もついたものだったということが分かった。
ずっと歩いてきたけれどこの公園はとても野放しで、のびのび見えた。
ホテルの窓、高いところから見ても、見渡す限り造りこまれた様子はなかった。
だけど歩いていて、見たいところにふとベンチやはしけがあったり、どのルートを行っても迷子にならず、小道が用意され、大きな道に繋がる、というのはなかなか心憎いなあとは思っていた。
公園の作り方が、ほんとうに上手だと思う。

それにしてもどうして歩く前にこの地図をみなかったんだろう。
そうしたら、あとちょっと歩けばあの風車までたどり着けたことも分かったのに。


  

大きな樹のうろと、その中のバドワイザーの壜。

そらふかく

ヨーロッパにいるときから食べたいなぁ…と夢にまでみた焼肉屋さんに行ってきた。
満月をみた。
そのひとの友達の六本木にあるバーに行った。
そのひとはさっそく酔って寝てしまったので『スパイダーマン』の1と2をDVDを流してくれた。


外に出ると朝で、ごくごく薄い空に絡まった糸のような淡い雲が浮かんでいた。

電車でうとうとして起きるたびにうちに近づく。

どんな夢をみたのか覚えていないのだけれど、目覚めると今朝のそらのようにつきぬけて、なにか忘れ物をしたような気持ちが拭えなかった。
なにかはわからない。
いまもわからない。
さぐってもさぐっても、手が届かないから。

ミズタマリに映る

傘を開いた時にiPodから聴こえてきたのがNitinのLetting goで、なんてこのやわらかな雨と雲から透けた空のひかりにぴったりなんだろう、と思う。

友達の日記を読んで、そうだな、音楽の好き嫌いというものはその作品の切れ端を聴いただけで一瞬でわかる、と思う。
一瞬のインスピレーションだから理由はない。
ぴりっとしたら涙が出ちゃう、鼻や胸のあの部分、あそこに大波のうねりのくるときはその音をだいぶ好きだ。
きゅうっと絞られて呼吸が浅くなるようなものはもう何度もなんども飽きずに聴く。


今回のリハーサル。
なかなかからだに動きが馴染まなくて困っていた。
音楽のなかにメロディーを見いだせないからかもしれない。
もちろん音楽のせいではなく、自分が。まだ。
肉体的な反応だけで動こうとしてる。自分を器用だと勘違いしている。

なにかまだ、込めているものが足りなくて、胸がちっとも鬼気迫ったぎゅうっとなりかたをしない。

だけど昨日、やっとそのことに思い至った。
いつもならとっくに考えているはずのそのこと。
やっと、心が動きそうな気がしてきた。

気持ちきもち、であっぷあっぷしちゃうことも私にはあって、だから今回のこの順番ももしかしたら新しい変化なのかもしれない。と、思って頑張ろう。

本番は、きっと素敵です。みんな。

とまらずに、ゆく。

Nitin Sawhney
Letting Go

お休みの朝

リハーサルが遅くからだったから昨夜は夜更かしして『tokyo.sora』を観た。やっとだよ、ことねちゃん。やっと観ました。
画面の色が全て、私好みのトイカメラ風のやわらかな色合いだった。画面のおしゃれさをずいぶん追求しているなぁ…と思ったら、監督がCFを専門としているひとで、納得。出演者選びの雰囲気にも、それで納得。
ただ、井川遥が、最後まで、ただ似ているひとだろうか…?と思うようなかんじだった。発するものがとても普通の子っぽい。あれは演技なのかしら。
音楽は好きな管野よう子だった。

朝はいつものお休みより少し早く活動。
アップルトーストを作って家族と、ちゅんと食べた。
ちゅんは甘いものが大好きだからアップルトーストの上にかけたシナモンシュガーをしきりに舐めたがる。

りんごの芯を、ベランダに置いてある小鳥集会所に置きにいったらとてもよい香りがしていて顔をあげたらジャスミンが咲いていた。3日後くらいに咲きそうなつぼみもたくさん。

お母さんに言ったら、そんなこととっくに知っていた。
もらってきた時にはほんのてのひらにおさまるくらいの群れだったのに、今は隣との境の壁一面に葉を絡ませて惜し気もなくかおっている。
強いんだなぁ。

ちゅんは私がめずらしく朝起きてのんびりしてることがうれしいのかずうっとつきまとって、どんなに振り切っても必死な顔で飛んでくる。私が名前を呼ぶと羽根をちいさく震わせて甘える。「こら、ちゅん!」ということばにすら。

久しぶりにひょっこり弟が帰ってきて、お休み気分を味わった。

ちいさな問題はたくさんあるにせよ、みんなどこかしら不完全だけれども、
ここにいることをゆるされるのは家族やともだちの存在があるからだ。
と、なんだか静かな気持ちになった。


レントラックジャパン
tokyo.sora

藤田くんは、今。


昨日の雨風でハナミズキは半分がおおかた吹き飛ばされてしまった。
残っているはなびらは大きく広がり、白っぽい肌を見せている。
つつじは葉っぱが濃い緑だし花も鮮やかで強いけれど、ハナミズキは雲の多い空に溶け込むように葉も、花も、薄くて眩しい。


からだのことがわかっているひとほど「体」とか「身体」とかではなく「からだ」と書く、という文章をどこかで読んだ。
わかっているからかどうかはわからないけれど、私もやっぱり大事なことばほどひらがなで書くことがしっくりくるような気が、最近しているのでそうだなぁと思う。
身体とか体と書くのと、からだ、というこの3文字で書くのとでは温度が違う。
速度も違う。
速度が違うから温度が違うのかもしれない。

からだとかことばとかこいびととかたいせつとか、そのうち全てひらがなで書くようになってしまったらまるっきりこどもの作文だなぁ。


こどもといえば今日父と母が朝からなにやら大掃除をしていて、私が小学校の時に書いた絵が出てきた。
昔から私はちょっと優等生みたいなところがコンプレックスで(その反動でか今はものすごくルーズで困るんだけど)、絵に関しても正確だとは思うけどはみ出せないようなところがあって、面白みに欠けるような気がしていた。
クラスにとても破天荒な男の子がいて、その子は人の顔の色をみどり色で塗っちゃうしありもしないものを描くしでよくみんなには笑われていたけれど、私は密かに、こいつは侮れない、と、何だかおおきく衝撃を受けたり、うっすら負けたような気持ちになったりしていた。

だけど今私の絵を見ると、妙に緻密に黒板の文字を写し取っていたり、モデルの男の子の手が鼻くらいのちっちゃさだったり、フローリングの木を全て違う色で塗っていたり、ちっともただお行儀がよいだけではなくけっこう破天荒だった。
母と一緒に笑いながら、あの男の子は大物になったんだろうか、と懐かしく思い出した。

こどもの頃はたくさん漢字を覚えて、効率よくものごとをインプットする訓練をずうっとしてきていたような気がする。
全てのものごとには段階があってこの次はこれ、そしてあれ、というように、用意されたことを踏んできた。

おとなになって、なにももう選ばされず、だけどすべてのことに手がのばせるのだとわかったとき。
ふっと弛んでまた踏みしめるような、ゆっくりと丁寧に味わうような、そんなところに戻ってこれたのだとしたら、うれしい。