30代でパーキンソン病になって、かれこれ20年近くたった今も予想以上に元気で楽しく暮らせています。これまで行ってきたいろんな工夫や経験を紹介していきたいです
介護保険はお年寄りじゃなくても特定疾患の認定があれば使える。パーキンソン病であれば、介護保険は利用する側だ。本来シニア向けだが、そんなことは気にせず、あるものはなんでも利用してみよう!と思い、申請してみた。まずケアマネジャーさんがきて、どんなことに困っているか聞き取りがあり、介護度を決める。 それに応じて必要なサービスを提案してくれる。そして、その内容をこちらがわで確認して、(ケアサービスなら見学にいったりする)決める。私の場合、、介護度は要支援から要介護1を行ったり来たり。審査員の裁量によるようだ。ケアマネさんがうちを訪問してくれるときは、もちろんお薬をしっかり飲んで待機しておく。でないと、ろくに話ができないから。ここでもオフの時の不自由さをいかに表現できるか、が大事だ。通常、パーキンソンの患者さんは高齢なので、家族か介助の人がケアマネさん対応をしてくれるのだろうが、私はオンなら自分で対応できるし、するしかない。会社勤めのときは、介護保険料を払っていたが、辞めたとたん、使う側に回ったのがなんだか不思議。 でも結局助かっているし、老後仕組みを知るより今から理解しておくほうが良いこともあると思う。 なんといっても、費用が1割で済む。リフォームも、なかなか素敵な(選べる)ドアが1万円程度でつけてもらえた。今利用しているのは、- 自宅内の改修 (手すり設置、ドアを折れ戸に変えたり、洗浄便座交換など)- デイケアサービス:週一 (トレーニングジムのような運動、ストレッチ、リハビリ)- 家事支援:週一 (ヘルパーさんによる家事支援。掃除、洗濯など)なるべく早くから、運動やリハビリをしておくことはおすすめだ。デイケアサービスを利用すると、ハード過ぎない適度な運動が用意されており、とても良い。運動音痴の私にとってはとくに。。。
刺激を入れる --- 電気を流すこと --- をするために、術後再入院した。「じゃ、さっそく今日からすこしずつ試してみましょう。」「トコトコさんの場合、一か所が使えないので、ちょっと複雑なんですよ。」と先生は明るくおっしゃる。その病院は、DBSの実績がある信頼できそうな病院である。主治医と担当医の二人体制で、主に若手のイケメンでやさしい担当医が処置をしたり、診察したりしてくれる。先生はPCと大き目のリモコンをもって、私の胸に埋め込んである電池に接続し、数字を打ち込む。その数値の分だけ、電流が流れるような仕組み。ちなみに、私に埋め込まれたDBSのシステムはメトドロニック社のものだ。「流しますね、気分悪くなったり、物が2重に見えたりしたら、言ってください」すうっと目の前が白くなったような気がした。すぐにもどった。 サイボーグになった気がした。先生に私の運命はゆだねられてる・・・本当にそんな気がした。「何本に見えますか」、と先生が人差し指を出す 。「らりるれろ、と言ってください。」 言えた。そんなに変わった様子はないが、動きは悪くない、動きやすい気がする。そのまま、様子をみることになった。担当医はちょくちょく見に来て様子をうかがってくれたから、少しは不安な気持ちが和らいだ。
この座椅子は、本来骨盤矯正のためのものこれに座ると、背筋が伸びて、骨盤の位置を正しくしてくれる、という優れもの。私はOFFのときにこれにお尻じゃなくって、頭をもたれさせて、枕みたいにして、横になる。この椅子は適度に背もたれ部分がしなり、絶妙に倒れず、維持してくれるので、ちょうどよいところで頭をホールドして支えてくれる。オフのとき、首が頭の重量を支えられなくなり、ソファも背もたれが固定されており、やや低いから頭がのけぞってしまう。この椅子がないと、オフが耐えがたいものになるのだ。だから、入院のときはいつも持っていく、相棒だ。
オンのときって、ほかの患者の皆さんはどういう状態なんだろう。私たちのような若年性あるいは、現在若い患者さんの場合は、ON のときは、まったくほかの人と変わらない暮らしができていると思う。パーキンソン病の救われる部分はそこだ。薬が効いていれば、なんだって可能。スポーツだって、旅行だって、料理だって、外食 だって、できる。死ぬ病でもない。でもこの状態が、いつまで続くのかは誰も言えない。だから、今を楽しもう,と思えるし、先に備えようとも思える。
お薬は、朝6時から夜6時まで3時間ごとに、いち日5回スタレボという L-dopaをのんでいる。最近、3時間ごとでは少し足らないのが正直なところ。ONの間に次の薬をのむのが、結局、つぎの薬が効きやすい方法だと思う。いったんOFFになると、次、薬の立ち上がりが悪い。OFFになると、私の場合、震えが主訴だ。最初はプルル プルル、、、と時々現れて、上半身、主に右手がだんだんプルプルプルと 間断なく震えだす。震えの振幅は大きく、食べたり飲んだりができないほどだ。のみものはストローで、机に置いて飲む。 それと同時に首から肩に力が入って、その力が抜けなくなる。ひどくなると首が上から抑えられているような感じで、うつむいてしまう。---- といった感じ。こどもたちは、OFFになるとき私に現れる、ほんのわずかな兆しでわかるらしく、「あ、ぱくぷるになってきたねーーー!」私自身が気づくか気づかないうちに。すごい観察眼? もちろん効いてきたときも、真っ先にわかる。私がまだ効いてないふりをして、あれとって、これやって、と言っても、ばれてしまう。OFFのときは、気を遣うわけではなく、自然に肩をもんだり、手伝いをしたり、椅子を用意してくれたりして、助けてくれるのでとても助かる。うちに、家族と一緒にいるのが一番快適で、安心できる。
私の手術後、CT、MRIを撮影したりと術後の検査が行われた。頭部の傷は小さく、どちらかというと胸の電池埋め込み術のほうが痛みがあったが、それもすぐになくなった。怖いのはその後の傷からの感染症だが、とくに変わりなく過ぎた。 夫や母が付き添ってくれた。まだ刺激は入れていなかったが、いったん退院して、また再入院して刺激をすこしずつ入れていくそうだ。 薬も元に戻り、 前ほどの量はいらない感じだった。10日前後で退院した。最終 日、先生に呼ばれた。 脳の画像を見ながら、「とことこさんの脳に入っている4つの電極のうちひとつがどうも機能していないようなんです、、、」ナニソレ!?不具合ってこと?その電極は、しかも、一番期待できる役立つ位置にある電極らしい。がーん!突き落とされた気分。もう一度入れなおすわけにはいかない(いかないわけではないが、手術直後に、もうあの思いはご免だ)。お医者さんは、「なんとかほかの電極で、カバーできるように工夫してみようと思います。ただ、そのためには、電力を余計に使うことになるので、電池の減りが速くなると思います」失意のまま退院したが、不安のせいか、状態はあまりよくなく(刺激を入れてないので当然だが)2週間後に再入院して、本格的に刺激を入れていくことになった。
水彩画は、コロナ禍の直前に始めたが、教室がコロナであっという間に閉鎖になった。仕事を辞めて人と話す機会が減ったので、習い事はたのしみだつた。2年のブランクの後、別の教室で再開。主にお花や植物を描く。上は、教室で、先生からもらったモチーフを描いた最新作! #
パーキンソン病になってしばらくすると、周りの人にはわからない苦労が増えてくる。痛い、苦しい、はないのだが、なんともいえないしんどさ、やりきれなさがある。そのうちのひとつに「寝苦しさ」がある。3大症状のひとつである、無動がその原因だ。寝る前に薬を飲んだりして対策はするにしても、体調によって、寝ている間に薬が切れ、カチカチに固まることはままある。すると、 寝返りが打ちにくい 布団がかけられない(または布団がめくれない)という、たいしたことなさそうで実は怖い事態に陥る。寝返りが打てないと、体がこわばって、朝起きるとき痛い。もちろん、夜中に痛さで目覚めてしまい、そのまま寝られないこともある。必死で、ベッドの柵につかまって寝返りを打ったりした。そのために、敷布団の、腰が当たるあたりに帯状のサテンの布を敷いた。サテンの布はツルツルしていて、ツルっとすべって寝返りしやすいのだ。ついでにパジャマ側もツルツルのシルクを買うとよい(ちょっと贅沢)また、布団がかけられないという悩みは深刻で、極寒の冬に一人のときなどうまくかけられないと、生死にかかわる!何とか自衛しなければいけないので、私は羽布団型パジャマを購入した。いや、パジャマ型羽布団といったほうがよいか。とにかく、ダウンのはいったキルティングで作られたパジャマで、頭から足先まで覆ってくれる。あたたかく、布団がなくても寝られる。赤ちゃんが着るつなぎみたいで結構かわいいが、1万円以上した。DBSやニュープロパッチという長時間効くお薬で解消したが、まだ悩んでいるかた、ご参考まで。
DBS手術をしたら、わーい!すっかり元気になった!とはいかない。ただ、直後はその夢のような気分が味わえる。なんで薬がいつまでも切れないの?という感じだ。このまま薬が切れず、飲まないでも大丈夫かも、と淡い期待を抱く時間がある。でもそれは最初のごほうびみたいなもので、3日目には、もう、夢から引き戻されることが多い。私の手術をしてくれた医師団は、「さあ、ここから、ゆっくりあせらず刺激を調整して、この入院中に一番いいところを見つけましょう」と言って励ましてくださった。刺激の調整って?DBSというのは、頭の中心に電極を差し込み、その先についている4か所の端子から微量の電気を脳内に流し、その刺激で脳内の過活動を抑えることで、神経の活動を整えるというものだ。。。と思う。 流す電流の強弱によって、また流す範囲によって、現れる動きが変えられる、可変の治療なのだ。 その電気は、胸に埋め込んだ電池から脳まで送られる。当然その電池もいつかはきれちゃうので、電池は3年くらいで交換(手術)しないといけない。これはパーキンソン病だけでなく、本態性振戦、ジストニアなどにもきくとか。私には効いたのか。それが、大変なことになってしまった。
多くの難病の患者さんは、お薬代金の高額さに驚いてしまうとおもう。私も最初の2年くらいは、保険診療であっても、1-2万かかるお薬代を払ってきた。まだ病歴も浅く、知識もなく、お医者さんから、「特定疾患の申請をしたら・・?」と言ってもらわなければ、知らずに治療費が払えず、寝たきりになっていたかも。これは、国の制度で、たいていの難病が対象で、認められれば、治療代の負担が減るというもの。一度はパーキンソン病は対象から外されかけたが、なんとか、友の会などの働きかけで、持ちこたえ、維持された。 これが対象から外れた日には、、、考えただけで恐ろしい。おそらく月10万はくだらないからだ。御多分に漏れず、お役所の申請事は複雑極まりない。この受給者証の申請も同様で、動きが不自由な難病患者が申請者である場合でも、お構いなし?だ。 一年に一度、この申請が必要なのは、かなり酷である。2年に一度くらいが妥当じゃないかと思うのだが。。。とてもありがたい制度なので、不満は言いにくいのだが、考えてほしいところだ。
L-dopaの変遷2003 診断を受ける2004 メネシット100 x12010 会社員時代 メネシット100 x32014 スタレボ100 X6 会社辞める2016 DBS受ける DBS直後 スタレボ100 x5.52020 DBSから4年後~現在 スタレボ100 x5現在飲んでるその他の薬シンメトレル x3トレリーフ x1ノウリアスト x2ニュープロパッチ 18.5 x 2枚私が特に気に入っているのは、ニュープロパッチ。 貼り薬。 おなかに貼っている。これが確実に効く。最初かゆみを感じたが、おなか側が慣れたようで、今は問題ない。一日2枚もらっているので、ひとつを朝、もう一つを夜に張り替えるようにしている。
今、6年前のDBS手術を思い出して、一番しんどかったのが、手術前日から当日までの一日だ。なぜかというと、その期間一切のお薬を飲めないから。P病患者にとって、これほどつらいことはないのだ。身動きが取れず、ベッドから降りられない。言葉もろくに話せない。全身肩こりみたいな感覚だし、当然トイレにも自力でいけないほどである。単に「動けない」、のひとことでは片づけられない、不快感で全身覆われ、ひどい人は痛みがある。それがずーーーっと一日続くのだ。お願い、薬をくれー!ほとんど薬チューである。しかし、薬が体に影響を及ぼし、術中の判断を誤らせるため(だと思う)厳禁なのだ。その期間が苦しくて、つらかったが、そのあとの解放感をひたすらイメージして耐えた。頭髪は、最初は丸刈りです、って言われたけど、先生の取り計らいで、一部をそるだけでよくなった(助かったーーー!) 局所麻酔を打って、意識がある状態で頭部に穴をあける。ががが...という音が聞こえる。「亀井さーん、聞こえますか。これ何本に見えますか。らりるれろ、って三回言ってみてくださーい。」などと指示され、夢うつつの中で、従う。 そこからはほとんどうろ覚え、次に気づいたら、すべてが終わっていた。母が私の名前を呼んでいて、目が覚めた。 家族がそろって心配そうに私 をのぞき込んでいた。
DBSの提案を受けて、半年くらいしたころさすがに「動けない事件」が増えたり、肩が固まって、だるさがたまらない日が続いたりして、診察日に先生、手術ってそろそろ考えてみよっかなと思ってます。と告白した。先生は、うなずき、専門でやってるK病院の先生とはなしてみましょう、と言ってくれた。よっしゃ!!手術が怖いとか入院はどうなるとかその時は全く考えず、治るんだ。いや治らないにしても、ずっと良くなる!!と信じていて、やったー!!という思いだった。早くしたいなー。と思っていた。しかし、その思いとは裏腹に、K病院は慎重だった。本当に私が手術に適応か、さまざまな検査、心理テストをクリアしないといけなかった。そのための入院は2週間。 基本的に、病院って手術をしたがるものだ、と思っていた。そこは間違っていた。まず、子供から親まで関係する人全員を集めさせられ、手術の概要を一同で聞いた。入院したら、検査検査の毎日で、その中でも心理テストは、2 日間にわたるもので、ヘビーだった。認知症判定の検査も含まれていた。認知症の兆しがあると、それが悪化する可能性があるため、DBSが受けられない。例の引き算テストや4字熟語、迷路、数合わせ、組み合わせなどのパズルなどなど、肉体的にも精神的にもハードな入院を終え、結果、「手術OK!」がついにだされた。
無動---ほぼまったく動けない状態。これに陥ると、絶望的だ。5分前くらいに、あ、固まりそうだ!と気づく。その5分間で、なんとか薬を飲んだりなんとかするのだが、ここで登場するのが、アポカイン皮下注射だ。今は解消しているので使っていないが、でっかい注射器を持ち歩き、自分でセットして腕などに薬液を打つ。すると、20分くらいで効いてきて、健常者に戻れる。そのあと1-2時間は動けるので、事態に対処できるのだ。面倒だし、荷物になるが(ペットボトル500ml分くらい)、便利だった。よく買い物や旅行に 持って行って使ったものだ。私がこの注射をもらった時は、そのセット方法が複雑で訓練が必要だとかで2泊の入院が必要だったが、今はどうだろう。レスキュー用としてパーキンソン病患者の強い味方だった。
最初に診断してもらった病院は、会社の沿線上にあり、神経内科があった。最初の若い男性医師から変わって、女医さんが担当になった。優しい方で、子供もいて、私の気持ちもよくわかってくれているようだった。私は薬のことなど自分で調べて新しい薬や治療法は試してみたいタチだ。そういった疑問にもよく答えてくれた。薬の量に関しては、病院によって方針が様々で、将来を考えてなるべく少なく、という医者と、動ける程度には十分飲まないと、という医者がいる。その先生は、どちらかというと、十分飲ませる派だった。私が仕事も子育てもして、動けないと困るからとういうのもあるだろう。最初は一錠で始めたメネシットは3錠になって、5錠になっていた。それでもOFFが現れる状態になってきたときに 「DB Sっていう手術があるんだけど、とことこさんなら効果あるんじゃないかな」手術って方法があるのか。さっそくどんなものか調べなきゃ。
発症から7年くらいたったころ次第に症状は広がり始めた。3大症状といわれる、動作緩慢、震え、固縮。そのほか、人によって異なるいろんな症状が現れる。治療(投薬)でそれらを抑え込むのだが、 抑え込めているラクな時間はON 抑え込めずに、症状が現れているしんどい時間をOFFと呼んでいる。(という私の解釈ですが。。。)私は若くしてかかったので若年性P病なのだが、若年性の場合は、比較的オンオフがはっきりしている。お年寄りは、もともと老化によって普段からとぼとぼ歩いたり肩こりがひどかったりと、似た症状が多く、オンオフの区別がつきにくい時があるのだと思う。私にだんだん表れてきた無動(体が動かない)という症状は、困り者だった。薬を飲んで効いている間は、普通に歩けるが、切れたら”しばらくして”、動作緩慢=>無動に移行する。年月が経つと、 その”しばらくして”が”あっという間に”に変わる。デパートに行ってショッピングを楽しんでいると、薬が切れてきたことに気づく、とする。 すると、すぐどこか椅子を探して、座らないと、体が固まってくる。そして、5分もしないうちに、首も、向きが変えられないし、足を一歩出すことも難しい状態に陥るのだ。買い物が大好きな私にとって、おでかけは必須なのだが、この症状との闘いであった。店員さんになんとか訴えて、車いすを用意してもらったり、医務室に寝かせてもらったり、子供に迎えに来てもらったり、を何度もしてしまった。ごめんなさい。
障害年金はハードルが高いといわれている。まず管轄の年金事務所に電話をかけてみた。事情を説明すると、まず、いろいろ条件があるので、それに合致してるか確認するために一度来てください、と言われた。 行くと、親切な担当者がいろいろな条件や、その証明のための書類もたくさん集めないといけないことを話してくれた。役所や病院に出向き、条件にあうことを証明するための書類を集め、提出する。 これが結構な手間だった。 ほんとに障害のある人が自力でできる作業なのか⁉一番もらえる金額が低いが、ハードルは低い障害年金3級の申請は、初めてのこともあり、留意点をしらべまくって書いた。とくに、自分で書くことのできる訴状、というか申告書には、用紙の裏にわたるまで切々と、でも感情的にならないように気を付けながら訴えた。主治医に書いてもらう診断書も、まず自分で書いてみて見本のように先生に見せた。オンとオフで完全に別人になってしまうパーキンソン病患者にとって、いつも診察がある日は、薬を十分のんでオン状態を’作って’臨む。 障害年金の診断書には、普段主治医の先生に見せていないオフ状態の様子を細かく書いてもらう必要があるのだ。作成してもらった診断書や自己申告書、その他もろもろの書類を一式集めて、ようやく提出できたのは、半年後くらいだった。そこから、審査を経て、「結果発表」が届くまで待つことになる。ドキドキしながらじりじり待っていた。ここが運命の分かれ道(大げさ?)。結果は「合格」!年金をもらえることになった。先行き不安が募っていた私にとって、これは本当にうれしくて、日本に生まれてよかったーと思った瞬間だった。*オンの状態: パーキンソン病の患者の薬が効いていて、動きやすくなっている状態。 *オフの状態: パーキンソン病の患者の薬が切れていて、動きが悪くなっている状態。私の場合はこの時の状態を’パクプル’と呼んでいます。
今朝は快晴!少し暖かくなってきたら、もう朝から外にでてみたくなった。冬の間、水もやらずに忘れたようになっていたベランダのバラに芽が出てたり、鉢の土に年末植えた球根(チューリップ)のとんがった芽がのぞいてることに気づく。こんなに寒かった今年の冬もしっかり乗り越え、春を待ってる。お花屋さんに行ってみた。苗がたっくさん!わくわくしながらいくつか購入。寄せ植えしてみました。
パーキンソン病は、難病の中ではメジャーな部類である。お年寄りの病気、と聞いて、ちょっとブルーになるけど、人間120歳まで生きれば全員かかる病気と言われている。「友の会」もあり、私はすぐに入会した。なんでも情報は集めなきゃ。という主義。手っ取り早いのは、患者仲間から聞くことだ。毎月送られてくるパーキンソン病情報誌は、患者である会員が制作している。その中身が驚くほど濃いのだ。ニーズがよくわかっているから、的を射た記事が多い。いつもつらい症状を押して編集してくださる方々に頭が下がる思いだ。その冊子に障害年金の情報が載っていた。なに、障害年金って?聞いたことないけど。調べると基礎年金と厚生年金があるらしいl。どうやら病気の人なら65歳に満たなくても受け取れそうだが、私は該当するのだろうか。まだ曲がりなりにも働いて収入を得ている私がいただけるものなのか。そのころ朝通勤途中で動きにくくなるという困った症状 に悩まされ始めていた私は、そろそろ限界だな、と思っていた。 ただ、生活維持のための収入源が必要だった。友の会の冊子はここでも背中を押してくれた。「障害年金は保険です。掛けてきた人は障害状態になったら遠慮なくもらう権利があるんですよ。」 勇気づけられた。そっか、私は20年も掛けてきたんだ。困っている今、申請しよう、と。
勤めていた会社は、時短勤務制度があり、子供が小学校に上がるまで、遅く来たり、早く帰ったりできた。それは本当に助かる制度で、この会社でよかったー、と心から思えた。というのも、遅く来たり、早く帰ったりすることで、他の社員の通勤時間を外せるので、動きが悪くなっても気づかれないから。そう、同僚のみんなには何も話していなかった。ただ一人部長にだけ、伝えていた。部長も他の病気を抱えていたため、親身になってくれた。そうはいっても、少しずつ異変に気付く人が増えていったので、聞かれたらこたえよう、というスタンスでいたが、意外とつっこんで病名まで聞いてくる人は少なかった。保育園にお迎えの時間には結構疲れていて、薬も切れかけて足を引きずる日もあった。仲のいいママ友には伝えたが、どんな病気か説明しにくいし、薬さえ効いてれば元気な様子だし、 特に同情も気遣いもされないまま月日が流れた。それが気楽でよかった。 普通に、明るく勤められる日までは頑張ろうって思った。それと同時に、辞め時も考え始めた。勤続20年近くなると、だんだん責任も増えたが、この病気のせいか、焦ると頭が真っ白になったりすることがでてきた。以前とは明らかに違うこの感覚。仕事は変わらず忙しくてミスが許されないし。ああ、もう逃げたーい!!でも、この収入がなくなったら、、、?そのころ、収入をカバーできる方法が何かないか、検討を始めた。