天智 7年(668)、天智天皇即位にあたって、皇后がたてられた。
8人の妃がいたが、皇族出身者がいなかったから、古人大兄皇子の娘、倭姫(やまとひめ)をたてた。
そして、大化の改新以来、自分を支え続けてきた弟・大海人皇子を、皇太子(東宮)とした。
天智10年(671)正月 5日、天智天皇は、御子・大友皇子を、太政大臣とした。
太政大臣ー→大友皇子。20才。
左大臣ーー→蘇我赤兄。
右大臣ーー→中臣金。
御使大夫ー→蘇我果安(はたやす)・巨勢人(こせのひと)・紀大人(きのうし)
(ぎょしたいふ)は、役人の不正を摘発する役目。
天智天皇は、大友皇子の周囲に、5人の有力な豪族を配置して、その地位を強引に固めてしまった。
この時、大海人皇子は、無官だった。
律令政治が確立する中で、太政大臣の地位は、皇太子である大海人皇子よりも高いものとなっていた。
だから、実質、大海人皇子は、後継者の地位から排除されてしまったことになる。
とはいえ、一度弟を後継者に指名しておきながら、自分の子に代えたのは、やはり、天皇の我が子に対する愛情に尽きるだろう。
『懐風藻』に、大友皇子は、博学多才で人柄も優れていたとある。
これによって、我が子に皇統を伝えたいという天皇の意思が固まり、大海人皇子の排除につながった。
ただ、大友皇子を後継にするには、ひとつ問題があった。
大友皇子の母は、伊賀釆女宅子娘(いがのうねめのやかこのいらつめ)と呼ばれ、身分が低かった。
当時は、皇族出身の母を持つ皇子でなければ、皇位に就けないという掟(おきて)があった。
その年(671)10月17日、病床にあった天智天皇は、大海人皇子を枕元に呼び寄せ、大海人に皇位を譲ってのちのことを託そうとした。
しかし、大海人皇子は、辞退した上、天智天皇の皇后・倭姫(やまとひめ)を天皇とし、大友皇子を皇太子とするよう進言した。
大海人皇子を招く使者・蘇我安麻呂(赤兄の兄・連子の子)が、天智天皇を裏切り、
「ことばに用心しなさい」と忠告していたから。
そして、天智天皇の快復を祈るため、出家したいと申し出ると、その場で髪をそり落として、吉野へ去ってしまった。
途中まで見送った左右大臣は、去る行く大海人皇子を見て、
「虎に翼をつけて、放つようなものだ」といった。
<兄弟対立>
壬申の乱にまで発展した天智天皇と大海人皇子の対立の原因は、額田王を巡る三角関係にあった、という説がある。
もともと額田王は、大海人皇子の后で、これを気に入った天智天皇が召し上げた。
この3人の歌が、『万葉集』にあり、想像力豊かに解釈された結果、三角関係のもつれから、二人は、確執を深めていったという説が生まれた。
♪香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争いき....
1、香具山(女)が畝傍山(男)を雄雄しと思って、それまで親しかった耳梨山(男)ともめた。
2、香具山(男)が畝傍山(女)を愛々しと思って、耳梨山(男)と妻争いをした。
3、香具山(女)が畝傍山(男)を雄雄しと思って、耳梨山(女)と男を取りあった。
♪あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る (額田王)
(紫草の生えている野、御料地の野を、あちらへ行きこちらへ行きなさって。番人(天智)が見はしな いでしょうか。あなた(天武)はそんなに私の方に向かって袖などお振りになって)
♪紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我恋ひめやも (大海人皇子)
(紫草の美しい色のように 美しい君が憎いのであるならば、すでにもう君は人妻、それなのにどうし て私がこのように恋などするものか)
でも....天智天皇は朝鮮出兵のため、弟を見方にする必要があったから、息子・大友皇子(10才)と大海人皇子の娘・十市(10才)を結婚させている。十市の母は、額田王。
大海人皇子には、うの(天智の娘)という皇后予定者がいたから、とうぜん、額田王は皇后になれない。
将来を見越して、額田王は、十市の嫁入りに付き添って、天智天皇のもとへ行ったと思う。
もつれていない。
中臣鎌足の生涯をつづった『大職冠伝』には、琵琶湖畔での宴席のとき、長槍を持って舞い出した大海人皇子が、突然敷板を貫き、怒った天智天皇は、大海人皇子を斬ろうとしたため、鎌足がとりなしたとる。
<中臣鎌足>
推古22年(614)、大和国高市郡藤原の邸で生まれた。
父は、中臣御食子(みけこ)
母は、大伴咋(くい)の女、智仙娘(ちせんのいらつめ)
元の名は、鎌子、字は仲郎。
鎌足は、蹴鞠の時、中大兄皇子(天智天皇)の沓を拾って、以後、お見知りおきを、と近づいた。
中大兄をたすけ、入鹿を殺し、大化改新を行なった。
秀才鎌足は、神祈の家柄。巫女的テクを使って、中大兄をマインドコントロールしてたのかも。(#´ο`)
蒲生野の薬狩(♪あかねさす)の翌年、天智 8年(669)10月16日、56才で没。
死の前に、天智天皇は、お見舞いをして、「大織冠」と「藤原の姓」を授けた。
維摩講(ゆいま)は、天智天皇が大津の宮で、中臣鎌足が病に臥したとき、
鎌足の氏寺・山階寺(やましな)で平癒を祈って行なわれたのが、はじまりです。
やがて、山階寺の後身である興福寺で、盛大に行なわれるようになった。
8人の妃がいたが、皇族出身者がいなかったから、古人大兄皇子の娘、倭姫(やまとひめ)をたてた。
そして、大化の改新以来、自分を支え続けてきた弟・大海人皇子を、皇太子(東宮)とした。
天智10年(671)正月 5日、天智天皇は、御子・大友皇子を、太政大臣とした。
太政大臣ー→大友皇子。20才。
左大臣ーー→蘇我赤兄。
右大臣ーー→中臣金。
御使大夫ー→蘇我果安(はたやす)・巨勢人(こせのひと)・紀大人(きのうし)
(ぎょしたいふ)は、役人の不正を摘発する役目。
天智天皇は、大友皇子の周囲に、5人の有力な豪族を配置して、その地位を強引に固めてしまった。
この時、大海人皇子は、無官だった。
律令政治が確立する中で、太政大臣の地位は、皇太子である大海人皇子よりも高いものとなっていた。
だから、実質、大海人皇子は、後継者の地位から排除されてしまったことになる。
とはいえ、一度弟を後継者に指名しておきながら、自分の子に代えたのは、やはり、天皇の我が子に対する愛情に尽きるだろう。
『懐風藻』に、大友皇子は、博学多才で人柄も優れていたとある。
これによって、我が子に皇統を伝えたいという天皇の意思が固まり、大海人皇子の排除につながった。
ただ、大友皇子を後継にするには、ひとつ問題があった。
大友皇子の母は、伊賀釆女宅子娘(いがのうねめのやかこのいらつめ)と呼ばれ、身分が低かった。
当時は、皇族出身の母を持つ皇子でなければ、皇位に就けないという掟(おきて)があった。
その年(671)10月17日、病床にあった天智天皇は、大海人皇子を枕元に呼び寄せ、大海人に皇位を譲ってのちのことを託そうとした。
しかし、大海人皇子は、辞退した上、天智天皇の皇后・倭姫(やまとひめ)を天皇とし、大友皇子を皇太子とするよう進言した。
大海人皇子を招く使者・蘇我安麻呂(赤兄の兄・連子の子)が、天智天皇を裏切り、
「ことばに用心しなさい」と忠告していたから。
そして、天智天皇の快復を祈るため、出家したいと申し出ると、その場で髪をそり落として、吉野へ去ってしまった。
途中まで見送った左右大臣は、去る行く大海人皇子を見て、
「虎に翼をつけて、放つようなものだ」といった。
<兄弟対立>
壬申の乱にまで発展した天智天皇と大海人皇子の対立の原因は、額田王を巡る三角関係にあった、という説がある。
もともと額田王は、大海人皇子の后で、これを気に入った天智天皇が召し上げた。
この3人の歌が、『万葉集』にあり、想像力豊かに解釈された結果、三角関係のもつれから、二人は、確執を深めていったという説が生まれた。
♪香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争いき....
1、香具山(女)が畝傍山(男)を雄雄しと思って、それまで親しかった耳梨山(男)ともめた。
2、香具山(男)が畝傍山(女)を愛々しと思って、耳梨山(男)と妻争いをした。
3、香具山(女)が畝傍山(男)を雄雄しと思って、耳梨山(女)と男を取りあった。
♪あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る (額田王)
(紫草の生えている野、御料地の野を、あちらへ行きこちらへ行きなさって。番人(天智)が見はしな いでしょうか。あなた(天武)はそんなに私の方に向かって袖などお振りになって)
♪紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我恋ひめやも (大海人皇子)
(紫草の美しい色のように 美しい君が憎いのであるならば、すでにもう君は人妻、それなのにどうし て私がこのように恋などするものか)
でも....天智天皇は朝鮮出兵のため、弟を見方にする必要があったから、息子・大友皇子(10才)と大海人皇子の娘・十市(10才)を結婚させている。十市の母は、額田王。
大海人皇子には、うの(天智の娘)という皇后予定者がいたから、とうぜん、額田王は皇后になれない。
将来を見越して、額田王は、十市の嫁入りに付き添って、天智天皇のもとへ行ったと思う。
もつれていない。
中臣鎌足の生涯をつづった『大職冠伝』には、琵琶湖畔での宴席のとき、長槍を持って舞い出した大海人皇子が、突然敷板を貫き、怒った天智天皇は、大海人皇子を斬ろうとしたため、鎌足がとりなしたとる。
<中臣鎌足>
推古22年(614)、大和国高市郡藤原の邸で生まれた。
父は、中臣御食子(みけこ)
母は、大伴咋(くい)の女、智仙娘(ちせんのいらつめ)
元の名は、鎌子、字は仲郎。
鎌足は、蹴鞠の時、中大兄皇子(天智天皇)の沓を拾って、以後、お見知りおきを、と近づいた。
中大兄をたすけ、入鹿を殺し、大化改新を行なった。
秀才鎌足は、神祈の家柄。巫女的テクを使って、中大兄をマインドコントロールしてたのかも。(#´ο`)
蒲生野の薬狩(♪あかねさす)の翌年、天智 8年(669)10月16日、56才で没。
死の前に、天智天皇は、お見舞いをして、「大織冠」と「藤原の姓」を授けた。
維摩講(ゆいま)は、天智天皇が大津の宮で、中臣鎌足が病に臥したとき、
鎌足の氏寺・山階寺(やましな)で平癒を祈って行なわれたのが、はじまりです。
やがて、山階寺の後身である興福寺で、盛大に行なわれるようになった。