専門学校の演劇科に通っていた頃、当時付き合っていた彼と別れ、どっぷり落ち込んでいた時期があった。

あれは何の授業だっただろう。
演劇論、演技実習だったかな。
授業中、心ここにあらずで、落ち込みと投げやりが同居した態度を講師の先生から叱責された。
よほど私の様子がおかしかったのだろう。
先生は授業終わりに、少し話をしようかと私を近くの喫茶店へ連れて行った。

先生は、鋭いまなざしの矍鑠とした女性で、当時70歳くらいだっただろうか。
普段の精神状態だったら、あの厳しいまなざしが自分に注がれると考えただけでおののき、ましてや喫茶店で向き合う勇気などなかったと思う。

飲み物を注文すると、先生は私におかしな様子のわけをたずねた。
私は問われるまま、付き合っていた彼に振られたことをぼそぼそと話した。
20歳そこそこの娘の恋愛話など、大人から見たら噴飯ものだったに違いない。
けれど先生は真剣なまなざしで、時に頷き、時に詳しく問いながら聞いてくれた。

そして聞き終わると、

「おまえが振られたんだろう?それは良かったじゃないか」

と言った。

え?
...振られて、良かった
...良かったって、なに

理解できずに言葉を失う私に、先生は、

「傷つけられた人間の傷は時間で癒える。けれど誰かを傷つけた人間は、傷つけてしまったことをずっと抱えて生きていくんだ。傷つけた人間の傷は深い。だからおまえは振られて良かったじゃないか」

と仰った。

よくわからなかった。
傷つけられた方がつらいに決まってる、そう思った。
けれど、人生経験の少ない浅はかな反論を躊躇うような、その時の私にはどうしたってわからない境地のような、悲しみ、苦しみ、別れ、たくさんの人生経験を積んだ人の発する深い言葉のように思えた。

時々あの日のことを思い出す。
京都に向かう新幹線で、隣に座る母に先日の沖縄旅行の話をしていた。

帰りの飛行機で、離陸してほどなく、隣に座った家族連れがケンタッキーを食べはじめた時のこと。
子どもがいると、親として今食べさせておかなきゃって気持ちになるの?
家族単位になると、他人への配慮より家族が中心になるの?
他者配慮性はどこかへいっちゃうの?
といった疑問を、子育て経験のある母に訊いていた。

何事にもおおらかな母は、あれこれ考えがちな私に日頃から少し批判的。
「そうねぇ、そんなこと考えもしなかったわよねぇ。あなたみたいにそんな他者配慮性がどうとかなんて。とにかく慌ただしくて大変だったわねぇ」
とのお答え。

してたな、、、母。
加えて、私の疑問は宙を漂ったままの気がしないでもないが、まっいいか、と思っていると、母がハンカチに包んだ小さなタッパーに手をのばした。
乗車した時から、目の前のテーブルに鎮座していたそのタッパー。
さくらんぼか何かが入っているのだろうと思っていた。

中を見て目を疑った。
次いでやってくる強烈な香り。

ブ、ブ、ブルーチーズ!!!!
キューブ状にカットされたブルーチーズの集団が。
ギャーッ!
新幹線でブルーチーズ!!!

しかもあなたの娘、今の今まで飛行機のケンタッキー家族の話をしていたんですってば!
他者配慮性について話していたんだっつーの!
聞いてたのかよ、お袋さん。
もう想像の遥か上いく仕打ちだわ。

「絶対にダメでしょ!ブルーチーズなんて!」と怒る私に、「え~、ダメなの~?」と母。
(ダメに決まってるだろ!テロか!)

「健康にいいそうよ。毎日食べてるの」と母。
(知るかっ!)
「他の人に迷惑でしょ!考えられない!絶対にダメ!ダメー!」

通路を挟んで座る乗客からの、何ともひどい娘的な視線が痛い。
でもでも、絶対に新幹線でブルーチーズは食べさせませんよ!
もうもうもうっ!

つらい。。。


沖縄へ行く度、少しずつ沖縄戦を辿っている。
チビチリガマと糸数アブチラガマへ行った。

チビチリガマは、アメリカ軍が上陸した海の近く読谷村にある。
アメリカ軍の巡洋艦や駆逐艦で、黒く埋め尽くされた海はどんなに絶望的で恐ろしかっただろう。

チビチリガマでは、住民が集団自決に追い込まれ多くの人が亡くなったという。
中には入れない。
入口に「ガマの中には私たち肉親の骨が多数残されています。それを踏みつけられることには耐えられません」といった遺族の言葉がある。
全国から届いたという沢山の色鮮やかな千羽鶴が時の経過のやさしさと、けれど、鬱蒼とした緑と静けさが今なお続く悲しみを表現しているように感じられた。

糸数アブチラガマは、住民の避難場所であり、日本軍の野戦病院でもあった場所だという。
自然の洞窟で、中に入るとひんやりとした真の暗闇に包まれる。
懐中電灯で照らさないと前には進めない。
数日前までの雨の影響で、入口近くは常に上から水が滴り、濡れずにいることは難しく、足元が滑る。

破傷風患者や脳傷患者が治療放棄され置かれていたという場所、便所や病棟や手術室(もちろん扉などはない)とされていた場所などをガイドさんの先導で進む。
この洞窟の中に、負傷兵や軍医やひめゆり学徒や住民が何百人もいたという。
アメリカ軍の攻撃を恐れながら、看病する人、死にゆく人、軍人も住民も皆がどんな気持ちでこの洞窟で時を過ごしたのかを考えると、息苦しさを感じた。

ほんの73年前のこと。