受給曲線から何が言えるのか | 秋山のブログ

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「戦後経済史は嘘ばかり」の最終章から。最終章ではTPPと雇用法制について書かれている。今回は前者について。

 

高橋氏は自由貿易の意義について強調している。これは時に見られる自由貿易を絶対善とする立場である。そしてその立場に反対する人間は、自分の『権益が侵されるおそれを感じている』人で全体を見れていない人か、自由貿易の理論を触れたことのない人であるとしか考えられないと思っている。そして需給曲線から消費者余剰と生産者余剰を説明し、『どんな反対論者でも、この理論を論破することは無理』とまで言っている。

 

高橋氏の戦争の抑止と自由貿易の関係の話は、高橋氏が考えたものではなく、以前からあるものである。少し調べてみたが、誰が言い出したかは不明だ。大恐慌以降のブロック化が第二次大戦の要因と考えられるとしているが、ブロック内で自己完結した経済を作っただけで戦争が起きることはありえない。武力で資源を獲得した先進国がその資源を独占したことが原因と考えるべきであり、ブロック化が要因というのは、言い直して事実を歪めているのである。何よりも問題なのは、この話をして、例えばちょっとした関税や規制を撤廃することが、全て平和に繋がるからよいといったおかしな先入観につながることだろう。自由貿易が『戦争を防ぐために始まったもの』というのも眉唾である。

 

自由貿易において必ずWin-Winになるとして、その根拠として受給曲線から説明している。そして消費者余剰と供給者余剰の面積から説明しているのであるが、これは穴だらけの理論である。

まず、受給曲線は、債券の交換でしか成り立たない。債券市場であれば、自分の考える価値よりモノの価格が高ければ売り手となり、価格が低ければ買い手となる。そのような場合、均衡することは実験においても確認され、ほぼ証明されていると言っていいだろう。売るにしろ、買うにしろ、自分の考えている価値と価格の差が余剰となり、その総和は面積で求めることもできるだろう。しかし、生産し、消費していく財の市場においては、この均衡が成り立つ証拠はない。需要量、供給量、価格を決めるメカニズムが根本的に異なっているのである(例えば価格の弾性という理屈は自己矛盾を白状しているようなものだ)。
次に、この余剰であるが、これはいくらの価値があるかという人の主観と実際の差に過ぎないものであり、その金額が発生しているわけではない。また、効用は、例えば予定外の収入と想定外の支出に対して同じ金額でも人間の感覚が全く違う(行動経済学によって証明されている)ように、お金という尺度で測ることはできない(お金で比較するためには、多くの条件を揃える必要がある)。
高橋氏は、貿易前後の余剰の大きさから、その余剰に見合った分、損した人間に補助すればよいと主張しているが、既に述べたように余剰は現実のお金ではないし、そもそも需給の均衡も余剰とGDPの相関も根拠はないのである。ということで、この理論の論破は簡単なことである。

 

次の章の毒素条項に関しては、今までの条約でも入っていたという話はその通りであろう。しかしこれは毒素条項があってもよいという根拠には当然ならない。以前のものも本来入れるべきものではなかったということである。また、TPPのそれは以前のものよりもより強力なようである。

 

話を受給曲線に戻そう。

受給曲線が現実の経済に対していったいどんな貢献をしたのか考えてみれば、税金が経済にいつも悪影響を及ぼすことと、貿易がどんな場合でも利益を得るといったことに関して、人々を説得するため以外には現実的なメリットはないと思われる。そして既に説明した通り、それらの二つも現実において正しいものではなく、アキレスと亀のパラドックスのような詭弁に過ぎないのである。数式とグラフによって表現され、物理でおこなわれるような作業をみて、多くの人は騙されてしまうだろう。

 

貿易のメリットを上げるならば、分業と、交流による知識技術の流入ということになる。そして、それらの効果は供給力の増大である。しかし常に供給力を増大させるとは限らず、例えば資源の輸出に特化した国の工業化が遅れたり、退行したりすることもありえるし、格差が拡大して需要不足、失業を生むこともありえる。従って結論は、臨機応変に貿易に関する規制や政策をおこなうべきということになるだろう。

一方、とにかく自分が得すればよいという人間の中には、それらの規制が邪魔な人間もいるだろう。関税など少なければ少ない程よいといった話に持っていこうとしている今回の受給曲線の説明は、そのような人間の意向を受けて作られた詭弁のひとつである(戦争の話も、以前説明した取引の話もそうだ)。高橋氏(他には飯田氏などもそうである)がそうであるように、経済学を学ぶ人間のうちの少なくない割合が詭弁の宣伝員と化している。騙されないようにしなくてはいけない。