東風友春ブログ

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古代史が好き。自分で調べて書いた記事や、休日に神社へ行った時の写真を載せています。
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天稚彦の物語が神武東征での出来事を基に創作されたのなら、気になる関係がある。

それは、天稚彦の妻が味鉏高彦根神の妹「下照姬(高比賣命、亦名下光比賣命)であるのに対し、饒速日命長髄彦の妹「三炊屋媛(古事記では登美夜毘賣)を妻としている関係性に全く重なる事だ。

 

嘗有天神之子、乘天磐船、自天降止、號曰櫛玉饒速日命。是娶吾妹三炊屋媛、亦名長髄媛、亦名鳥見屋媛、遂有兒息、名曰可美眞手命。

 

味鉏高彦根神が長髄彦なら、下照姫三炊屋媛であり、下照姫を妻とした天稚彦は饒速日命がモデルとなる。

これは、饒速日命を祖神とする物部氏と、味鉏高彦根神を「迦毛大御神」として崇拝する賀茂氏とが、実は婚姻を通じて親戚関係にあったのでは無いかと疑わせるのだ。

 

 

しかし、味鉏高彦根神が登場する「天稚彦の殯」の場面は、天稚彦が「反矢」によって亡くなる事の結果であり、これらは連続する物語である。

旧事紀は饒速日命が既に「神去る」と記すので、天稚彦が射殺した雉を「金鵄」の比喩であると考えた場合、天稚彦のモデルを饒速日命と見るには矛盾を感じるが、実際には記録が無いだけで饒速日命は神武軍との戦いで戦死したとも考える事ができるだろう。

しかしながら、先に述べたように、この話は兄宇迦斯兄磯城それに長髄彦の「死」をもよく似た表現で語られるため、彼ら「饒速日命の勢力」が「天神の子」である天皇家に対し、文字通り「弓」を引いて反抗した事を象徴している。

 

 

さて、古事記では「阿遲鉏高日子根神(味鉏高彦根神)が、天稚彦の殯では何故か「阿遲志貴高日子根命」として登場する。

この「志貴」が「磯城」の事だとすると、もしかすると阿遲志貴は「兄磯城」を指しているのかもしれない。

そうすると、兄磯城は長髄彦の別名だったかもしれず、長髄彦と弟磯城黒速は兄弟だったかもしれない。

古事記は、味鉏高彦根神と下照姫を大国主神「多紀理毘売命」との子神とし、事代主神は母を「神屋楯比賣命」としているので、神武軍に降伏した弟磯城が事代主神のモデルなら、長髄彦と弟磯城は異母兄弟の間柄だったのだろうか。

さらに「天稚彦の殯」に続く「国譲り神話」では「建御名方神」信濃に逃亡するが、味鉏高彦根神の斬り伏せた喪屋が美濃に落ちた話も、美濃が大和から信濃への途上にある事を思えば、長髄彦は死なずに信濃へ逃走したのかもしれない。

しかし、天稚彦の殯は長髄彦の死も表現しているので、信濃に逃げたのは長髄彦本人では無く、味鉏高彦根神の容貌が天稚彦と瓜二つで勘違いされたとの記述から、逃亡したのは長髄彦の近親者だった可能性もあるだろう。

 

 

ところで、古事記は長髄彦を「登美能那賀須泥毘古」又は「登美毘古」と記すが、この「登美(トミ・トビ・トゥミ)」は「(ツミ)」の事では無いだろうか。

 

高句麗の國の傳説には、高句麗の系統といふものは一體東明王から來て居る。東明の名は音通で色々になりまして、鄒牟とも朱蒙ともなることもある。是はどちらも高句麗でありますが、百濟の國になりますと是が「都慕」となります。皆同じであります。東明といふのが又色々に分れるのであります。百濟では都慕と言ひ、高句麗地方の人々は東明とも鄒牟とも朱蒙とも云ふ。日本で大山祇神(おほやまずみのかみ)の祇(すみ)、海童(わだつみ)の童(つみ)も、同音同義である。大山祇を大山咋(くひ)とも申しますが、日本語の隅のことを朝鮮語でクビと申しますから、是も同義だと思ひます。

 

よく引用される話だが、内藤湖南博士は「大山積神」や「綿津見神」の「ツミ」が朝鮮の始祖伝説に見出せると述べている。

「祇」は「地祇(くにつかみ)」と表記するように一般的に「天神(あまつかみ)」の対義語であるが、登美毘古の「登美」が「祇」だとすれば、「神の子(国津神の息子)といった意味合いになりはしないか。

言うまでもなく、この「祇」が「武茅渟祇」の「ツミ」に通じ、それが「賀茂建角身」の「ツヌミ」や「陶津耳」の「ツミミ」に転じたものと推測できる。

しかも、内藤説に基づけば「大山咋」の「クイ」も「祇」の同義語とするので、「三島溝杭」もまた、これらの人物に類することになる。

つまり「登美(鳥見)は、長髄彦が賀茂氏三輪氏の遠祖である可能性を暗示しているのだ。

 

 

しかしながら、長髄彦が賀茂建角身命と同一人物だと主張したい訳では無い。

賀茂社伝承には「賀茂建角身命、丹波の国の神野の神伊可古夜日女にみ娶ひて生みませるみ子、名を玉依日子と曰ひ、次を玉依日賣と曰ふ」とあるので、兄妹関係に照らせば、「玉依彦」の方が長髄彦のモデルだとも言える。

余談だが、常陸国風土記には三輪山説話によく似た話があり、そこに「兄の名、努賀毗古。妹の名、努賀毗咩」とする兄妹が登場する。

この「努賀毗古(のがひこ)」は、地名(那賀郡)に由来するのか、それとも兄妹の名が郡名になったのか、とにかく長髄彦の名に似ている気がする。

長髄彦に似た名前の「努賀毗古」は、神の子を生んだ母の兄に当たるが、この人物は賀茂社伝承では「玉依彦」に該当する。

賀茂氏の伝説と類似点が窺えるのは「長髄彦」と「神の子を生んだ兄妹」の関係だけでは無い。

 

 

賀茂社伝承では、賀茂別雷命が昇天する場面に「七日七夜樂遊」したとあるが、これは天稚彦の殯が「日八日夜八夜遊也」との記載や、旧事紀に饒速日命の死に対して「日七日夜七以遊樂哀泣」とした記述によく似ている。

又、賀茂旧記に賀茂別雷命が御祖神の夢に現れて「吾に逢はむとするに、天羽衣天羽裳を造り、火を炬き、鉾を祭りて待て」と教える場面は、旧事紀に饒速日命が妻の御炊屋姫の夢に「天璽瑞寶を吾が如く形見物にせよ。又、天羽弓矢羽々矢、神衣帯手貫の三物を登美白庭邑に葬し斂めて此を以て墓と為す也」と告げる話によく似ている。

賀茂社伝承では賀茂別雷命の父を「火雷命」として「謂はゆる丹塗矢は乙訓の郡の社に坐せる火雷神」とある事や、矢田坐久志玉比古神社に伝わる飛矢の伝説が乙訓郡の伝説と似ている事を踏まえると、饒速日命は火雷命とも共通性があると言える。

そう言えば、饒速日命の別名である「火明命」は火雷命と一字違いで似ていなくも無い。

 

 

そもそも「天羽羽矢」を所持していた饒速日命や天稚彦は矢に縁がある神と言えるし、一説に賀茂別雷命の父神とする「大山咋神」が鳴鏑を用いるのも、これらの神が異名同神だからかもしれない。

もしかすると、丹塗矢が流れきたと言う賀茂社伝承の「瀬見小河」とは、饒速日命に縁ある大和国鳥見郡の「富小河」が由来かもしれない。

 

 

神武天皇鳥見山を攻略中か、もしくは鳥見山中を抜けて磐余邑に出たところで、金鵄の奇跡が発生した。

金鵄の出現は、神武天皇の神性を証明する形となり、磯城軍の戦意をすっかり失わせる結果を招いた。

神武軍は遥々九州から来襲したが、河内国草香邑での手痛い敗戦によって、五瀬命をはじめ数多くの将兵を失っていました。

それでも天皇は熊野村での夢のお告げを信じ、何とか大和に侵入できたものの、長髄彦及び磯城連合軍との兵数差は圧倒的だったはずである。

皇軍がこの圧倒的に不利な状況を逆転できたのは、磯城との戦闘に勝利して武力制圧したと言うより、磯城側がこれ以上の天神同士の争いを避けるため、神武天皇をこの地の新たな神(支配者)として受け入れ、ごく平和裏に事態を終息させたと考えるべきだろう。

こうして磯城の支配権は神武天皇に移譲され、つまり「国譲り」のような状況が発生したと考える。

これは、記紀にある「天稚彦の反矢」から「天稚彦の殯」、そして出雲の「国譲り神話」に及ぶ一連の物語が、神武東征での出来事を反映していると考えるからだ。

 

 

爾天鳥船神、副建御雷神而遣。是以此二神降到出雲國伊那佐之小濱、而拔十掬劒、逆刺立于浪穗、趺坐其劒前、問其大國主神言、天照大御神、高木神之命以問使之。汝之宇志波祁流、葦原中國者、我御子之所知國、言依賜。故汝心奈何。

 

国譲り神話はご存知の通り、天神が天孫のために二神を出雲に遣わして大国主命に国譲りを迫るという物語である。

古事記ではこの二神を「建御雷神」「天鳥船神」(日本紀では「武甕槌神」「經津主神」とするが、建御雷神は、自身が降した「布都御魂」の刀を所持した神武天皇を表しているかもしれない。

 

 

爾答白之、僕者不得白、我子八重言代主神是可白。然爲鳥遊取魚而往御大之前、未還來。故爾遣天鳥船神、徵來八重事代主神、而問賜之時、語其父大神言、恐之。此國者立奉天神之御子。卽蹈傾其船、而天逆手矣、於青柴垣打成而隱也。

 

この時、「八重言代主神(事代主神)「鳥遊取魚(鳥狩り・魚捕り)をしていたが、日本紀では事代主神が「釣魚爲樂、或曰遊鳥爲樂」と記しており、しかも、神霊を運ぶ鳥を連想させる天鳥船が遣わされた事は、八咫烏の誘いに応じて皇軍に出頭した弟磯城や弟猾の姿を彷彿させる。

ちなみに事代主神は大国主命の神裔でありながら、出雲国風土記には一切その名が見えない神なのはよく知られるところである。

 

 

さて、国譲り神話も磯城での戦いも武力によって勝敗が決した訳では無いので、この決定に承服しない者がいた。

 

故爾問其大國主神、今汝子事代主神、如此白訖。亦有可白子乎。於是亦白之、亦我子有建御名方神、除此者無也。如此白之間、其建御名方神、千引石擎手末而來、言誰來我國而、忍忍如此物言。然欲爲力競。故我先欲取其御手。故令取其御手者、卽取成立氷、亦取成劒刄。故爾懼而退居。爾欲取其建御名方神之手、乞歸而取者、如取若葦搤批而投離者、卽逃去。故追往而、迫到科野國之州羽海、將殺時、建御名方神白、恐。莫殺我。除此地者、不行他處。亦不違我父大國主神之命。不違八重事代主神之言。此葦原中國者、隨天神御子之命獻。

 

古事記では「建御名方神」が信濃の諏訪湖に逃げ、それを建御雷神が追い詰めて降参させるが、この記述は日本紀には無い。

つまり、国譲り神話の本質は、事代主神こそ大国主神の後継者であり、日本紀建御名方神が登場しないのは、事代主神が屈服したことによって、実質的には出雲の国譲りが成し遂げられたという事だろう。

一方の神武東征では、降伏した弟磯城もしくは饒速日命(又は宇摩志麻治命)が決定権者であり、彼らが磯城邑に蟠踞していたなら、磯城邑こそが大和河内に渡る連合国家の首都だったかもしれない。

 

 

ちなみに国譲り神話が神武東征をモチーフに創作された物語として、降伏した事代主神を弟磯城か饒速日命に置き換えると、建御名方神のモデルは徹底抗戦の意思を貫いた長髄彦であろうか。

しかし、日本紀によると長髄彦は饒速日命に粛清されて死んだとあるので、建御名方神の話からは共通性を見出すことが出来ない。

ところが、「天稚彦の殯」の場面では、長髄彦のモデルとされる味鉏高彦根神が喪屋を斬り伏せて飛び去っているのを踏まえると、果たして長髄彦は死んだのか、それとも逃亡したのか分からなくなる。

ただし、これらの神話から推測して、長髄彦と磯城の連合軍は金鵄出現の結果、降伏した者、死んだ者、逃亡した者の三者に分かれたのは確かだろう。

 

 

ところで、この建御名方神の話と大変よく似た話が「伊勢國風土記逸文」にある。

 

廼亦、詔勅天日別命曰、國有天津之方、宜平其國、卽賜標劔天日別命。奉勅東入數百里、其邑有神、名曰伊勢津彦。天日別命問曰、汝國獻於天孫哉。答云、吾覓此國、居住日久、不敢聞命矣。天日別命、發兵欲戮其神。于時畏伏啓云、吾國悉獻於天孫、吾敢不居矣。天日別命令問云、汝之去時、何以爲驗。啓曰、吾以今夜起八風、吹海水乘波浪將東入、此則吾之却由也。天日別命整兵窺之、此及中夜、大風四起扇擧波瀾、光耀如日、陸國海共朗、遂󠄂乘波而東焉、古語云神風伊勢國常世浪寄國者蓋此謂之也。伊勢津彦神、近令住信濃國。

 

伊勢国風土記では「天日別命」が伊勢平定のために「伊勢津彦」を攻めたところ、伊勢津彦は伊勢国を献上して東に去ったという話である。

注目すべきは、この物語の時代設定が神武東征である点と、伊勢津彦の退転先が建御名方神と同じく「信濃国」と思われる事だ。

 

 

ちなみに伊勢津彦が退去する時に風を吹かせたため「神風の伊勢の国は常世の浪寄せる国なり」と言う語源になったとあるが、神武東征時の久米歌に伊勢の枕詞として「神風」が付されているので、この物語が神武東征時の史実であったかどうかは疑わしい。

しかし、この物語が磯城の降伏により神武東征が一応決着した後、長髄彦軍の残党が信濃など東国に逃れて抵抗したため、討伐隊の派遣があった事を反映していると考える。

 

古老曰、天地権輿、草木言語之時、自天降来神、名称普都大神。巡行葦原之中津国、和平山河荒梗之類。大神化道已畢、心存帰天。即時随身器仗 俗曰、伊川乃甲戈楯剣。及所執玉珪、悉皆脱屣、留置茲地、即乗白雲、還昇蒼天。

 

おそらく、香取神(経津主神)鹿島神(武甕槌神)などの伝説も、四道将軍日本武尊より古い神武天皇の時代に、東国への遠征があった名残ではなかろうか。

実際に旧事紀には、神武天皇に降伏した「宇摩志麻治命」がその褒賞として「布都御魂」を拝領し、天物部を率いて海内を平定したという記述がある。

 

 

おそらく神武天皇の方でも、金鵄出現や磯城軍の降参など急転直下の事態に戸惑い、磯城の新たな支配者として迎えられたものの、皇軍が圧倒的に少数派である事に変わりなく、そのため磐余邑からは迂闊に動けず、他地域への宣撫は宇摩志麻治命ら長髄彦側から帰順した人材に頼らざるをえなかった。

こうして、新体制による国内平定が済んで橿原宮に遷り住むまでは、神武天皇は磐余邑に居座り続ける格好となり、その事で天皇は「磐余彦」と呼ばれるようになったのだろう。

そして、出雲の国譲り神話には、自分の国を移譲せざるをえなかった長髄彦側のどこか釈然としない心情が込められている気がしてならない。

 

 

金色霊鵄と呼ばれた怪光現象は、磯城の軍勢を驚愕させ、皇軍にとって不利な戦況を一変させてしまった。

なぜなら、金鵄の出現は「天神之子」を称する神武天皇の神性を証明する結果となり、敵兵はすっかり戦意を失ってしまったからだ。

 

 

そして、おそらくその時に投降したのが磯城県主の祖「弟磯城黒速」だろう。

 

先遣使者徵兄磯城、兄磯城不承命。更遺頭八咫烏召之、時烏到其營而鳴之曰、天神子召汝。怡奘過、怡奘過。兄磯城忿之曰、聞天壓神至而吾爲慨憤時、奈何烏鳥若此惡鳴耶。乃彎弓射之、烏卽避去、次到弟磯城宅而鳴之曰、天神子召汝。怡奘過、怡奘過。時弟磯城惵然改容曰、臣聞天壓神至、旦夕畏懼。善乎烏、汝鳴之若此者歟。卽作葉盤八枚、盛食饗之。

 

日本紀によると、神武天皇は八咫烏を使者として磯城兄弟の調略を試み、兄磯城が八咫烏を弓矢で追い払ったのに対し、弟磯城は八咫烏の誘いに応じて皇軍に帰順する話になっている。

ちなみに古事記では「兄宇迦斯・弟宇迦斯」の話になっており、弟磯城が降参したとも兄磯城が戦死したとも一切記していない。

 

 

ところで日本紀では、神武天皇が八咫烏を使者に立てたのを「十有一月癸亥朔己巳(十一月七日)とし、金鵄出現は「十有二月癸巳朔丙申(十二月四日)の記事にあるので時期が合わない。

しかし、八咫烏の誘いに応じて帰順した弟磯城の物語は、おそらく弟磯城が金鵄の出現によって投降したことの比喩表現だと考える。 

さらに言えば、兄磯城が八咫烏を追い払った話は、天稚彦「無名雉(名無し雉。古事記では鳴女という雉)」を射殺す話ともよく似ている。

 

是時、高皇産靈尊、怪其久不來報、乃遣無名雉伺之。其雉飛降、止於天稚彥門前所植、湯津杜木之杪。時天探女、見而謂天稚彥曰、奇鳥來居杜杪。天稚彥、乃取高皇産靈尊所賜天鹿兒弓天羽羽矢、射雉斃之。其矢、洞達雉胸而至高皇産靈尊之座前也、時高皇産靈尊見其矢曰、是矢、則昔我賜天稚彥之矢也。血染其矢、蓋與國神相戰而然歟。於是、取矢還投下之、其矢落下、則中天稚彥之胸上。

 

日本紀では、高皇産霊尊が天稚彦に対して無名雉を使いに遣るが、八咫烏がもともと高皇産霊尊により遣わされたことや、弓矢でそれを追い払った者が結果的に死ぬ事を考えると、無名雉と八咫烏の話には共通点が浮かぶ。

そして、怪しい鳥がいると聞いた天稚彦は「天羽羽矢」で無名雉を射殺すが、雉を射抜いた矢はそのまま天上に到り、それを見つけた高皇産霊尊が投げ返すと、その矢が胸に突き刺さって天稚彦は落命する。

 

 

この物語の結末に「此、世人の所謂る反矢を畏むべしといふ縁なり」と記すように、矢を返すという行為は不吉な事とされた。

この「反矢(かえしや)」によって落命した天稚彦は、亡骸を天に引き上げられ、物語は天稚彦の「(もがり)」の場面に移る。

 

天稚彥之妻下照姬、哭泣悲哀、聲達于天。是時、天國玉、聞其哭聲、則知夫天稚彥已死、乃遣疾風、舉尸致天。便造喪屋而殯之。卽以川鴈、爲持傾頭者及持帚者、一云、以鶏爲持傾頭者、以川鴈爲持帚者。又以雀爲舂女。一云、乃以川鴈爲持傾頭者、亦爲持帚者、以鴗爲尸者、以雀爲春者、以鷦鷯爲哭者、以鵄爲造綿者、以烏爲宍人者。凡以衆鳥任事。而八日八夜、啼哭悲歌。

 

この場面は葬送儀礼の次第を伝え残そうとする意図を感じるが、何よりも様々な鳥が葬礼の執行者を演じているのは、「」を正体とする三輪大神を祀る以前から、この国に「」を神霊の象徴、特に日本武尊の白鳥に代表されるように、死者の魂を運ぶとする信仰が存在したことを窺わせる。

 

 

また、天稚彦の殯は「八日八夜、啼び哭き悲び歌ぶ」としているが、これは旧事紀に記される饒速日命の葬祭が「日七夜七以て遊楽き哀泣して」とあるのによく似ている。

 

高皇産靈尊、以爲哀泣、卽使速飄命、以命將上於天上處其神屍骸、日七夜七以爲遊樂哀泣、坐於天上斂竟矣。饒速日尊以夢教於妻御炊屋姫、云汝子、如吾形見物卽天璽瑞寶矣、亦天羽弓矢羽々矢復神衣帶手貫三物、葬斂於登美白庭邑、以此爲墓者也。

 

旧事紀では高皇産霊尊饒速日命の亡骸を引き上げるのに「速飄命(はやちかぜのみこと)に命じたとあるが、高皇産霊尊が八咫烏無名雉を使いにしたことを鑑みると、速飄命も金鵄出現の喩えかもしれない。

そして、おそらく「登美白庭邑」を墓所にしたとあるのも、饒速日命が「則ち大倭國の鳥見白庭山に遷り坐します」とあるのも、鳥見山に金鵄が出現したのを饒速日命の神霊が天降って鎮座したと解釈したせいだろう。

 

 

この登美白庭邑に収めた饒速日命の形見を「羽々矢」とするが、天稚彦の反矢も「天羽羽矢」であり、この矢は神武東征での金鵄出現後に、天皇と長髄彦が互いに「天神之子」の証拠を見せ合う場面にも登場している。

 

長髄彥、卽取饒速日命之天羽々矢一隻及步靫、以奉示天皇。天皇覽之曰、事不虛也。還以所御天羽々矢一隻及步靫、賜示於長髄彥。

 

ちなみに長髄彦は、神武天皇から天神の証(天皇の矢も天羽々矢)を見せられても徹底抗戦の意志を曲げず、停戦派の饒速日命によって粛清されてしまう。

もしかすると、天稚彦反矢の物語は、神武天皇に見せた饒速日命の天羽々矢が天皇から返ってきた後に、長髄彦が殺されてしまう話が基になっているのではないか。

さらに想像を逞しくすれば、皇軍より長髄彦軍の方が弓矢の威力が優れていて、皇軍が敵の放った矢を用いたところ、長髄彦に見事命中したのが真相かもしれない。

そうでなければ、矢を返すのが不吉と言っても、そのような出来事は戦争状態でもなければ普通考えられない。

 

 

さて、このように天稚彦は、神武東征に登場する兄磯城兄宇迦斯長髄彦饒速日命との共通点が少なくないが、だからと言って彼らを同一人物だとか異名同神だと説明するつもりはない。

思うにこれらは、神武東征を長髄彦側の視点で伝えるため、皇軍にとって敵方の人物をまとめて「天稚彦」という神に仮託して創作された物語ではなかろうか。

そして、八咫烏に応じて弟磯城が投降したのも、天稚彦の殯に数々の鳥が登場するのも、鳥見山に発生した正体不明の怪光を「金色霊鵄」と表現するのと同一線上の思想であり、つまり、それは古代の「」の信仰から来ているものだろう。

結局のところ、神話は歴史の寓話化したものと言っても、人が人智を超えた現象に遭遇したなら、そこに居合わせた者が光る鳥やら神霊だとか好き勝手に解釈し、それが様々な伝説を生む要因になったと考えるしかない。

 

「鳥見」の由来が金色霊鵄によるものなら、その出現地が近くに存在する筈だし、金鵄の出現に両軍の戦況が一変したなら、そこは皇軍と長髄彦軍が対峙した場所ということになる。

しかし、奈良県生駒市に比定される「鵄邑」が金色霊鵄に由来するものなら、遠く離れた桜井市の鳥見山をその出現地とすることに矛盾が生じる。

実は「神武天皇聖蹟調査報告」には、選定に漏れたものの、もう一つの鵄邑候補地として桜井市大字外山(とみ)を挙げている。

 

 

大字外山は、金鵄伝説のある鳥見山の北麓にあるため、日本紀「皇軍の鵄瑞を得るに因りて即ち鵄邑と号く」とある鵄邑とは当にこちらの方ではないだろうか。

生駒と桜井の二つの「トミ」の存在について、「大日本地名辞書」は「今按に鵄瑞あるが故に其地を鵄邑と云ひ後鳥見に訛ると為すは事因顛倒なるべし、鳥見は長髄彦の本邑にて此地蓋是なり、磯城郡にも鳥見と名くる地あれど彼の鳥見は皇師の長髄彦を破れる地にて、同名異地とす」と記しているが、全くもってその通りだと思う。

磯城嶋の最も東に位置する外山は、宇陀から侵攻してくる皇軍に対して、最も重要な防衛拠点だったはずだ。

神武来襲の報を聞きつけて、生駒から磯城の援軍としてやって来た長髄彦は大字外山に陣取ったのではないか。

この外山を流れる栗原川には「跡見橋(とみばし・あとみばし)という橋が掛かるが、「桜井町史」は金鵄が出現した際に神武天皇が見返りした所とも、敗走する長髄彦が後ろを振り返った所とも伝えている。

 

 

そして、興味深いことにこの跡見橋から西北に広がる大和平野には、神武東征での痕跡や伝承が見当たらない。

つまり、大日本地名辞書「皇師の長髄彦を破れる地」とあるように、この地に金鵄が出現して皇軍と長髄彦との雌雄が決したのだ。

 

 

ところで日本紀は、長髄彦との攻防中に現れた金色霊鵄の記事を皇軍が兄磯城を挟撃して敗死させた後に記している。

 

果以男軍越墨坂、從後夾擊破之、斬其梟帥兄磯城等。十有二月癸巳朔丙申、皇師遂擊長髄彥、連戰不能取勝。時忽然天陰而雨氷、乃有金色靈鵄、飛來止于皇弓之弭、其鵄光曄煜、狀如流電。由是、長髄彥軍卒皆迷眩、不復力戰。

 

日本紀は兄磯城が討死した場所も長髄彦と対峙した場所も具体的な地名を記していないが、兄磯城軍との戦いについては、女軍「忍坂道」から進軍し、「墨坂」を越えて来た男軍によって兄磯城を挟撃したとある。

 

 

椎根津彥、計之曰、今者宜先遣我女軍、出自忍坂道、虜見之必盡鋭而赴。吾則駈馳勁卒、直指墨坂、取菟田川水、以灌其炭火、儵忽之間出其不意、則破之必也。天皇善其策、乃出女軍以臨之。虜謂大兵已至、畢力相待。

 

確かに、忍坂道を桜井市大字忍坂から宇陀市大宇陀に抜ける忍坂街道(国道一六六号線)に、墨坂は「墨坂神社」の旧鎮座地である西峠(宇陀市榛原萩原)に比定すれば、男軍は榛原雨師を抜ける県道一九八号線を通り、女寄峠(めよりとうげ)にて大宇陀方面に進出した敵軍を後方から挟み撃ちにすることは可能かもしれない。

 

 

しかし、日本紀の記事を時系列にすると「冬十月癸巳朔(十月一日)には「国見丘」八十梟帥を撃破し、さらに八十梟帥の残党を「忍坂邑の大室」にて斬殺した後、「十有一月癸亥朔己巳(十一月七日)磯城兄弟を攻略し、「十有二月癸巳朔丙申(十二月四日)に長髄彦を撃とうとして金鵄出現の場面を迎える。

この金鵄出現に至るまでの日本紀の記述は地理的な関係に照らして疑問が残る。

なぜなら、忍坂で八十梟帥の残党を壊滅させた後に兄磯城軍を女寄峠で挟撃しようとするなら、忍坂に進出しておきながら、わざわざ大宇陀方面に無傷で退却したことになり考えにくい。

さらに記紀は磯城兄弟との戦いに「楯並めて、伊那佐の山の、樹の間よも、い行き守らひ戦へば、吾はや飢ぬ」との歌を載せているが、忍坂からは伊那佐山が見えないので、この戦いは忍坂に到る前に行われたとしか考えられない。

 

 

一方、古事記「忍坂大室」土雲八十建(つちぐもやそたける)を討ち果たした後、登美毘古を撃たむとする時の歌、次に兄師木弟師木を撃つ時の歌の記載順で邇藝速日命の降参を迎えており、国見丘で八十梟帥を撃破した話や兄磯城が挟撃されて戦死した話を載せていない。

 

到忍坂大室之時、生尾土雲八十建、在其室待伊那流。故爾、天神御子之命以、饗賜八十建、於是宛八十建、設八十膳夫、毎人佩刀。誨其膳夫等曰、聞歌之者、一時共斬。

 

古事記の忍坂大室の描写は日本紀とほぼ同じで、宴席に招いた土雲八十建を膳夫に斬らせるなど、まるで騙し討ちしたかのような内容である。

この忍坂大室の跡が小字として桜井市大字忍坂字オムロに残るが、そこから金鵄由来の大字外山は目と鼻の距離である。

しかし、神武天皇聖蹟調査報告はこの大室跡を「此等の地名は何れも江戸時代末のものであって、之を以て直ちに大室の所在を示すものとは認め難いのである」として否定している。

ただし、「忍坂邑」は神武天皇が宇陀を出発して金鵄出現に至る過程の中で唯一と言えるほど、場所が特定できる土地なのだ。

 

 

さて、忍坂の後は登美毘古を撃とうとするが、古事記は戦いの記述に代わり「神風の伊勢の海の大石に、這ひ廻ろふ細螺の、い這ひ廻り、撃ちてし止まむ」という歌を載せている。

しかし、日本紀ではこの歌を「国見丘」八十梟帥を撃ち破った時のものとしている。

何故ここに「神風の伊勢」が登場するかはさておき、日本紀はこの歌を「謡の意は、大きなる石を以て其の国見丘に喩ふ」として、細螺(しただみ)、つまり小さな巻貝が海浜の岩を這い回っているかのように、国見丘の山肌に皇軍が取り付いて攻略する様子を形容している。

国見丘は、宇陀市と桜井市の境に位置する「経ヶ塚山」等いくつかの候補があるが、どれも忍坂道から離れすぎていて、乾坤一擲の如く磯城攻略を目指す神武天皇にとって、是が非でも陥さなければならない場所とは到底思えない。

思うに国見丘とは、皇軍にとっても長髄彦にとっても戦略的要衝であった鳥見山のことではないだろうか。

そして、日本紀にある八十梟帥とは、鳥見山に陣取った長髄彦の兵を表現しているのではないか。

 

 

これは私の勝手な想像だが、皇軍が忍坂に至った時には、天然の要害とも言える鳥見山からは敵兵が弓矢を向け、磯城邑に至る進路は長髄彦の軍勢により完全に封鎖されていた。

絶体絶命のような状況下で、両軍は和解交渉のために宴席を設けたが、五瀬命の復讐に燃える皇軍は話し合いに応じる素振りをして、長髄彦の使者をその場で討ち倒してしまった。

これに怒った長髄彦は鳥見山上から矢の雨を皇軍目掛けて降らせたことだろう。

実際に忍坂には、皇軍が矢楯代わりにしたという「神籠石(じんごいし)」なるものも有り、この地が戦場だったことを物語っている。

 

 

さて、ここで注目したいのは、磐余邑の推定地が鳥見山の西に位置することである。

鳥見山を奪うことが戦いの勝敗を握ると考えた神武天皇は、忍坂の平野部から鳥見山中に兵を進めた。

鳥見山攻略の糸口を探るため、敵の矢を避けながら山中を彷徨っていたところ、思いもかけず山の反対側(磐余邑)に出てしまった。

当然、磐余邑にも敵兵が満ち溢れていたが、まさにその時、金鵄の奇跡が発生した。

磯城の人たちからすれば、空から金色の光が天降ったと見えた瞬間、そこに神武軍が現れたのである。

 

神武東征の主役はもちろん神武天皇であるが、その行方に立ち塞がった宿敵が「長髄彦」である。

長髄彦は、河内の草香邑にて五瀬命に痛手を負わせて撃退し、熊野から迂回して宇陀から大和に侵入した皇軍の前に再び現れている。

長髄彦は日本史上初めて天皇に抵抗した人物として悪名高いが、記紀を読めば、神武東征以前の大和及び河内に饒速日命を主とした連合国家のようなものが存在し、長髄彦はそれら諸部族の長もしくは軍事担当者のような姿が浮かび上がってくる。

 

 

從其國上行之時、經浪速之渡而、泊青雲之白肩津。此時、登美能那賀須泥毘古、興軍待向以戰、爾取所入御船之楯而下立。故號其地謂楯津、於今者云日下之蓼津也。

 

長髄彦は、古事記では「登美の那賀須泥毘古」「登美毘古」の名で呼ばれ、この「登美(とみ)とは磐余彦磯城兄弟と同じく、彼の出身地もしくは本拠地を示しているらしい。

登美の地は、現在の生駒市北東部から奈良市西部にかけて流れている「富雄川」流域を指すそうだ。

富雄川は、奈良大阪の県境に聳える龍王山(現在は昭和三九年に完成した高山溜池を水源地としている)から南流し、大和郡山市を経て法隆寺の南で大和川に合流する。

この川はかつて「鳥見川」または「鳥見小河」と呼ばれ、今では「富小河」から富雄川へと変化している。

 

 

富雄川流域は、中世の文献に「鳥見庄」あるいは「鳥見谷」と見え、続日本紀の和銅七年(七一四)の条には「登美箭田二郷百姓」とあることから、奈良時代は「鳥見郷」と呼ばれていたようだ。

さらに神名帳添下郡に記載されている「登彌神社」は、現在富雄川下流の奈良市石木町に鎮座している通称「木嶋明神」に比定されている。

このため「添下郡鳥見郷」の範囲は富雄川に沿って、一般的には生駒市高山町から奈良市石木町に及ぶものと考えられている。

 

 

しかし、「大和志料」は「元来鳥見の本処は南田原山高山上村にして河内の私市に越ゆる坂路即ち磐船越に沿へる山間の部分の惣称なり」として、元来の鳥見の地とは生駒市南田原町・高山町・上町あたりだと述べているが、これは北端と西端を大阪府との県境に接する奈良県北西隅(生駒市北部)の山間部及び丘陵地に横たわる地域である。

 

長髄、是邑之本號焉。因亦以爲人名、及皇軍之得鵄瑞也。時人仍號鵄邑、今云鳥見是訛也。

 

日本紀によると、長髄彦「長髄」とはもともと村の名前で、その村は金色霊鵄の出現によって「鵄邑」と名を変え、その後「鳥見」になったとある。

この鳥見が後の鳥見郷であり、鳥見の前身の鵄邑は生駒市北部にあったとする考えから、昭和十五年、生駒市上町の富雄川の川辺に「神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑」は建てられた。

 

 

この顕彰碑の近くには「長弓寺」という寺院があって、大和志料によると旧事紀「天羽弓矢、羽々矢、復た神衣帯手貫の三物を登美白庭邑に葬し斂めて、此を以て墓者と為す」とある「登美白庭邑」とは当地のことで、御炊屋姫饒速日命の形見を埋めて墓所としたのは長弓寺東方の「真弓塚」だと述べている。

また、富雄川流域と西の天野川流域を隔てる丘陵地に、昭和に宅地開発された「白庭台」という住宅地がある。

この白庭台には「長髄彦本拠」「鳥見白庭山」と刻まれた石碑が存在するが、この地の字北倭村白谷が白庭を連想させると言う理由により、昭和十五年の鵄邑顕彰碑建立に際して地元有志により建てられたもので、どちらの石碑も後世の解釈や推測に基づくものである。

 

 

しかしながら、白庭台の西の谷を北流する「天野川」の川筋(国道一六八号線)は、かつて「上津鳥見路」と称したと大和志料にあり、流れに沿って大阪府交野市に入ると、そこに饒速日命の降臨伝説が残る「磐船神社」が鎮座している。

ここは大和と河内が接する土地で、北の磐船神社だけでなく、西に生駒山脈を越えれば石切劔箭神社(東大阪市東石切町)がある。

 

 

また、富雄川下流の大和郡山市矢田町には櫛玉饒速日命を祭神とする矢田坐久志玉比古神社が鎮座している。

このようにこの地はどちらかと言うと饒速日命ゆかりの土地であって、長髄彦に関して何らかの痕跡や伝承が残っている訳ではない。

ただ、万葉集註釈釈日本紀の「伊勢國風土記逸文」によると、長髄彦を「膽駒(生駒の)長髓」と表現しているので、やはり長髄彦はこの地に縁のある人物だったようだ。

 

天日別命、神倭磐余彦天皇、自彼西宮征此東州之時、隨天皇、到紀伊国熊野村、于時隨金鳥導入中州而到菟田下縣、天皇勅大部日臣命曰、逆黨膽駒長髓、宜早征罸。

 

なるほど、ここから西の生駒山脈を越えれば河内国草香邑は直ぐなので、長髄彦が皇軍来襲の報を受けて救援に駆けつけるのも容易だったろう。


ところで、鵄邑をこの地に比定する見解は、日本紀に神武天皇が長髄彦と対峙したのは兄磯城を敗死させた後とする記述の順序から、皇軍は既に宇陀から磯城地方を制圧しており、長髄彦との対決は磯城以外の大和平野の何処かで行われたという推測によるものだ。

しかし、神武東征の決戦が行われたという伝説もこの地には無く、もし仮にそうだとしたら、金鵄の出現地が近くにないとおかしい。

 

 

確かに、生駒市上町には金鵄が現れたとする「鵄山」があり、山上には「金鵄発祥の地」と刻まれた石碑が立つが、これについて神武天皇聖蹟調査報告「金鵄の瑞の現れた地点については、近年北倭村大字上のとび山を挙げるものもあるが、地名に基く憶説に過ぎない」と一蹴している。

結局のところ、同書では鵄邑を当地に比定したものの、金鵄の出現地に関しては言及を避けている。


ちなみに和名抄には、大和国添下郡の四郷を「村國、沙紀、矢田、鳥貝」としており、この「鳥貝」は大和志料によれば「これを流布本には鳥貝郷に作る。蓋し伝写の誤なり」として「鳥見郷」の誤写だと述べているが、和名抄高山寺本などはわざわざ「止利加比」との振りを入れており、鳥貝を「鳥養部」に関連付ける説もあるにはある。

例えば、長弓寺の縁起では「真弓山長弓寺者、聖武天皇之勅願天平年中之開基也。当時宇多郡有怪鳥、数来此山、食荒田穀野草損害頗多。郷党黎民相與愁之、遂達天聞甚悩、宸襟廼勅置鳥見」とあり、怪鳥の食害を防ぐ目的で「鳥見」という職をこの地に置いたと記している。

 

 

率直なところ、トミに「鳥見」の当て字を付したのは存外この辺の事情によるもので、金鵄の出現とは関係なく、元からこの地は「トミ」と言う地名だったかもしれない。

神武東征饒速日命の降参によって終焉を迎える。

日本紀では、長髄彦との戦いに「金色霊鵄」が現れた後、饒速日命が長髄彦を粛清して皇軍に帰順したとある。

しかし、旧事紀では、降参したのは饒速日命ではなく「宇摩志麻治命」だとして、記紀とは異なる顛末が記されている。

 

宇摩志麻治命、本知天神慇懃唯天孫是與、且見天長髄彥禀性戻很、不可教以天人之際、乃謀殺舅、師衆歸順焉。

 

先代旧事本紀(旧事紀)は、記紀には無い饒速日命の伝説(天孫本紀)を収録するため、饒速日命の子孫(おそらく物部氏)によって編纂されたと思われる異色の史料である。

 

 

旧事紀によると神武東征時に饒速日命は「既神損去」として既に世を去っている。

そして、降参した宇摩志麻治命とは、饒速日命の遺子であり、長髄彦が当時仕えていた主君(中洲豪雄長髄彦、本推饒速日尊兒宇摩志麻治命、以君奉焉)だったとある。

確かに日本紀では、饒速日命の降臨を「嘗て、天神の子有りて、天磐船に乗りて天より降り止まれり」とし、昔話と思わせる様な書き出しながらも、饒速日命を主君と説明しており、文脈がおかしいと感じる場面ではある。

 

 

しかし、主君が饒速日命であろうと宇摩志麻治命であろうと、これは大和国及び河内国を勢力圏とする小国家が既に存在していたことを意味する。

 

鹽土老翁曰、東有美地、靑山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。余謂、彼地必當足以恢弘大業、光宅天下、蓋六合之中心乎。厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。

 

日本紀は、神武天皇が未だ九州にいた頃に「彼の地は必ず以て大業を弘めるに足るべし」と東征の意義を述べた言葉を記しているが、その中で饒速日命に言及していることから、神武東征とは王朝の交代劇であったことを物語っている。

饒速日命は、旧事紀によると「天照国照彦火明櫛玉饒速日尊」または「天火明命」などの御名があり、瓊瓊杵命に先立って葦原中国に天降りした神とされる。

さらに饒速日命は、天磐船に乗って先ず河内国の河上哮峯に天降り坐し、次いで大和国の「鳥見白庭山」に遷り坐ますと記している。

 

饒速日尊襄天神御祖詔、乗天磐船、而天降坐於河內國河上哮峯、則遷坐於大倭國鳥見白庭山、所謂乗天磐船、而翔行於大虚空、巡睨是郷、而天降坐矣卽謂虚空見日本國是歟。

 

 

この鳥見白庭山とは、実際に「白庭」といった地名が山中に残る奈良県桜井市の「鳥見山」のことだろう。

この白庭は、各地にある神社の玉垣の内を白い玉砂利で敷きつめて神域とするのを連想させる。

日本紀では、神武天皇が皇祖之霊を祀るため「乃ち靈畤を鳥見山の中に立て」とあるので、白庭は祭祀場を意味する靈畤(まつりのには)とおそらく同義語なのだろう。

 

 

ところで、鳥見山に祀られているのは「饒速日命」であるという説がある。

現在、鳥見山に鎮座する等彌神社の祭神は皇室の祖神である「大日孁貴命天照大神)」なのだが、「神祇宝典」や「特撰神名牒」では祭神を「饒速日命」と記している。

おそらくこれは、饒速日命が「則ち大倭國の鳥見白庭山に遷り坐します」とある旧事紀の記述を基に唱えられた説だろう。

そもそも、鳥見山は「金色霊鵄」が現れたためにこの名があるが、古事記にはその記述が全く無い。

古事記では、磯城兄弟との戦いに疲れた皇軍が「楯並めて、伊那佐の山の、樹の間よも、い行き守らひ戦へば、吾はや飢ぬ、島つ鳥、鵜養が伴、今助けに来ね」と詠んだ歌の直後、「故に邇藝速日命參赴きて天神の御子に白しく、天神の御子天降り坐しつと聞ける故に追ひて參降り來つ」とあり、唐突に「饒速日命の降参」が記される。

これは、「金色霊鵄」と「饒速日命の降参」が何かしらの関連があるからだと考える。

そして、真相は鳥見山に金色の鵄と見紛うような「不可思議な霊光」が出現し、それに驚いた磯城の軍勢が戦意を喪失し、実質的に戦いが終わったと考えるのが自然だろう。

 

 

さて、旧事紀には饒速日命の天羽々矢を隠し収めたという「登美白庭邑」が登場するが、これは前述の「鳥見白庭山」の誤伝だろう。

 

饒速日尊以夢教於妻御炊屋姫、云汝子、如吾形見物卽天璽瑞寶矣、亦天羽弓矢羽々矢復神衣帶手貫三物、葬斂於登美白庭邑、以此爲墓者也。

 

ここでは鳥見山が饒速日命の墓所であることを示唆しており、現に桜井市の鳥見山中には古墳時代の墳墓が多数発見され、後に葬送地であったことを裏付けているが、鳥見山頂付近は南北朝時代に戎重西阿氏によって「鳥見山城」が築かれて地形が変わり、今では古代の様子を偲ぶ痕跡すら見出せない。

 

 

しかし、何故、鳥見山に饒速日命の形見を埋めて墓所としたのかは、饒速日命の降参が「金色霊鵄」と表現する現象そのものを指していて、それ故に人々は鳥見山を饒速日命の御魂が鎮まり坐ます「聖なる山」と見做したからではないだろうか。

つまり、鳥見山に生じた発光体を、磯城の人々は「饒速日命の神霊」が飛来したと信じ、天皇は「皇祖の神霊」だと解釈したのではなかろうか。

そして、磯城の人々は饒速日命が神武天皇を天津神の神裔だと認めたと考え、結果的に磯城での戦いは終結し、皇軍は奇跡的な勝利を手にして、皇祖の神霊に救われたのだと感謝した。

結局のところ、この正体不明の発光現象を日本紀では「金色霊鵄」と表現し、古事記では「饒速日命の降参」とし、旧事紀では「饒速日命の鳥見白庭山への鎮座」と記して、同じ事象をそれぞれ全く別の解釈によって記述しているに過ぎないのだ。

 

 

我が国最初の天皇はもちろん「神武天皇」ですが、今日この有名な尊称(漢風諡号)が用いられるのは、ずっと後の平安時代になってからとされる。

神武天皇は、日本紀によると「神日本磐余彥天皇」「彥火火出見」「狭野尊」など様々な呼び名を持つが、東征時に於いて実際にどのような名前で呼ばれていたかは不明で、日本紀は即位前であっても便宜上「天皇」の表記で統一され、それに対して古事記では「神倭伊波禮毘古命」もしくは「天神御子」と記している。

この「神倭伊波禮毘古命」や「神日本磐余彥天皇」の「磐余(いわれ)」とは、大和にあった地名のことである。

 

 

日本紀によると、神武東征時、磐余には磯城の軍勢が群集しており、この「屯集する・群れ集まる」の古語を「いはみゐ」と言ったそうで、軍兵が「いはみゐ」たことが地名の由来となったそうだ。

 

磯城八十梟帥、於彼處屯聚居之。屯聚居、此云怡波瀰萎。果與天皇大戰、遂爲皇師所滅。故名之曰磐余邑。

 

つまり「磐余」とは、神武東征を機に名付けられた新しい地名であることを意味している。

すなわち磐余彦とは、神武天皇が長髄彦との戦いの後に「磐余邑」を占領したか、もしくは「磐余の王」に推戴された事により名付けられたものではないかと考える。

おそらく、このような名前はその土地の首長といった意味合いであり、磯城兄弟宇迦斯兄弟、さらに登美毘古など神武東征に登場する他の人物名と変わらない。

 

 

磐余の所在は決して明確ではないが、「大和志料」は「城上郡河合より本郡櫻井傍近に亘り池内池尻に及ひ其以南石寸山に循へる處まてを凡稱せしもの」と記し、磐余が桜井市南西部から橿原市南東部にかけての地域であるとして、昭和十五年(一九四○)、その中間地とも言える桜井市大字吉備に「神武天皇聖蹟磐余邑顕彰碑」が建てられました。

これは「池内池尻」(桜井市大字池之内・橿原市大字東池尻町)といった地名が、履中天皇の時代に造られた「磐余池」の名残であると考え、橿原市南東部に及ぶ地域を「磐余」だとする見解によるが、磐余池の所在に関しては異論もあって立証されておらず、そもそも神武時代の磐余邑の検証に磐余池を考慮する必要があるのか疑問の余地がある。

 

 

しかしながら、桜井市大字谷(等彌神社の西北)にある「東光寺山」はかつて「磐余山」と言い、その山の下を廻るように流れる「寺川」は「いはれ川」と呼ばれ、現在もそこに「磐余橋」という名の橋が掛かっている。

また、桜井市大字谷には「石寸山口神社」とする式内論社が存在し、この神社は「大和志」によると近世「雙槻神社」と呼ばれていたそうで、一説にそこは用明天皇の「磐余池辺双槻宮趾」だと考えられている。

 

 

また、等彌神社には「磐余之松」の伝説が残るし、さらに等彌神社の南の地点(河西遺跡)において縄文晩期の土器が出土しており、神武東征時において既に人の居住があったと想像できる。

以上の観点から、磐余邑は少なくとも寺川両岸の谷間(大字桜井や大字谷など桜井市南西部)にあったと見るのが妥当ではないだろうか。

 

 

さて、この磐余邑推定地から北の地域は磯城兄弟の根拠地でした。

そもそも磐余邑に磯城の軍勢が群集していたということは、磐余邑も彼らの勢力圏だったと考えられます。

 

復有兄磯城軍、布滿於磐余邑。磯、此云志。賊虜所據、皆是要害之地、故道路絶塞、無處可通。

 

ちなみに日本紀には「倭国の磯城邑に磯城八十梟帥有り」ともあり、磯城兄弟の根拠地を「磯城邑」と記しています。

現在、桜井市大字慈恩寺の初瀬川の川辺に「欽明天皇磯城嶋金刺宮址」とされる土地があり、その一画に「磯城邑伝承地」の石碑が建っている。

欽明天皇の磯城嶋金刺宮は、「大和志料」に「彼處の人云 勧圓房、シキ島とて長谷へ参れば山埼に小堂あり。今は武家入時くつす。惣してシキ。島とて一郷の處也。今はあれてなし。然れども慈恩寺の管領なる故に三輪の宮本に神役をするなり。金刺宮は河の向に竹原あり其内に小社あり。此欽明天皇内裏の跡也」とあり、ここに欽明天皇の内裏があったという地元の伝承に由来している。

 

 

この磯城嶋金刺宮址に「磯城邑伝承地」の石碑が建てられたのは、磯城邑がまさに「磯城島」にあったとの推測に基づくものであろう。

ちなみに明治二十二年(一八八九)、近隣六村が合併して「城島(しきしま)村」が成立するのだが、大和志料はこの城島村を「城島は即ち磯城島なり」と記している。

磯城島とは初瀬川(大和川)と栗原川(忍坂川)が並走するように流れ、両川の間隔が狭まって中洲のような地勢を呈しており、或いは古代に川筋が入り乱れて文字通りの島を形成していたかもしれない。

または、河川から溝(水路)を掘って水を引き込み、磯城邑の環濠としていたかもと想像すると、確かに「磯城」という文字から受ける印象が、水上に浮かぶ城が如く思えてくる。

この磯城島とされる地域では「粟殿・三輪松之本・上之庄・東新堂」といった遺跡から実際に縄文時代の遺物が出土している。

さらに初瀬川の北岸に位置する志貴御縣坐神社の西隣、天理教敷島大教会や三輪小学校の敷地(三輪遺跡)からは石器や縄文前期の土器が出土している。

 

 

そして、この三輪遺跡に対し、磯城島を挟んで反対の南側にあるのが磐余邑なのである。

 

夫磐余之地、舊名片居片居、此云伽哆韋、亦曰片立。片立、此云伽哆哆知。逮我皇師之破虜也。大軍集而滿於其地、因改號爲磐余。

 

日本紀は磐余の旧名を「片居」もしくは「片立」だったと記すが、既に失われたのか、そのような地名があったかすら定かではない。

「片居」が片方の居住区という意味だとすれば、磯城島の両岸、北の「三輪」に南の「磐余」の集落も含めて「磯城」という古代都市を形成していたのかもしれない。

「磐余」の地名が最早廃れてしまったのに対し、「磯城」が式上郡式下郡、さらに現代では磯城郡として名が残っているのは、それだけこの地の歴史が古く、そして磯城が大きく有名だったからではないだろうか。

 

しき嶋の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花。

 

この本居宣長の歌と同じく、万葉集には柿本人麻呂「志貴嶋の倭国は言霊の佐くる国ぞ」とあり、「大和」に係る枕詞として「磯城島」は数多くの歌で詠まれている。

「磐余の大和」ではなく「橿原の大和」でもなく「磯城島の大和」とするのは、この地が日本建国の出発点として、日本人の記憶に深く刻まれたせいかもしれない。

 

日本紀によると、兄磯城軍との戦いの後、金色の霊鵄の出現により長髄彦軍は戦意を喪失するが、饒速日命は徹底抗戦を貫く長髄彦を殺害し、諸人を率いて降参する。

この饒速日命の帰順によって神武東征は一応の決着をみるが、未だ服従しない大和各地の土蜘蛛が存在しており、それらの平定を終えて畝傍山の東南に橿原宮を置き、神武は初代天皇に即位して、ここに日本の建国が成るのである。

ところで、日本紀には神武天皇の即位後に気になる記述がある。

 

詔曰、我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬。今諸虜已平、海內無事。可以郊祀天神、用申大孝者也。乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原、下小野榛原。用祭皇祖天神焉。

 

 

神武天皇「我が皇祖の霊、天より降り鑒て、朕が躬を光し助けたまへり」と詔して、「鳥見山」霊畤(まつりのには)を設けて、「皇祖の天神」を祀ったという。

天より降り来たりて天皇を助けたのは、あの天皇の御弓の弭に止まった「金色の霊鵄」に他ならない。

この鳥見山中に霊畤を設けた記事は古語拾遺にも「爾乃、立靈畤於鳥見山中。天富命、陳幣、祝詞、禋祀皇天、徧秩群望、以答神祇之恩焉」とあり、これを以って国家祭祀の始まりとしている。

 

 

ちなみにこの鳥見山は宇陀市榛原や奈良市富雄などに複数の候補地が存在する。

しかしながら、桜井市の鳥見山(標高二四五M)には西麓に「等彌神社」という式内社(式上郡)が鎮座しており、この神社の社紋は、当に光り輝く鵄が弓に止まった様子を表している。

 

 

また、この山には、祭祀や鵄を連想させる「白庭、祭場、庭殿、齋場山、鵄谷」といった地名や、神武天皇が神祀りのため山を注連縄で巡らせたと伝える「縄頭、方示坂、〆ヶ辻」などの小字を持つ土地も残されている。

以上の理由から、桜井市の鳥見山を最有力候補として、昭和十五年(一九四○)、当地に「神武天皇聖蹟鳥見山中霊畤顕彰碑」が建てられた。

 

 

そして、この等彌神社によれば、神武天皇が鳥見山の靈畤にて祭祀を行ったのが、今の「大嘗祭」の最初であると説明している。

しかしながら、鳥見山での祭祀と大嘗祭とは共に皇祖神に感謝することについて一致するものの、鳥見山の祭祀は神武天皇四年とされるので、天皇の代替わりに際して行われる大嘗祭の原形だと断定するのは尚一層の考察が必要だと思う。

 

さて、等彌神社境内摂社の「恵比須社」の裏手に何故か「剣池」と刻まれた石碑があるが、そこにはかつて「磐余之松」と呼ばれた巨木が生えていたそうな。

奈良県神社庁発行の「かみのみあと」(二○一二)は、藤堂藩谷代官所手代辻井三郎の元治元年(一八六四)の日記を引いて、この磐余之松の伝説を記している。

 

堺川にある御幸橋の近くに、二丈廻り位の古き松あり。二百年も前に大風雨の節、打ち倒れたりと聞く。これ矢はづの松とて、折々田地よりその根出す事これあり。神代木ともいえり。この辺の字は総じて松ヶ下御幸坂より齋場山に登る、字庭殿に磐余之松と申すあり。この松を一般に一本松と唱えいて、毎年正月十五日注連縄を掛けるは、昔より仕来、綱掛けとも申し候。

 

 

この磐余之松を一名「矢弭之松」と呼んだのは、神武天皇の弓の弭に霊鵄が止まった故事から来たものだろう。

つまり、磐余の松は当地のご神木であり、「謂れの松」だとも言えるが、実際に金色の霊鵄と関係があったのかどうかは分からない。

ちなみに先述の辻井三郎の日記には「建石は残りある様子。その建石はいつの頃出来たるとも存ぜず。たしかに皇祖神と彫りつけしやにあい覚え候」とあり、かつて磐余之松の根元に「皇祖神」と刻まれた建石があったそうだ。

これは神武天皇の詔にある「我皇祖之霊」から来ていると思うが、そもそも「金色の霊鵄」は、どうして「皇祖神」として鳥見山に祀られたのだろうか。

 

 

皇師遂擊長髄彥、連戰不能取勝。時忽然天陰而雨氷、乃有金色靈鵄、飛來止于皇弓之弭、其鵄光曄煜、狀如流電。由是、長髄彥軍卒皆迷眩、不復力戰。

 

日本紀には「忽然と天が翳って氷雨が降り」とあるので、この時は大気の状態が不安定となり、「その鵄、光り煌めいて雷光の如し」とあるから、一種の球電現象のようなものが発生したのかもしれない。

その光は、まるで鵄が空高くからまっすぐ舞い降りたかのように現れて、天皇の御弓の弭に止まったのかは確証できないが、両軍の衆目の中で浮遊しつつ、神武天皇の許へ移動したのではないだろうか。

 

 

これは、文永八年(一二七一)「竜の口の法難」にて「江ノ島の方より月の如く光りたる物、鞠のようにて辰巳の方より戌亥の方へ光り渡る」とある謎の発光体が出現し、太刀取りの目が眩んで、日蓮は処刑を免れた話と似たような現象が起きたのでないか。

この正体不明の発光体を、神武天皇は「皇軍を助けるために天降った神霊」と理解したのだろう。

そして、この奇跡により神武天皇は大和の平定を成し遂げ、建国の大きな助けとなった事に感謝して、その時の「神霊」をこの地に祀ったのが鳥見山の霊畤なのだ。

 

 

尚、元文五年(一七三六)、この磐余之松の枯れ株の下から土偶と永正十一年(一五一四)の年紀を持つ古地図が掘り出された。

この土偶は鳥のような何ともユーモラスな顔を持つ人物像で、等彌神社では「八咫烏」を模した神像だとして、現在は本殿内に祀られているそうだが、社務所に行けば、この像の複製があるのを目にすることができる。

この像は、おそらく神武天皇の弓の弭に止まった金色の霊鵄を八咫烏と同一視する解釈によって、松の根元に供えられたものだろう。

これは、天皇の前に突如出現した霊光を「皇祖神」と結びつけるがために、高皇産霊神が八咫烏を遣わしたり、神武天皇が丹生川上に天神地祇を祭った話が、物語上の伏線として加えられた事から生じた誤解であるのだろう。

 

弟磯城(黒速)と兄磯城の兄弟は、神武東征時に皇軍に抵抗する勢力として記紀に登場します。

磯城兄弟の前に神武東征を簡単に説明すると、神武天皇(即位前なので磐余彦命)一行は、九州日向の地を発って瀬戸内海を渡り、大和への侵攻を試みますが、河内国草香邑で長髄彦により撃退されて、命からがら海上に逃れます。

兄の五瀬命を失うなど手痛い損害を出した皇軍は起死回生を賭け、大和の背後に回り長髄彦を討とうと、迂回して熊野村に上陸します。

ここで高倉下命から神剣を献上された神武天皇一行は、八咫烏の導きにより熊野の険しい山中を進み、ついに大和の宇陀(奈良県宇陀市)に到ります。

 

 

大和の宇陀には、神武天皇の大和平定を阻もうとする勢力が存在し、彼らとの戦いが展開します。

日本紀では、皇軍は兄猾(えうかし)「菟田の血原」で殺し、「国見丘」八十梟帥(やそたける)を撃破し、その残党を「忍坂邑の大室」にて斬殺した後、いよいよ磯城兄弟が登場する。

 

皇師大舉、將攻磯城彥。先遣使者、徵兄磯城。兄磯城不承命。更遺頭八咫烏召之。時烏到其營而鳴之曰、天神子召汝。怡奘過、怡奘過。過音、倭。兄磯城忿之曰、聞天壓神至、而吾爲慨憤時、奈何烏鳥若此惡鳴耶。壓、此云飫蒭。乃彎弓射之、烏卽避去。

 

この時、神武天皇は磯城兄弟を味方に引き入れようと、八咫烏を使者として彼らに出頭を求めますが、弟磯城が応じて皇軍に帰順したのに対し、兄磯城は八咫烏を弓矢で追い返してしまいます。

 

次到弟磯城宅、而鳴之曰、天神子召汝。怡奘過、怡奘過。時弟磯城惵然改容曰、臣聞天壓神至、旦夕畏懼。善乎烏、汝鳴之若此者歟、卽作葉盤八枚、盛食饗之。葉盤、此云毗羅耐。因以隨烏、詣到而告之曰、吾兄々磯城、聞天神子來、則聚八十梟帥、具兵甲、將與決戰。可早圖之。

 

この兄磯城が八咫烏を追い返す場面は、天稚彦の使を射殺した話と似ている気がします。

 

 

さて、神武天皇は八咫烏を追い返した兄磯城に対して、再度、帰順した弟磯城並びに兄倉下弟倉下の兄弟を派遣して、説得を試みます。

 

天皇乃會諸將、問之曰、今兄磯城、果有逆賊之意、召亦不來。爲之奈何。諸將曰、兄磯城黠賊也。宜先遣弟磯城曉喩之、幷說兄倉下、弟倉下。如遂不歸順、然後舉兵臨之、亦未晩也。倉下、此云衢羅餌。乃使弟磯城開示利害。而兄磯城等猶守愚謀、不肯承伏。

 

このように、神武東征における弟磯城の記事は、八咫烏に応じて神武側に寝返った事と、兄磯城の説得に失敗した事が全てです。

日本紀では、兄磯城はその後、椎根津彦の計により「今者宜先遣我女軍、出自忍坂道。虜見之必盡鋭而赴」として、「忍坂道」を進んできた女軍(陽動部隊)に誘き出され、「果以男軍越墨坂、從後夾擊破之、斬其梟帥兄磯城等」とあることから、「墨坂」を越えて現れた男軍(主力部隊)によって前後を挟撃される格好となり、その中で戦死したと伝えられています。

 

 

日本紀での磯城兄弟と猾兄弟は、兄が徹底抗戦を主張するのに対し、弟が皇軍側に寝返る点において全く同じである。

しかし、古事記では、八咫烏を弓矢で追い返したのは兄猾(兄宇迦斯)の話となっています。

さらに弟猾が皇軍の宴会に食事を献上した際に歌われた歌に「宇陀の高城に、鴫罠張る、我が待つや、鴫は障らず、いすくはし、クジラ障る(宇陀能 多加紀爾 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流)という一節がある。

鳥の(しぎ)に「磯城」を掛けているとすれば、磯城兄弟を待ち構えていたところ、意外な大物が釣れたと解釈できる奇妙な歌で、磯城兄弟と猾兄弟の話には一部混同があるのではないだろうか。

 

 

さて、古事記での磯城兄弟は「又擊兄師木、弟師木之時、御軍暫疲。爾歌曰」とあるだけで、日本紀のように弟磯城が帰順する話も兄磯城の生死も記述が無く、戦いの決着が着いたかどうかすら不明なのである。

古事記では、兄宇迦斯「宇陀の血原」にて殺し、土蜘蛛八十建(生尾土雲 訓云具毛。八十建)「忍坂の大室」で壊滅させ、「然後、將擊登美毘古之時、歌曰」として登美毘古(長髄彦)を撃つ際に歌った御歌、次いで磯城兄弟との会戦において歌った御歌の記載があった後、饒速日命の降参があり、「故、如此言向平和荒夫琉神等、夫琉二字以音。退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也」として、神武東征の物語が終わっている。

では、磯城兄弟との戦いで皇軍の兵が「暫し疲れて」歌ったとされる御歌とは一体どのようなものか。

 

楯並めて、伊那佐の山の、樹の間よも、い行き守らひ戦へば、吾はや飢ぬ、島つ鳥、鵜養が伴、今助けに来ね。

多多那米弖 伊那佐能夜麻能 許能麻用母 伊由岐麻毛良比 多多加閇婆 和禮波夜惠奴 志麻都登理 宇上加比賀登母 伊麻須氣爾許泥

 

この「島の鳥、鵜飼の友よ、今助けに来て」という歌は日本紀にも収録されているが、この歌からは皇軍が苦戦している様子しか窺えず、作戦勝ちのような兄磯城との決戦からは程遠い印象です。

 

 

古事記では、この歌の記載の直後に「故爾、邇藝速日命參赴、白於天神御子、聞天神御子天降坐。故追參降來。卽獻天津瑞以仕奉也」とあるので、「鳥」に助けを求めたら饒速日命が「参り降り来た」と解釈でき、この鳥とは饒速日命を表現しているかもしれません。

ちなみに日本紀では、この鳥の歌の後に兄磯城が敗死する記述があり、次に皇軍が長髄彦を討とうとした時に「時忽然天陰而雨氷、乃有金色靈鵄、飛來止于皇弓之弭。其鵄光曄煜、狀如流電。由是、長髄彥軍卒皆迷眩、不復力戰」とあり、神武天皇の弓の弭に「金色の霊鵄」が止まるという有名な場面に移るのです。

神武東征には、八咫烏、鴫、鵜、鵄(とび)など、様々な鳥が登場するが、この鵄を「稲光のように照り輝く金色の霊鵄」と表していることは、日本武尊白鳥と同じく、それが神霊であるか、少なくともこの世のものではない気がします。

しかしながら、弓の弭に止まった鳥と神武天皇の姿は、「島つ鳥、鵜養が伴」とある鵜飼の情景をどこか連想させるのです。

 

磯城県」は神武東征の論功行賞により定められ、県主は「弟磯城」に与えられたと日本紀にあります。

 

天皇定功行賞。賜道臣命宅地、居于築坂邑、以寵異之。亦使大來目居于畝傍山以西川邊之地、今號來目邑、此其緣也。以珍彥爲倭國造。珍彥、此云于砮毗故。又給弟猾猛田邑、因爲猛田縣主、是菟田主水部遠祖也。弟磯城、名黑速、爲磯城縣主。復以劒根者、爲葛城國造。又、頭八咫烏亦入賞例、其苗裔卽葛野主殿縣主部是也。

 

この「弟磯城」の名を「黒速」とするのは「磯城県主の波延(又は葉江)」に似ており、もしかすると同一人物か近親者なのかもしれない。

弟磯城こと黒速は「兄磯城」との兄弟で、神武東征時に「倭國磯城邑、有磯城八十梟帥。又高尾張邑 或本云、葛城邑也、有赤銅八十梟帥。此類皆欲與天皇距戰、臣竊爲天皇憂之」とあり、皇軍に抵抗する長髄彦側の勢力として登場します。

 

 

弟磯城の名を黒速としたり、この兄弟を「磯城八十梟帥」や「磯城彦」と表現するのは、「磯城」が人名ではなく、地名から得られたものかと思われます。

この磯城は、一般的に「石の城」を意味していたと思われ、近世城郭の石垣とはいかないまでも、古墳の葺石や神社の玉垣のように、岩石を巡らせて塁壁とした環濠集落だったのかもしれない。

磯城兄弟は「賊虜所據、皆是要害之地、故道路絶塞、無處可通」とあるように、この石の城に立て籠もっていたのではないでしょうか。

 

 

ところで弟磯城と同じく論功行賞で弟猾(おとうかし)が賜ったとする「猛田県主」とは、その子孫が菟田主水部であることから察するに、ここでは盂田(うだ)の誤写かと思われるが、猛田邑を橿原市東竹田町の「竹田神社」鎮座地周辺に充てる説もある。

その場合、猛田邑は橿原市十市町に大変近い距離となり、「十市県」の前身だった可能性も浮かんでくる。

さて、十市県は、神八井耳命神渟名川耳命(綏靖天皇)に皇位を譲り、古事記に「僕者扶汝命、爲忌人而仕奉也」、日本紀に「吾當爲汝輔之、奉典神祇者」とあるように、神祇を奉祀するため、大和国十市郡飫富郷(現在の奈良県磯城郡田原本町多)に移住したことによって新たに設けられた県である。

 

 

神八井耳命が神祇を奉祀した場所とは今の「多神社(多坐弥志理都比古神社)」とされ、「多神宮注進状草案」に「號社地、曰太郷、定天社封、神地舊名春日宮 當神社與河内國日下縣神社共所祭神爲同一神格互得春日之名と記すように、神八井耳命の宮は「春日宮」と称し、このことから十市県は当初「春日県」と呼ばれていました。

同じく多神宮注進状草案には「而主神事之典焉、使縣主遠祖大日諸命 鴨王命之子 爲祝而奉仕也」とあることから、春日宮の祝には鴨王命の子が務め、それが縁で鴨王の家系からは磯城県主だけでなく十市県主家も派生しました。

神八井耳命は、古事記に「神八井耳命者、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也とあり、数多くの氏族の始祖となった人物です。

この内、特に十市郡に残って飫富郷を本拠地とした「意富臣(多臣)」は、古事記を編纂した太朝臣安万侶を輩出したことで有名である。

 

 

ちなみに姓氏録には河内国に「志紀縣主、多朝臣同祖。神八井耳命之後也」と記し、河内の「志紀縣主」を神八井耳命の子孫としている。

シキの県は大和国だけでなくお隣の河内国にも存在していたのです。

志紀県は後の「河内国志紀郡」であり、その志紀郡に神名帳「志貴縣主神社」を載せている。

志貴縣主神社は、現在の大阪府藤井寺市惣社一丁目に鎮座し、神八井耳命を主祭神として祀っている。

 

 

この河内の志紀縣主の姿は、雄略天皇の話として古事記に描写されている。

 

爾登山上望國內者、有上堅魚作舍屋之家。天皇令問其家云、其上堅魚作舍者誰家。答白、志幾之大縣主家。爾天皇詔者、奴乎、己家似天皇之御舍而造、卽遣人令燒其家之時、其大縣主懼畏

 

河内国に鰹木を載せた立派な屋敷があるのを目にした天皇は、天皇の御殿に似せた建物があるのはけしからんとして、その家を焼き払おうとするが、その屋敷の主が「志幾の大縣主」でした。

これは、志幾県主が天皇の御殿に匹敵するほどの屋敷を建築できる権威や財力を有していたことに他なりません。

この河内のシキ県は、単に県名が一緒というだけでなく、元を辿れば、おそらく大和の磯城県主と同じ支配勢力の領域から生じたものだと推測します。

つまり、大和朝廷の成立以前より、シキは大和と河内に跨がる地域を支配下に収める一大勢力であったのではないかと思うのです。

これは、神武東征時に河内の孔舎衛坂にて戦端が開かれるなど、河内は大和への玄関口として連携していたと同時に、大和の防衛拠点としての役割も有していたことが想像できる。

さらに見逃せない事実として、河内の志貴縣主神社の東約一八○Mに位置する「国府遺跡」の存在があげられる。

 

 

国府遺跡は、約二万年前とする旧石器をはじめ、縄文時代から弥生時代にかけて計九十体の人骨、古墳時代の土器、飛鳥時代の寺院跡など、旧石器時代から中世に至るまでの遺物が出土した複合遺跡です。

この国府遺跡が永く旧石器時代から続いた集落跡であるということは、神武東征時には既に存在していた旧勢力の居住地であり、この集落こそが河内の志紀県の前身だったはずです。

大和と河内のシキ県が、もともと鴨王が属する集団の支配地であったとしたら、天日方奇日方命の子孫を称する大田々根子が古事記に「河内の美努村」で発見されたとすることにも繋がる気がするのです。

 

 

河内のシキでは、神八井耳命が十市県に移住した縁により、彼の子孫を県主に迎えて「皇別」の地位を獲得したのだろう。

それは、この地が大和川石川の合流地点にあるため古代からの交通の要衝であり、古墳時代には土師氏が隆盛して古市古墳群の一画と化し、奈良時代から平安時代に至っては「河内国府」が置かれて、大和王朝になっても河内国の重要拠点であり続けたからです。