文帝の政治つづきです。

5、地方行政制度
 漢代では、郡県制の上に、軍を管轄する州が、13州設置され、
 州⇒郡⇒県の三段階で、地方が統治されていました。
 南北朝時代になると、州の数が増え、300を越え、中央集権が むつかしくなっていました。
 だから、隋は、郡を廃止して、州が直接県を管轄するように改め、中央集権体制の合理化を図りました。

文帝の文化です。
 儒学は、南北ともに訓詁(くんこ)の時代でした。
 訓詁とは、儒教の経典である経書(けいしょ)(五経)を正しく理解するための注釈を加える学問です。
 後漢時代、古典の正しい解釈をめざす訓詁学がおこりました。
 北学は、後漢の鄭玄(じょうげん・ていげん)の注を用いて、質朴。
 南学は、魏晋の説をうけて、華麗。それぞれ学風を異にしていました。
 そして、隋統一後は、南学が北方に流れ、大きな影響をうけました。北学も華麗に。。。

 北周の武帝は、仏教・道教を廃しました。
 その目的は寺院と道観が抱える財力や人力を、対外戦争に使うためでした。
 そして、隋を建てた文帝は、一転して、仏教・道教の復興政策をとります。
 さらに、仏教を主とし、儒教・道教を副とする仏教保護政策を始めました。

 文帝は、仏教保護政策をとり、煬帝も篤信したので、仏教は、興隆しました。
 文帝は、大興城(長安)に大興善寺を置いて、全国の仏教の本拠とし、諸州には、舎利塔を建立しました。
 聖武天皇みたいです。
 聖武天皇は、仏教による鎮護国家をめざして、全国に国分寺、国分尼寺を建てました。
 あっ、聖武天皇が学んだのでした。(^O^)/
 
 文帝は、道教に対しては、大興善寺に対応して、玄都観を設けました。