2、煬帝は、3度も高句麗遠征をします。

まず、高句麗です。とくとく。
 高句麗(BC37~AD668)は、紀元前後、ツングース系の扶余(ぷよ)人の
 朱蒙(ちゅもん、諡(おくりな)は東明王)が建国しました。
 古代朝鮮三国は、
 1、高句麗(こうくり)。2、百済(くだら)。3、新羅(しらぎ)。です。
 高句麗は、満州東南部から朝鮮北部を中心に領土を広げ、
 4世紀、広開土王(こうかいどおう)の時に全盛。都は、427年以後、平壌(ぴょんやん)です。
 668年、唐の高宗(こうそう)に滅ぼされました。

 『三国史記』に記された高句麗の始祖伝説では、
  始祖の朱蒙が、扶余王から迫害されたため、南に逃れ、BC37年に高句麗を建国した。という。
 『後漢書高句麗伝』によると、
  32年に高句麗は、後漢の光武帝に朝貢(ちょうこう)し、光武帝より高句麗王に冊封されました。
  この頃、日本も光武帝から「漢委奴国王」の金印をいただいて、冊封されました。
 『漢書』によると、
  漢の武帝は、BC107年に衛氏朝鮮を滅ぼして、四郡を置きました。
  四郡は、漢の出先機関です。
  1、楽浪郡(らくろうぐん)。2、玄菟郡(げんとぐん)。
  3、真番郡(しんぱんぐん)。4、臨屯郡(りんとんぐん)。
 しかし、漢の勢力が衰えると、再び離反し、高句麗は玄莵郡を攻撃して西に追いやっています。
 さらに、高句麗は楽浪郡にも攻撃を続け、この地方の覇権を確立しました。

おまけです。<高句麗の建国神話>『魏書』と『三国史記』によると、
 朱蒙(チュモン)の母は、河伯(かはく、黄河の女神)の娘を自称するユフアです。
 ユフアは、扶余王の金蛙(クムワ)と出会いました。
 ユフワは、遊びに出た先で、天帝の子(ヘモス)と出会い監禁されていたと、扶余王に訴えました。
 が、信用されず、扶余王(クムワ)のもとに連れて行かれました。
 やがて、ユフアは太陽の光を浴びて、身ごもり、卵を産みました。
 クムワは、卵を犬や豚のそばに捨てさせるが、共にこれを食べなかった。
 路上へ捨てると、牛馬がこれを避け、野原へ捨てると、鳥が卵を抱いて守りました。
 自ら、割ろうとしても割れず、ついに、卵を母に帰しました。
 母が暖め続けると、卵が割れ、男の子が生まれました。
 男の子は7才になると、自ら弓を作り、矢を射ると百発百中でした。それが、朱蒙です。