隋の煬帝つづきです。
隋は、40年たらずで滅亡します。
 大運河の建設をはじめとする大土木工事や、高句麗へのたびかさなる遠征は、農民の生活を苦しめました。
 やがて、隋に対する農民の不満が爆発して、各地に反乱が起こりました。
 反乱のなかで、煬帝は、江南にのがれ、ただ遊んでばかりで、ついに、
 618年、宇文化及(親衛隊長)が、故郷への帰還を望む近衛兵を率いて、江都にいた煬帝を殺しました。
      煬帝、50才。
 こうして隋は、わずか38年で滅びました。

<聖徳太子と煬帝>
 中国には、古くから自分の国が世界の中心であり、まわりの国や民族は野蛮だとする、
 「中華」思想がありました。
 『隋書』によると、
 607年、聖徳太子の命で小野妹子(おののいもこ)が、遣隋使として送られ、
 隋の煬帝に国書を手わたしました。そのなかに、
 「日出 (ひいづ)る処 (ところ)の天子、書を日没 (ひぼっ)する処の天子に致 (いた)す」
 とありました。
 「日出る処の天子」とは、日本の天皇をさし、「日没する処の天子」とは、中国の皇帝をさしています。
 「天子」は、そもそも中華思想で君主を表わし、国を治めるものをさしていました。
 統治しているはずの倭国が、隋と対等である「天子」を名乗ったことに対して、煬帝は立腹しました。
 「ちっぽけな、東の海にうかぶ日本が、中國と対等な立場など、ゆるせん」と、おこりました。

東アジアの常識を破る聖徳太子の外交が、隋との交渉を成功に導いた!
 当時、東アジアの世界は、中国王朝の冊封(さくほう)体制化にあり、臣下の礼をとるのが外交上の
 常識となっていました。しかし、このとき太子は、対等外交をもとめました。
 この頃の大和朝廷は、それまで続けていた対朝鮮の武力外交を放棄して、平和外交に転じ、百済・新羅
 のみならず高句麗からも、友好的な使者が、来朝していました。
 一方、隋は、598年から行っていた高句麗遠征で、苦戦していました。
 大和朝廷は、この事情を知っていたから、倭と高句麗が、友好関係を結ぶのを得策としない隋は、
 日本の要求を認めると予想していました。
 結果は、予想通り。
 翌608年、小野妹子の帰国と共に、隋から使者の裴世清(はいせいせい)が送られています。

はい。江蘇省揚州市で発見された隋の第2代皇帝 煬帝の墓は、
 30年後に亡くなった皇后と枕を並べて眠る夫婦合葬(がっそう)墓でした。
 「煬帝の墓、太宗が改葬」 唐の権力安定後に評価修正か。(朝日新聞)。なるほど。