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東風友春ブログ

古代史が好き。自分で調べて書いた記事や、休日に神社へ行った時の写真を載せています。
あと、タイに行った時の旅行記やミニ知識なんかも書いています。

旧事紀の「天日方奇日方命」は記紀には登場しない名前である。

天日方奇日方命の血縁には、兄妹に「媛蹈鞴五十鈴姫」及び「五十鈴依姬命」、さらに子には「渟中底姫命」を記しており、日本紀にもこの三名をそれぞれ神武皇后綏靖皇后安寧皇后と記録しています。

 

 

【①神武紀】納媛蹈韛五十鈴媛命、以爲正妃。

【②綏靖紀】立五十鈴依姫爲皇后、一書云、磯城縣主女川派媛。一書云、春日縣主大日諸女糸織媛也。卽天皇之姨也。

【③安寧紀】立渟名底仲媛命亦曰渟名襲媛爲皇后。一書云、磯城縣主葉江女川津媛。一書云、大間宿禰女糸井媛。

 

日本紀では、媛蹈鞴五十鈴姫を「事代主神の大女なり」とし、五十鈴依姬を「事代主神の少女なり」と記すが、綏靖天皇にとっては母親の妹つまり叔母を妻に迎えており、これは「鵜葺草葺不合命」が母「豊玉姫」の妹「玉依姫」を妻に迎えた話と重なって見える。

 

【②綏靖紀】母曰媛蹈韛五十鈴媛命、事代主神之大女也。

【③安寧紀】母曰五十鈴依媛命、事代主神之少女也。

【④懿徳紀】母曰渟名底仲媛命、事代主神孫、鴨王女也。

 

さらに日本紀では、渟名底仲媛命「事代主神の孫、鴨王の女なり」と記すことから、天日方奇日方命「鴨王」と言う名で登場している。

鴨王は後世の称かもしれないが、その意味するところは即ち「神王」であり、おそらくこの人物が「神の子」であったための呼称であろう。

つまり「神の子」の一族は、神武・綏靖・安寧と三代続けて皇后を輩出しており、大和朝廷の黎明期においては、外戚として皇室に次ぐ地位を確立しただろうと推測する。

しかし、鴨王は日本紀と旧事紀の懿徳天皇の条にしか見られないし、皇室の外戚とは言え、王号を名乗るのは異例と思える。

 

 

ちなみに姓氏録には「鴨君」という氏族が摂津国に記載され、出自を「出自開化天皇々子彦坐命也」とするが、鴨王との関係は分からない。

また、奈良県橿原市の藤原京跡「鴨公」という土地があり、大極殿跡には鴨公神社と記された石碑や御神木が残るので、もしかすると鴨王を祀っていたかもしれないが、こちらも詳しいことは分かっていない。

 

 

ところで、古事記では五十鈴依姬命及び渟名底仲媛命の名は登場しない。

 

【②綏靖記】此天皇、娶師木縣主之祖、河俣毘賣。

【③安寧記】此天皇、娶河俣毘賣之兄、縣主波延之女、阿久斗比賣。

 

古事記に綏靖皇后を「河俣毘賣」とすることは、日本紀「一書に云はく、磯城縣主の女、川派媛」とするのに合致します。

又、古事記に安寧皇后を「河俣毘賣(綏靖皇后)の兄、県主波延の女、阿久斗比賣」と記すことは、旧事紀に綏靖皇后が天日方奇日方命の妹、安寧皇后を天日方奇日方命の娘とする関係性に一致します。

つまり、天日方奇日方命は鴨王であると同時に「師木(磯城)縣主の波延」でもあると考えられるのです。

ちなみに日本紀(一書を含む)によると、第二代綏靖天皇から第七代孝霊天皇までの皇后は、「磯城県主」や「十市県主」から選ばれている。

 

【④懿徳紀】立天豐津媛命爲皇后。一云、磯城縣主葉江男弟猪手女泉媛。一云、磯城縣主太眞稚彥女飯日媛也。

【⑤孝昭紀】立世襲足媛爲皇后。一云、磯城縣主葉江女渟名城津媛。一云、倭國豐秋狹太媛女大井媛也。

【⑥孝安紀】立姪押媛爲皇后。一云、磯城縣主葉江女長媛。一云、十市縣主五十坂彥女五十坂媛也。

【⑦孝霊紀】立細媛命、爲皇后。一云、春日千乳早山香媛。一云、十市縣主等祖女眞舌媛也。

【⑧孝元紀】母曰細媛命、磯城縣主大目之女也。

 

 

磯城県は、延喜式の祈年祭祝詞の一節に「御縣坐皇神等前、高市、葛木、十市、志貴、山邊、曾布御名者白とあることから、古代の大和にあった「六御県」の一つとされ、その中心地は、崇神天皇の「磯城瑞籬宮趾」や式内社の「志貴御縣坐神社」の鎮座する奈良県桜井市金屋、つまり三輪山の南麓あたりとされる。

一方の十市県は、現在の奈良県橿原市十市町のあたりとされる。

和州五郡神社神名帳大略注解」が載せる「多神宮注進状草案」に「皇弟神八井耳命、自帝宮以降居於當國春日縣 後爲十市縣と記すことから、綏靖天皇の兄の「神八井耳命」の転居地が春日県となり、後にそこが十市県に改められて、大和六御県の一つに至ったと考えられる。

 

 

ところで「和州五郡神社神名帳大略注解」では鴨王の子孫とする「十市縣主系図」というものも載せている。

これによると「鴨王命」の子「大日諸命」から春日県主の家系となり、孝昭天皇の御代に「五十坂彦」が「十市縣主」を賜って春日から改姓したとある。

鴨王命が「磯城県主波延」だとしたら、十市県主は磯城県主家からの分家と言えそうだ。

 

 

古事記「十市縣主の祖、大目の女、名は細比賣命」とある孝霊天皇の皇后が、日本紀では「磯城県主大目が女なり」としたり、或いは「春日千乳早山香媛」「十市縣主等の祖の女、眞舌媛」と混乱しているのはそのせいだろう。

この十市県主の「大目」とは、「十市縣主系図」によると、五十坂彦の子の「大日彦」にあたる。

ちなみに「式内社調査報告書」によると、十市町に鎮座する「十市御縣坐神社」の祭神は、かつて「大目命」とする社伝があったそうだ。

 

天なるや、弟棚機のうながせる、玉の御統、みすまるに、穴玉はや、み谷二渡らす、阿遅志貴高日子根の神ぞ。

 

下照姫が詠んだ夷振には、天界にて機を織る女性(天の弟棚機)が登場するが、この女性は七夕の「織姫」を連想させる。

弟棚機とは、棚(横板)をつけた機械で織る女性を意味し、女性が織物を織るのは、原始的な生活様式を今なお守る世界各地の少数民族に見ることができ、古代からの人類共通の習俗だと言える。

 

 

さて、「古語拾遺」には、天照大神が籠る天岩戸の前で神衣を織った「天棚機姫」という神が登場する。 

 

令天羽槌雄神 倭文遠祖也。織文布。令天棚機姫神織神衣。所謂和衣。古語爾伎多倍。

 

ここでは、倭文(シトリ)氏の遠祖である天羽槌雄神文布(シツ)を織らせ、天棚機姫神神衣、つまり和衣(ニキタヘ)を織らせたとしている。

岩波の古語拾遺の補注では、文布はなどの繊維で織った布であるのに対し、伊勢神宮の神衣祭の事例から、和衣は絹布を指すとみる方が合理的だと述べている。

つまり古語拾遺では、文布を織る天羽槌雄神と和衣を織る天棚機姫神は各々別神だとするが、古事記日本紀には天棚機姫神が登場しないので何とも判断しようがない。

しかし、一つ注意したいのは、倭文氏はよく渡来氏族と勘違いされるが、天羽槌雄神を祖神とする歴とした日本の古代氏族であり、これは渡来人の秦氏が機織の技術者集団であったために広まった誤解である。

 

 

この天羽槌雄神は、神名帳の大和国葛下郡に「葛木倭文坐天羽雷命神社」という神社が記載され、その祭神とされている。

現在この神社は、二上山登山口にあたる奈良県葛城市加守に鎮座しており、祭神を天忍人命とする「掃守神社」と、祭神を大國御魂神と豊布都霊神を祭神とする「葛木二上神社」を左右に配祀している。

葛木倭文坐天羽雷命神社に掃守神社が配祀されているのは、祭神の「天忍人命」が掃守連の祖神であり、地元(加守)の氏神であるためだ。

そもそも掃守連の住地に倭文氏の氏神である天羽槌雄神が祀られているのも不思議な気はするが、この疑問に「神祇志料」では、葛木倭文坐天羽雷命神社は「今上太田村志登梨にあり、棚機森と云」と記す。

上太田村の棚機森、現在奈良県葛城市太田には今も「棚機の森」があって、そこに「棚機神社」と称する小さなお宮が鎮座している。

棚機神社は岩橋山の山際を走る南阪奈道路の側の森に石の祠が残るだけの小さな社である。

 

 

しかし、この棚機の森の鎮座地は「太田字七夕」だそうで、「志登梨(シトリ)」もしくは「倭文」といった地名は周囲にも見当たらない。

そもそもこの神社の祭神は天棚機姫神とされ、天羽槌雄神とは異神であるなら、棚機神社と葛木倭文坐天羽雷命神社とは何ら関係ないように思える。

ところが、奈良県葛城市寺口には「博西神社」という神社があって、「新庄町史」には博西神社の由緒を次のように記している。

 

昔、葛下郡磐城村岩橋太田方に棚機森今、七夕蔭)といふ所があつた。布施氏がここから天羽雷命を遷座した時、大屋まで来ると日が暮れたのでそこを日暮といふ。しかし棚機の森には古来社殿の設備がなく、唯少しの老樹と石灯籠一基を存するだけであるから、葛木倭文坐天羽雷命神社を波加仁志に遷座せられたことを徴するに足るといふ。

 

 

これによると、棚機神社は葛木倭文坐天羽雷命神社であり、博西神社の元宮だとしている。

ちなみに博西(波加仁志)とは屋敷山古墳(現屋敷山公園)の西側に位置することから「墓西」と称するが、博西神社の鎮座地は「字倭文山」であり、同社を「葛木倭文大明神」と記した明治以前の文書(地頭への諸願許可書等)も存在するそうだ。

こうなると、天棚機姫神は天羽槌雄神と同神であるとしか思えないが、新庄町史が載せる「博西神社明細帳」には「明治初年の頃、大和志の書載する所に依り天羽雷命神社は同郡当麻村大字加守に所定し、祭神を下照姫命を祭りたるは今其據所を知らず」とあって、式内社に漏れた博西神社の祭神を下照姫とした帰結が何とも言えず面白い。

そのような訳で、現在、博西神社の色彩見事な本殿には、下照比賣命を北殿、菅原道真公を南殿に祀っている。

 

 

ところで、七夕の牽牛織姫の伝説は中国由来だそうだが、下照姫の夷振では「穴玉」に、「み谷(御谷)天の川に置き換えたなら、「御統の玉を糸で繋ぐように(天稚彦にもう一度会うために)天の川を渡ることができるなら、そんな願いを叶えるのは味鉏高彦根神であるよ」と解釈でき、天神の返し矢によって天稚彦を亡くした下照姫の想いが、天帝によって引き裂かれた彦星(アルタイル)と織姫(ベガ)との伝説に不思議に合うことに驚きます。

 

旧暦七月七日の夕べから、記紀に天稚彦の殯を「八日八夜」とした期間を経ると、お盆(旧暦七月十五日あたり)に入ることから、七夕の節句とはやはり日本古来の祖霊信仰に基づくものかもしれない。

大田々根子媛蹈鞴五十鈴姫と同じく「神の子」と呼ばれていました。

しかし、古事記には「僕は大物主大神、陶津耳命の女、活玉依毘賣を娶して生める子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕意富多多泥古ぞ」とあるので、大物主神の直接の子供という訳では無さそうです。

おそらくは、大田々根子は「神の子孫」という意味で「神(カム或いはカモ)の子」と呼ばれていたのだろう。

ちなみに、太田々根子が大物主神から先祖の名を順々に述べるくだりは、口伝により家系を説明していたことを示すものであり、家系図の日本最古の例だとされています。

さて、大田々根子の言葉を信じるなら、活玉依姫が生んだ「神の子」とは「櫛御方命」という人物になる。

この櫛御方命は、旧事紀の記述では「天日方奇日方命」とされる人物に該当する。

 

 

孫、都味齒八重事代主神。化八尋熊鰐、通三島溝杭女活玉依姬、生男一女。

兒、天日方奇日方命。此命橿原朝御世、勅爲食國政申大夫共奉。

妹、韛五十鈴姬命。此命橿原朝主爲皇后、誕生二兒。卽神渟名河耳天皇、次、彦八耳命是也。

次妹、五十鈴依姬命。此命葛城高丘朝主爲皇后、誕生一兒。卽、磯城津彦玉手看天皇也。

三世孫、天日方奇日方命、亦名阿田都久志尼命。此娶日向賀牟度美良姫、生一男一女。

兒、健飯勝命。

妹、渟中底姫命。此命輕地曲峽宮御于天皇立爲皇后、誕生四兒。卽大日本根子彦、耜友天皇。次、當津彦命々。次、磯城津彦命。次、研貴彦友背命。

 

旧事紀では活玉依姬のもとに通った神は(都味齒八重)事代主神であり、日本紀「事代主神與三嶋溝橛耳神之女立櫛媛、所生之鬼、號曰姫媛蹈鞴五十鈴媛命、是國色之秀者」とする記述と合致します。

この事代主神は、八尋熊鰐(大きな鮫か?)に化けて三島溝杭の娘活玉依姬に通い、一男二女をもうけます。

つまり、神の子は三人だった訳で、男子は天日方奇日方命、女子は媛蹈鞴五十鈴姫と次女の五十鈴姬依命である。

天日方奇日方命については「天日方奇日方命、倶申食國政大夫。其申食國政大夫者、今之大連亦云大臣也。但天日方奇日方命者、皇后之兄、大神君祖也」とあり、神武皇后(媛蹈鞴五十鈴姫)や綏靖皇后(五十鈴姬依命)の兄であり、政事を司る大臣として朝廷に仕えたと記されています。

この旧事紀において、古事記では別々の場面に登場していた媛蹈鞴五十鈴姫と櫛御方命の出生が、明確に同一の出来事として語られているのです。

そして、この旧事紀の記述に沿って、三兄妹を「神の子」としていることは、例えば三輪高宮家系譜(「三輪叢書」所収)など三輪諸氏の家系図に認められるところである。

 

 

しかしながら「粟鹿大明神元記」では、神の子は「久斯比賀多命」とされていて、この人物が古事記の櫛御方命に該当する。

 

娶三嶋溝杭耳之女、玉櫛姫生児、溝杭矢瀬姫踏鞴五十鈴姫命、嫁神倭伊波礼毘古天皇、生神沼河耳天皇并皇子。

次五十鈴依姫命、嫁神沼河耳天皇、生磯城津彦玉手看天皇。

又娶溝杭耳之孫女、活玉依姫生児、久斯比賀多命、大神朝臣祖也。自神倭伊波礼毘古天皇御世、始而至神沼河耳天皇御世、為内臣国権日、賜墓地。在泉国知努乎曽村。

 

粟鹿大明神元記は、兵庫県朝来市にある粟鹿神社のかつて神主家だった神部直氏(大田々根子の子孫)が、神社の由来を記した書物である。

これによると、大国主神三島溝杭耳の娘「玉櫛姬」を娶り「溝杭矢瀬姫踏鞴五十鈴姫命」「五十鈴依姫命」の二女をもうけ、さらに溝杭耳の孫娘「活玉依姫」を娶って「久斯比賀多命」が生まれたとする。

それなら、玉櫛姬と活玉依姫は同一人物ではなく、久斯比賀多命と踏鞴五十鈴姫命は異母姉弟という関係になる。

 

 

此久斯比賀多命、娶宇治夜須姫命生児、阿麻能比賀太命、妹渟中底仲姫命、嫁片塩浮穴宮御宇磯城津彦玉手看天皇、生息石耳命、次大日本彦須支侶天皇、次常根津彦某兄命、次磯城津彦命。

 又、大和氏文付在名、太祁知遅若命。

阿麻能比賀太命、娶意富多弊良姫命生児、櫛瓱戸忍栖浦浦稚日命、児櫛瓱戸忍勝速日命。

 又、大和氏文付在名、大祁弥賀乃保命。

 

そして、この久斯比賀多命の子供には「阿麻能比賀太命」と安寧皇后となった「渟中底仲姫命」がいる。

旧事紀「天日方奇日方命」は、この阿麻能比賀太命と久斯比賀多命の親子を一人の人物として錯誤したものかもしれない。

ちなみに粟鹿大明神元記には特殊な記述が見受けられ、史料の信用性に疑問はあるが、三重県伊賀市の葦神社では「天日方命」及び「奇日方命」をそれぞれ一柱として祭神に数えているので、それが誤りだとは言い切れない。

しかも、姓氏録では「石邊公、大物主命子久斯比賀多命後也」「狛人野、同命(大物主命)兒櫛日方命之後也」といった記載もあることから、神の子を「奇日方命」だとする説は一考の余地がある。

粟鹿大明神元記では、久斯比賀多命が「泉国知努」の乎曽村に墓所を賜ったという他に見られない独自の記述がある。

日本紀「奇日方天日方武茅渟祇」の記述を連想させるが、 久斯比賀多命は没後、茅渟に葬られて祇(神)として祀られたのだろうか。

尚、和泉国茅渟は現在の大阪府南部を指すと思われるが、乎曽村の具体的な場所は残念ながら皆目分からない。

旧事紀高鴨神社「高鴨社、云捨篠社」と記されていることは、長い間不思議に思っていたことの一つです。

確かに「大字鴨神小字捨篠」に鎮座する高鴨神社を「捨篠社」と呼ぶのは不思議でないが、それならどうしてその土地が「捨篠」だったのか、その理由が今ひとつ分からなかった。

その謎を解明する鍵が、大和高田市にある「捨篠池」にあると知ったのはつい最近のことです。

 

 

捨篠池は、近鉄浮孔駅より約1.5km南、奈良県大和高田市奥田にある。

大和高田市奥田は、葛城山と畝傍山に挟まれた平野部のど真ん中と言えるような土地である。

ここには、初夏になると蓮の花咲く捨篠池があり、池の傍らには弁財天を祀る神社(奥田弁天神社)が建っている。

この池は、奈良県神社庁が発行した「かみのみあと」という本に「大和高田市史」を引用して次のように記されている。

 

奥田の善教寺の東北に捨篠の池がある。この池は味鉏高彦根命の荒魂を祀った池である。この神は大己貴神の長子で、高鴨神社に祀られている。高鴨神社は御所市にあり、ここにはこの神の和魂を祀る。捨篠神社は興田村、今の興田村の捨篠池で、池を御神体とする。役行者の母・刀良売が、この神社に参詣した際、蛙が水より出て蓮の葉に乗って浮いていた。彼女が池の傍の篠を取って蛙に向かって投げたところ、蛙の目にあたった。これからこの池を捨篠の池と名付けたという。蛙の目を損じたので、この池には、今も片目の蛙が住んでいる。

 

これによると、捨篠池は「味鉏高彦根命の荒魂」を祀った池であり、現在の弁天社は、別名を「捨篠神社」と言うらしい。

味鉏高彦根命の荒魂を祀った池であるのに、捨篠神社が弁財天を祭神とするのは不自然な感もあるが、一般的に弁財天は池や水辺に祀られることが多いため、この神社は後世になって建てられたものなのだろう。

 

 

捨篠池に設置されていた案内板によると、役行者の母・刀良売が篠を投げて蛙の目を損じた話を「蓮池の一つ目蛙」と題して「捨篠」の名の由来としている。

神が木や草で片目を損じた民話は日本各地にあるが、谷川健一氏は「青銅の神の足跡」の中で、一つ目の神や妖怪は鍛治師が患う職業病の投影ではないかと論じており、「一つ目」蛙の伝説は、味鉏高彦根神と製鉄との関連が疑われてまことに興味深い。

ちなみに現地案内板の一つである「大和高田の民話伝承碑」では、この物語に後日談があって、刀良売はこの出来事の後、重態に陥って最後は亡くなってしまったとある。

母を失った役行者はこれを契機に発心し、葛城山で修行を積んで修験道を開いたのだそうだ。

 

 

これら捨篠池に纏わる伝説は、あくまで民間伝承として地元に伝えられたもので、何かの史料に書かれていたものではない。

しかしながら、捨篠池の近くには福田寺行者堂や刀良売の墓といった役行者ゆかりとされる場所がいくつか残されている。

この行者堂は役行者の生誕地と伝えられ、捨篠池を模したような小さな蓮池や弁天社があり、ここには捨篠神社の神像と同形の弁財天像も伝わっているそうだ。

 

 

役行者は御所市茅原の吉祥草寺を生誕地とする説が有名だが、(捨篠神社の説明板によると)刀良売が捨篠池に通っていたのは子供を授かるよう祈願していたからで、大和高田市奥田を役行者出生地の有力候補と見なすのに、捨篠池の伝説は説得力のある話だと思う。

 

 

そして、さらに役行者の開基とされる吉野の金峯山寺には、毎年七月七日(旧暦六月九日)に捨篠池の蓮の花を供える蓮華会が催され、あわせて蔵王堂では「蛙飛び行事」が行われている。

金峯山寺の蛙飛び行事は、蔵王堂で大蛙の姿から人間に戻されるという奇祭であり、山伏が鷲に攫われた者を蛙の姿にして救出したという説話に因むものだが、大和高田の伝承では、この行事を捨篠池で一つ目になった蛙の供養のためと説明している。

蓮華会のために捨篠池の蓮を収穫する「蓮取り行事」では、山伏たちが行者堂や刀良売の墓を巡り歩くことから、捨篠池と役行者、そして金峯山寺の蓮華会には各々密接な関連性があると言わざるを得ない

 

 

ところで、奈良県神社庁の「かみのみあと」では、もう一つ捨篠池に伝わる異説を載せている。

 

小角は幼少の頃から明敏であったが、人が問うて「汝の父は何処にいるか」と言うのに答えて、小角は天を指すので不思議に思うたが、四つの時、母がまた父の事を問うと、小角はまた前のように天を指して「今日は父に逢おうと思う」と言って、捨篠の池に向かって拝していた。しばらくして水面に人影が現れたので、小角が合掌して「願わくばお顔を拝みたい」と言うと、たちまち微風が吹いて水が波立ち、そこに白髪の老翁が茅萱に乗って水面に現れた。彼は「われは賀茂の神、味鉏高彦根命である。汝の母は我が後裔である。さきに子供がいないのを悲しみ、余に祈ること切なるによって、汝を授けた。しかるに角麻呂は早世した。汝は幼少から孤児になる。われはこれを憐れみ、野口村のカモノキミトツキマロはわが後裔であるから、彼をして育てしめんと思う。これを怪しむなかれ」と言って、姿を消してしまった。

 

こちらの物語では役小角(役行者)が主人公であり、しかも味鉏高彦根神も登場する。

この父を尋ねる問答に対して天を指差す役行者の姿は、山城国風土記賀茂別雷命「汝父將思人合飲此酒、即擧酒杯向天爲祭、分穿屋甍而升於天」とする場面とどこか重なって見える。

捨篠池に現れた味鉏高彦根神の言葉によれば、おそらく角麻呂は早逝した小角の実父、鴨公トツキマロは養父を指すと思われるが、実際には母である刀良売も含めて役行者の親族の名は不明で、これは後世に創作された役行者の伝記の影響だろうと思う。

ちなみに鴨公トツキマロの野口村は、葛下郡野口村(大和高田市野口)のことかもしれないが、もし「野口神社」が鎮座する御所市蛇穴のことなら、ここにも役行者が登場する伝説が残っており興味深い。

 

 

さて、役行者と言えば、日本霊異記「役優婆塞者、賀茂役公氏、今高賀茂朝臣者也」とあるが、高鴨神社を土佐から復祠させた賀茂朝臣田守は、神護景雲二年(七六八)に高賀茂朝臣の姓を賜っているので、田守は役行者の子孫だったのかもしれない。

続日本紀では高鴨神社の復祠を「天皇乃遣田守、迎之令祠本處」とあるので、高賀茂朝臣田守は復祠後に高鴨神社の神官家になったと考える。

この役行者と高賀茂氏との関係、そして捨篠池の伝説は、高鴨神社を捨篠社と呼ぶことの答えになるのだろうか。

もしかすると捨篠池は高鴨神社の元宮だったのか、繋がりそうで繋がらない、謎は益々深まるばかりである。

前回は、山城国風土記及び古事記の丹塗矢伝説は物語の構造がとても似ていることを説明しました。

さらに新撰姓氏録の「大神朝臣」の記述に登場する「三島溝杭」が、古事記の丹塗矢伝説にも登場することを述べました。

 

初大國主神、娶三島溝杭耳之女玉櫛姫、夜來曙去、未曾晝到。於是玉櫛姫續苧係衣、至明隨苧尋覓、經茅渟縣陶邑、直指大和國眞穗御諸山。還視苧遺、唯有三縈、因之號姓大三縈。

【新撰姓氏録】(八一五)より

 

大神朝臣の伝承では、大国主神「三島溝杭耳」の娘の玉櫛姫のもとに通いますが、いつも夜に来て明け方には去るため、玉櫛姫は(神の)衣に(芋麻の)糸を引っ掛け、翌朝にその糸を辿ると茅渟県陶村を経て大和の御諸山へまっすぐに続いていました。

残った糸が三輪だけだったことから、(この一族は)大三輪氏と名乗ったと記している。

このため、「神」と書いて「ミワ」と呼び、自らを大いなる神の子孫として「大ミワ氏」と称したのでした。

さて、大神氏が世に出るきっかけとなったのは「大田々根子命」の出現によってです。

 

 

此謂意富多多泥古人、所以知神子者、上所云活玉依毘賣、其容姿端正。於是有神壯夫、其形姿威儀、於時無比、夜半之時、儵忽到來。故、相感、共婚共住之間、未經幾時、其美人妊身。爾父母恠其妊身之事、問其女曰、汝者自妊。无夫何由妊身乎。答曰、有麗美壯夫、不知其姓名、毎夕到來、共住之間、自然懷妊。是以其父母、欲知其人、誨其女曰、以赤土散床前、以閇蘇此二字以音。紡麻貫針、刺其衣襴。故、如教而旦時見者、所著針麻者、自戸之鉤穴控通而出、唯遺麻者三勾耳。爾卽知自鉤穴出之狀而、從糸尋行者、至美和山而留神社。故、知其神子。故、因其麻之三勾遺而、名其地謂美和也。此意富多多泥古命者、神君、鴨君之祖。

【古事記】(七一二)より

 

古事記では「この意富多多泥古といふ人を神の子と知れる所以は」との書き出しで、意富多多泥古(大田々根子命)を「神の子」と表現し、新撰姓氏録の「大神朝臣」の伝承とほぼ同じ内容の物語を載せている。

ここでは、活玉依毘賣(活玉依姫)の美しさに惚れた神が麗しい人の姿となり、毎夜現れては共に過ごす間に活玉依姫は妊娠します。

夫もいない身なのに妊娠したと不思議がる父母に、姫は名を知らぬが毎夜通う者がいると答えます。

姫の話を聞いた父母は、相手の身元を探るため、麻の糸を通した針をその者の衣服に引っ掛けるよう教えます。

翌朝になって見れば、戸の鍵穴から抜け出た糸が三輪山の神の社へと続いていたので、姫が(三輪山の)神の子を身ごもったと気づくのでした。

この物語は、糸の残りが三輪だったことから「三輪山」の地名説話になっており、俗に「三輪山伝説」と呼んでいる。

この三輪山伝説では丹塗り矢が登場しないので、古事記にある媛蹈鞴五十鈴姫の誕生とは別の話との印象を受けるが、実は同じ出来事を物語っている。

要は「神と人との結婚」であり「神の子の誕生」なのだが、ここではもう少し大田々根子について掘り下げてみたい。

 

是以驛使班于四方、求謂意富多多泥古人之時、於河内之美努村、見得其人貢進。爾天皇問賜之汝者誰子也、答曰、僕者大物主大神、娶陶津耳命之女、活玉依毘賣、生子、名櫛御方命之子、飯肩巢見命之子、建甕槌命之子、僕意富多多泥古白。於是天皇大歡以詔之、天下平、人民榮。卽以意富多多泥古命、爲神主而、於御諸山拜祭意富美和之大神前。

【古事記】(七一二)より

 

布告天下、求大田々根子、卽於茅渟縣陶邑得大田々根子而貢之。天皇、卽親臨于神淺茅原、會諸王卿及八十諸部、而問大田々根子曰、汝其誰子。對曰、父曰大物主大神。母曰活玉依媛。陶津耳之女。亦云、奇日方天日方武茅渟祇之女也。

【日本書紀】(七二〇)より

 

大田々根子命の出現を、古事記では崇神天皇の御代としており、日本紀では崇神天皇七年のこととしています。

この年は疫病が発生して多数の死者を出していました。

このような国状に頭を悩ませていた天皇に、大物主神が夢の中に現れて「大田々根子という人物に我を祭らせたなら万事解決する」と教えます。

大田々根子を発見した天皇は、彼に「そなたは何者か」と問うと、大田々根子は大物主神の子孫だと答えたのです。

これにより、天皇は大田々根子を三輪山に大物主神を祭る神主としたところ、疫病も止んで天下泰平となったということです。

 

 

古事記の丹塗矢伝説と三輪山伝説において異なる点は、先ず「神の子」が、大田々根子命もしくは「櫛御方命」だということ。

神の子を生んだ母は、玉依姫とほぼ同じ名前の「活玉依姫」という女性です。

活玉依姫の父親は、三島溝杭ではなく「陶津耳」、もしくは先述した「奇日方天日方武茅渟祇」となっていること。

そして、大田々根子が見つかったのは、古事記では「河内之美努村」で、日本紀では「茅渟縣陶邑」とされていることです。

このように古事記の媛蹈鞴五十鈴姫の物語、三輪山伝説、さらに山城国風土記の丹塗矢伝説とは相違点が多々あり、一見同じ出来事を題材にした話だと気付かないが、武茅渟祇三島溝杭玉依姫など共通もしくは類似のキーワードが交互に現れることは、これらの物語が無関係でないことを証明しているのです。

 

前回「武茅渟祇」の記述から、山城の賀茂氏と大和の賀茂氏が共通の祖先より生じた氏族だと述べた。

それにはもう一つ加えたい理由があって、この二者が非常によく似た伝承を有しているからである。

 

賀茂建角身命、丹波の国の神野の神伊可古夜日女にみ娶ひて生みませるみ子、名を玉依日子と曰ひ、次を玉依日賣と曰ふ。玉依日賣、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃ち取りて、床の邊に挿し置き、遂に孕みて男子を生みき。

【釈日本紀】(鎌倉後期)より

 

これは山城国風土記の謂わゆる「丹塗矢伝説」を抜粋したものだが、これは玉依姫が川から丹塗り矢を持ち帰ったところ、妊娠して神の子(賀茂別雷命)を生んだというお話である。

この話に酷似した話が、古事記に記された神武天皇の皇后「媛蹈鞴五十鈴姫」の出生譚である。

 

然れども更に大后とせむ美人を求ぎたまひし時、大久米命曰しけらく「ここに媛女あり。こを神の御子と謂ふ。その神の御子と謂ふ所以は、三島溝咋の女、名は勢夜陀多良比売、その容姿麗美しくありき。故、美和の大物主紳、見感でて、その美人の大便まれる時、丹塗矢に化りて、その大便まれる溝より流れ下りて、その美人の陰を突きき。ここにその美人驚きて、立ち走りいすすきき。 すなはちその矢を将ち来て、床の辺に置けば、忽ちに麗しき壮夫に成りて、すなはちその美人を娶して生める子、名は富登多多良伊須須岐比売命と謂ひ、 亦の名は比売多多良伊須氣余理比売と謂ふ。こはそのほとといふ事を悪みて、後に名を改めつるぞ。故、ここを以ちて神の御子と謂ふなり」とまをしき。

【古事記】(七一二)より

 

この話は、九州から東征して大和を平定した神武天皇に、臣下の大久米命「神御子」と呼ばれる女性(媛蹈鞴五十鈴姫)がいて、皇后に相応しいと進言している場面である。

ここにも丹塗りの矢が登場するので、もう一つの丹塗矢伝説であると言える。

 

 

本居宣長「古事記傳」の中で山城国風土記の丹塗矢伝説を引用して「似たる事なり」と記している。

さらに神の子が生まれたという物語の骨子も基本的に山城国風土記と同じである。

三輪の大物主神三島溝咋の娘、勢夜陀多良比売に惚れ、その娘が便所で用を足していた際に、神が丹塗矢に化けて便所の溝から侵入して娘の下部を突いたので、娘は大層驚き矢を持ち帰って家の床の辺に置いたところ、その矢は美しい青年と化して二人は結ばれた。

こうして生まれたのが神の御子、媛蹈鞴五十鈴姫である。

ちなみにこの丹塗矢を持ち帰って家の床の辺に置くという描写は、古事記の原文に「乃將來其矢置於床邊」とあり、玉依姫が丹塗矢を「乃取插置床邊」とする山城風土記の丹塗矢伝説と似ている気がする。

しかし、山城国風土記では単に丹塗矢を川で拾ったとするのに対し、古事記では男根に見立てた丹塗矢が便所の溝から侵入して女陰を突くといった表現が、その後に続く神(大物主神)と人(勢夜陀多良比売)との性交を暗示させている。

又、山城国風土記と古事記では登場する人物名が悉く違っている。

例えば、神の子は山城国風土記では賀茂別雷神、古事記では比売多多良伊須氣余理比売(媛蹈鞴五十鈴姫)、神の子を生んだ姫は玉依日賣勢夜陀多良比売、神の子を生んだ姫の父は賀茂建角身命三島溝咋といった具合である。

もちろん、この二つの物語は似てはいるが、それぞれ別のお話であるという見方が一般的だ。

しかも山城の賀茂氏には先祖に神武皇后になられた媛蹈鞴五十鈴姫がいるなんて伝承は一切無い。

だが、新撰姓氏録に記された大和国の賀茂朝臣と同祖である「大神朝臣」の頁に「三島溝杭耳」と書かれていたのを思い出してほしい。

 

大神朝臣/素佐能雄命の六世孫、大國主の後なり。初めに大國主神、三島溝杭耳の女、玉櫛姫を娶ひたまひて、夜來りて曙に去る。

【新撰姓氏録】(八一五)より

 

この「三島溝杭耳」は、古事記に登場した勢夜陀多良比売の父(媛蹈鞴五十鈴姫の祖父)の「三島溝咋」とおそらく同一人物であろう。

三島溝杭の「三島」は、現在の大阪府高槻市三島江あたりの地名であり、神名帳には摂津国島下郡に「三島鴨神社」がある。

 

 

神名帳には同じく摂津国島下郡に「溝咋神社」があり、現在の大阪府茨木市五十鈴町に鎮座しているが、溝杭耳の「耳」が武茅渟祇の「祇」と同じく地域の首長を意味する語だとしても、「溝杭」が果たしてこの地域に存在した首長の人名なのか、はたまた地名なのかについては今なお釈然としない。

ちなみに媛蹈鞴五十鈴姫に関して日本書紀では次のように記している。

 

此れ、大三輪の神也。此の神の子は、即ち甘茂君等・大三輪君等、又、姫蹈鞴五十鈴姫命。又、曰く、事代主神、八尋熊鰐と化爲りて三嶋の溝樴姫、或いは玉櫛姫と云うに通いて、生みし兒は姫蹈鞴五十鈴姫命。是は神日本磐余彦火火出見天皇の后と爲す也。

 

庚申年の秋八月の癸丑の朔戊辰に、天皇、正妃を立てむとす。改めて広く華胄を求めたまふ。時に、人有りて奏して曰さく、「事代主神、三嶋溝橛耳神の女、玉櫛媛に共ひして生める児を、号けて媛蹈鞴五十鈴媛命と曰す。是、国色秀れたる者なり」とまうす。

【日本書紀】(七二〇)より

 

日本紀では歴史書としての体裁を気にしたのか、古事記に記された丹塗矢伝説のような物語は記されていない。

しかも日本紀では勢夜陀多良比売という女性は登場しない。

媛蹈鞴五十鈴姫の母は「三嶋溝樴姫或云玉櫛姫」又は「三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛」となっており、古事記より新撰姓氏録の大神朝臣の伝承に近い記述となっている。

勢夜陀多良比売について本居宣長は「古事記傳」の中で「勢夜は地名なるべし。聖徳太子傳暦に勢夜里と云見えて、今大和国平群郡に勢夜村あり」と記している。

奈良県生駒郡三郷町には今でも「勢野」という地名が残るので「勢夜村」はこの辺りだったと考えられるが、残念ながらこの地に勢夜陀多良比売や丹塗矢伝説に繋がる痕跡は見当たらない。

玉櫛媛は勢夜陀多良比売の別名という見方もあるが、「魂奇し姫」や「瀬矢たたら姫」といった物語に則した呼称が用いられたのではないだろうか。

 

山城国の賀茂氏が大和国からやって来た氏族だと考えるのは、偏に「釈日本紀」に残された山城国風土記の逸文に拠るところが大きい。

 

日向曾之峯天降坐神 賀茂建角身命也 神倭石余比古之御前立坐 而宿坐大倭葛木山之峯

【釈日本紀】(鎌倉後期)

 

この逸文には、日向の曾の峯に天降った建角身命が神武天皇一行を先導し、大和国の葛城の山の峯に宿ったとある。

建角身命を「日向曾之峯天降坐神」とするのは、賀茂氏の先祖が九州から来たことを連想させるが、ここでは触れずに、先ず「宿坐大倭葛木山之峯」について検証してみたい。

 

 

山城国/神別/天神

賀茂縣主/神魂命の孫、武津之身命の後なり。

鴨縣主/賀茂縣主と同祖。神日本磐余彦天皇、中洲にいでまさんとする時に、山の中険絶しく、踏みゆかむに路を失ふ。ここに神魂命の孫・鴨建津之身命、大きなる烏となりて、飛び翔けり導き奉りて、遂に中洲にとほりいたる。天皇その功あるを嘉したまひて、特に厚く褒めたまふ。天八咫烏の号はこれより始りき。 

【新撰姓氏録】(八一五)

 

新撰姓氏録は平安時代初期に各氏族の出自を記した氏族名鑑と呼べるような代物で、山城国の頁に記された「賀茂県主」及び「鴨県主」は、それぞれ京都の上賀茂神社や下鴨神社の神官家のことである。

一方、新撰姓氏録の大和国の頁には「賀茂朝臣」という氏族を見つけることができる。

 

大和国/神別/地祇

賀茂朝臣/大神朝臣同祖、大國主神之後也。大田々禰古命の孫、大賀茂都美命(一名大賀茂足尼)、賀茂神社を奉斎するなり。

大神朝臣/素佐能雄命の六世孫、大國主の後なり。初めに大國主神、三島溝杭耳の女、玉櫛姫を娶ひたまひて、夜來りて曙に去る。未だ晝に到らずして会わず。是に於いて玉櫛姫、苧を績み、衣に係けて、明くるに至りて苧に随ひ尋ね覓けば、茅渟縣の陶邑を経て、直に大和國の眞穗の御諸山を指す。還りて苧の遺りを視れば、ただ三索あり。之に因りて姓を大三輪と號す。

【新撰姓氏録】(八一五)

 

ちなみに賀茂朝臣が同祖としている「大神朝臣」は、その名が示す通り大神神社に神官家として仕えた氏族で、賀茂朝臣と大神朝臣は、日本紀によると天武天皇十三年十一月に朝臣を賜って改姓した「鴨君」「大三輪君」のことである。

鴨君と大三輪君は共に大国主神の子孫と称し、且つ大田々禰古命を共通の先祖としており、これは日本紀「これ大三輪の神也。この神の子は即ち甘茂君等・大三輪君等」とし、古事記「この意富多多泥古命は神君・鴨君の祖なり」とあるのに合致する。

これら大和の賀茂氏は一見、鴨武津之身命(建角身命)を祖神とする山城の賀茂氏とは系統の異なる氏族のように思える。

そもそも建角身命は天降った神、つまり天神とされていて、国津神(地祇)である大国主神とは別の神である。

 

 

しかしながら、山城と大和の賀茂氏はかなり古い時代に遡れば同じ先祖から派生した氏族であると考える。

その訳は、日本紀で大田々禰古命が自らの系譜を述べた言葉の中に「武茅渟祇」という先祖の名が含まれているからだ。

 

大田田根子に問ひて曰はく「汝は其れ誰が子ぞ」とのたまふ。対へて曰さく「父をば大物主大神と曰す。母をば活玉依媛と曰す。陶津耳の女なり」とまうす。亦云はく「奇日方天日方武茅渟祇の女なり」といふ。

【日本書紀】(七二〇)

 

武茅渟祇は、原文には「亦云奇日方天日方武茅渟祇之女也」とある条に登場する。

ここでの記述は、「奇日方天日方武茅渟祇」という一人の人物なのか、それとも「奇日方天日方」と「武茅渟祇」は親子関係にある別々の人物を述べたものなのか、今ひとつハッキリしないが、少なくとも武茅渟祇の音訓みは「建角身」を思わせる。

これは、伴信友「瀬見小河」(一八二一)「此武茅渟祇といへるは、建角身にて、其女の玉依媛と此活玉依媛とを混へたる」と指摘している。

この武茅渟祇が建角身命ならば、大田々禰古命にとって建角身命は母方の先祖となる。

彼らは大田々禰古命の登場を機に大和国に居住していたが、ある時期に賀茂県主らの先祖は山城国へ移住したのに対し、賀茂朝臣らはそのまま大和国に留まった一族だと考えてもいいのではないだろうか。

タイで有名なプラクルアンは、プラソムデットプラナンパヤープラロートプラポンスパンプラソンゴールで構成された五種類のプラで、このセットは「ベンジャパーキー(Benjapakee)」と呼ばれている。

これらは今からおよそ50年前くらいに、収集家らによって首から下げるプラの最良の組み合わせとして考案されたものです。

 

※画像はTheKnowlegeCenter発刊の「Benjapakee」より使用

 

ベンジャパーキーの中で一番有名で最も市場価値の高いものが「プラ・ソムデット(Phra Somdej)」です。

プラソムデットは、ベル(ラカン)の中で座禅を組んでいる仏像を抽象的に描いており、数多あるプラの中で最も洗練されたデザインを有している。

 

 

プラソムデットは、ワットラカン(Wat Rakhang Khositaram)Google Mapの高僧ソムデッ・トー(Somdej Buddhacharn Toh)により1867~1871年の間に作成されました。

ソムデットーはラーマ二世の落とし胤だったことからモンクット王子(Mongkut、後のラーマ四世)の教師を務めるなど、タイ仏教界において最も有名な高位の僧侶である。

また、彼は呪術に長けていたとされ、ナンナークの怨霊を鎮めたとか怪奇ものの物語やドラマにも登場するスーパースター(日本で例えるなら空海のような人物)であり、今でもタイの一般家庭や店先では国王と並んでソムデットーの肖像画を掲げているのを目にすることができる。

 

 

そのソムデットーは仏教の布教を目的として自ら作ったプラソムデットを托鉢の際に信者に配布していました。

ソムデットーにより製作されたプラソムデットには、他にワットバンクンプロム(Wat Bangkhunprom)Google Mapの仏塔に奉納された「プラ・ソムデット・バンクンプロム(Phra somdej Bangkhunprom)」や、ワットチャイヨー(Wat Chaiyo)Google Mapの大仏建立に奉納された「プラ・ソムデット・ケット・チャイヨー(Phra somdej Ket Chaiyo)」がある。

このため、ワットラカンで発行されたものを「プラ・ソムデット・ラカン(Phra Somdej Rakhang)」と呼んで区別している。

 

 

ベンジャパーキーに加えられるプラソムデットは、ソムデットー本人により作られたこれらオリジナルであるが、現在でもワットラカンでは新たに製作されたプラソムデットをお布施集めの際に発行している。

 

 

次に「プラソンゴール(Phra Somgor)」は、1876年にカムペーンペッ県(Kamphaeng Phet)ワットプラボロマタート(Wat Phra Borommathat)Google Mapにあった3基の崩れた仏塔を一つにまとめるため、県知事によって仏塔を解体していた時に発見されました。

この時に見つかったものは仏像や大量のプラだけでなく、古代コム(クメール)語でプラの作成方法が記された銀の碑文もありました。

一説には、この碑文を参考にしてソムデットーはプラの複雑な製造方法を知ったとされています。

 

 

このワットプラボロマタートは、スコータイ王朝のリタイ王(Litai、Maha Thammaracha Ⅰ)によって、14世紀にナコンチュム(カムペーンペッ旧市街)に建立された寺院と伝わり、おそらくプラソンゴールもその時に奉納されたものと考えられている。

ナコンチュムは豊富な文化財が埋もれていた土地として、意訳すると「億万長者の野原(Thung Setthi)」と呼ばれ、ここで見つかったプラには他に「プラリーラーメッドカヌン(Phra Leela Med Khanun)」があり、これは出土数が少なくとても貴重だが、プラソンゴールの代わりにベンジャパキーに加えることができる。

 

※左のものがプラリーラーメッドカヌン、右のものはプラソンゴール

 

リタイ王は「正法王(Maha Thammarachathirat)」と名乗り、「三界経」を著すなど大いに仏教をタイに広めた人物として有名で、ベンジャパキーの一つ「プラポーンスパン(Phra Phong Supan)」の成立にも関係しています。

1913年にタイ中部スパンブリー県(Suphanburi)ワットプラシーラタナマハタート(Wat Phra Sri Rattana Mahathat)Google Mapの仏塔が盗掘され、市場でプラポーンスパンが売りに出されたことによりその存在が知れ渡り、これがきっかけで同年スパンブリーの知事によって仏塔が開かれ、内部に残されていた宝器やプラなどの奉納品が取り出されました。

ワットプラシーラタナマハタートは、1347年にリタイ王によって建立されたと伝わり、プラポーンスパンはその時に奉納されたものと信じられています。

 

 

さて、ベンジャパキーには、プラソンゴールの他にタイ北部で発見されたものにプラナンパヤーとプラロートがあります。

1901年にラーマ五世(RamaⅤ)ピッサヌローク県(Phitsanulok)を訪問するため、ワットナンパヤー(Wat Nang Phaya)Google Mapではその準備のため境内を整備していたところ、崩れた仏塔の下から「プラ・ナンパヤー(Phra Nang Phaya)」が発見されました。

 

 

ワットナンパヤーは、16世紀にピッサヌロークがビルマ軍により包囲されていた頃、アユタヤ王朝のサンペット一世(Sanphet Ⅰ)の王妃ウィスッカサトリー(Wisutkasattri)によって建設が始まりました。

おそらくプラナンパヤーは、この時にビルマ軍との戦勝を祈念して奉納されたと思われます。

そして、彼女の息子で救国の英雄として知られるナレースアン大王(Naresuan)は、ビルマに勝利してピッサヌロークを解放した後、建築途中で荒廃していたワットナンパヤーを修復し、新たにプラを製造して仏塔に補充し、寺院を完成させたと考えられています。

 

 

そして、ベンジャパキーの中で最も古い歴史を持つのが「プラ・ロート(Phra Rod)」です。

 

 

プラロートは、1892年にランプーン県(Lamphun)にあるワットマハーワン(Wat Mahawan)Google Mapの仏塔が崩落したため発見されたが、この時は仏塔を修復し、プラは再び仏塔内部に戻されたそうです。

1908年にはとうとう仏塔の基壇が崩壊、内部のプラは全て引き出され、プラロートが世に知られる機会となりました。

ちなみにその後もワットマハワンでは発掘調査がなされ、その度に大量のプラロートが見つかっているが、プラ目当てで勝手に掘る人間が絶えなかったため、現在では境内を掘ることは禁止されている。

 

 

ワットマハーワンは、7~8世紀(年代記や文献により年代が違う)にラウォー(Lopburi)の王女チャムテーウィー(Chamthewi)を、ハリプンチャイ(現ランプーン市)を統治する女王として迎えた時、都市の東西南北に置かれた寺院の一つ(西)とされ、実際に他の三寺院からもプラロートとは異なる種類のプラが大量に出土している。

プラロートがチャムテーウィーの時代に作られたものなら、このプラは約1200年を経過したものになる。

しかしながら、ワットマハーワンを含む四寺院の建立時期や、プラの奉納について直接言及している文献や碑文は無いので、Pattaratorn Chirapravatiの著書「Votive Tablets in Thailand」では美術様式からこれらのプラを11~12世紀頃のものと記している。

 

 

以上のようにこれらのプラの成立に関わったのは、ムデットーを始めチャムテーウィー女王リタイ王それにナレースアン大王など、タイの歴史教科書に出てくる有名人ばかりだ。

しかも、ベンジャパーキーを構成するプラは文化財と言っていいほど考古学的資料の高いもので、プラソムデットが最も新しいとは言え約150年は経過している。

当然ながらこれら本物のプラは現在入手困難であり、もし全て揃えようとするならば、莫大な出費を覚悟しないといけない。

特筆すべきはこれらのプラが、ちょうどラーマ五世からラーマ六世の治世(1868~1925)にかけて発見されたという事実である。

つまり、ベンジャパーキーの出現が、プラをお守りとする文化がタイ社会に普及したことに一役買ったのは言うまでもない。

ただし、現実的にこれら五つのプラを首から下げている人に私は出会ったことがないし、もし人目も憚らず高額なベンジャパーキーを身に着けているなら、その人は余程の成金趣味か、セキュリティー感覚が甘いと感じざるを得ないだろう。

 

ここでは、プラクルアン(Phra Kruang)というタイの御守りについて書きたい。

今でこそあまり見なくなったが、タイではプラクルアンをペンダントトップにして首からジャラジャラとぶら下げている人(トゥクトゥクの運転手とか)がいる。

これは日本のお守りと同様、身に着けたり携帯することで、災いを避け幸運を呼び込むご利益があると信じられている。

プラクルアンには、土製のプレートや金属のメダルに仏像や高名な僧侶、王様、歴史上の人物が模られたものや、経文や薬草を収めた小型の筒など多種多様なものがある。

 

プラクルアンは、タイでは一般的にプラ(Phra)と省略して呼んでいる。

もともと「プラ」には、仏、神、王族の名に冠する言葉(冠詞)として「聖なる、最高の」といった語義があり、プラはお守り以外に例えば仏像や僧侶のことを指す場合もあるが、ここでは敢えてプラと表記する。

 

 

プラは主に寺院で生産されており、例えばプラの中で最も一般的なプラピム(Phra Phim)は、図像が彫り込まれた型に粘土などを押し付けて形成したものを、煉瓦のように乾燥もしくは焼成し、僧侶により祈祷が施されて発行される。

寺院で発行されたプラは、例えば礼拝堂で僧侶によって頒布されていたり、境内に販売所が設けられている場合もある。

 

 

ただし、タイの寺院に行けばいつでもプラを入手できるとは限らない。

プラは、例えば「寺院創立◯◯周年」など何らかの記念行事の際に発行されるケースや、寺院の維持や修繕費を賄うため信者からいただくお布施(要はタンブン)の返礼として作られるので、常に在庫が用意されている訳では無い。

特別なお守りを必要とする人は、崇敬している僧侶、地元のお寺の僧侶、知り合いの僧侶、出家した親類の者に依頼してプラを分けてもらう場合がある。

ベテランの僧侶はそういった要望に応えるため、何処かから調達してきて大抵幾つかのプラを所持している。

実はプラには、格式のある有名寺院が発行したもの、法力が高いと評判の高名な僧侶の作ったもの、とても古くて考古学的に価値のあるもの、稀少性のあるもの、中には何百万バーツもの価値を有するものまである。

それが故に、良いプラを求める人たちやコレクターによって巨大なマーケットが形成され、プラを取り扱う業者や専門雑誌まで存在するのだ。

 

 

寺院の境内にはプラ商人の販売店があったり、市場にプラの露天商がいたり、バンコクのような大都市では「プラ市場」を形成しているところもあって、そこでは一般人に混じって、熱心にプラを見つめる僧侶の姿を目撃することがある。

僧侶は依頼者や信者に満足してもらうため、例えばどのプラが厄除けに効果が有って、どんな逸話や物語を持っているかといった知識や情報が必要なのだ。

また、人気があって市場価値の高いプラほどコピー品や偽物が出回っているので、真贋を見極められる鑑識眼が必要なのは、僧侶に限らず収集家や業者も同じである。

 

 

ところで、このプラの起源は仏教の発祥の地インドで始まり、修行僧の精神集中の練習、宗教的な儀式における対象物、仏塔への奉納用など様々な目的で作られました。

プラはもともと仏教的な信仰に基づくアイテムだったのです。

古代のプラは、粘土にスタンプしたり型に押し付け、それを乾燥又は焼成して作ったプラピムで、これは日本では「塼仏」と呼ばれ、中国経由で伝来しましたが、我が国では定着しませんでした。

プラは聖地巡礼を行う僧侶や信者の記念品として各地に運ばれ、タイでも古代の仏教遺跡や洞窟からこれらインド伝来のプラが発見されている。

 

 

しかし、本場インドでは仏教が衰退したのに対し、タイでは上座部仏教(テラワーダ)が生き残り、プラもタイの地元で生産されるようになりました。

そのためプラのデザインは地域ごと或いは時代ごとに美術様式が分類できる。

それは大まかに言うと、インドからの渡来品(4世紀~6世紀)、モン・ドバラヴァティー様式(6世紀~13世紀)、スリビジャヤ様式(13世紀)、クメール様式(6世紀~13世紀)、ラーンナー様式(13世紀~19世紀)、スコータイ様式(13世紀~15世紀)、アユタヤー様式(15世紀~18世紀)、ラタナコーシン様式(18世紀~現代)である。

古代のプラのデザインは、例えば仏陀が悟りを開いた図や初法転輪の図など、仏教に関するエピソードを示すものが殆どでした。

 

 

しかし、プラは仏教の儀式に用いたり寺院に奉納するために発生したもので、お守りとして身に着けることを目的に作られた訳ではない。

そもそも仏教、特にテラワーダの教理では神の概念を必要としないため、お守りに神秘的な能力を求めたりしません。

しかも、現代のプラには古くからの伝統的なデザインのものもあれば、各寺院の御本尊などの仏像、尊敬される僧侶、神格化された王、中国やヒンズーの神をモチーフに彫られたものまで多種多様である。

 

 

これについて、Pattaratorn Chirapravatiの著書「Votive Tablets in Thailand」では、ラーマ6世(RamaⅥ、1910~1925)の治世にプラをお守りとする習慣がタイ社会に普及したと記しています。

昔のタイ人には、自宅に仏像を置いて祀るという習慣はなかったそうです。

しかし、先代のラーマ5世(RamaⅤ、1868~1910)の治世に、遺跡の盗掘で骨董品屋にプラが大量に出回り、それらが大衆に再発見されることによって、プラをお守りに転用することが考え出されたのではないでしょうか。

例えばプラを所持していたことにより、事故や不幸を免れる事ができたといった思い込みや民間の噂がプラに対する価値観を相乗的に高めていったのです。

こうして、プラは仏教由来のアイテムでありながら、タイ土着のアニミズム(精霊信仰)やヒンズー教の側面と融合して「お守り」という一種の文化をタイに確立していったのでした。

 

明日は帰国日なので、泣いても笑っても今日がタイでの最後の一日になる。

心残りがないようになるべく一日を有効的に過ごさなければならない。

 

朝早くに起床し、ホテル前の屋台でカフェローンを一杯(25B)飲んでから出掛ける。

7時30分BTSアソーク駅(44B)。

今日の目的は国立博物館及び寺院観光なので、お決まりのBTSからチャオプラヤーエクスプレスのコースで王宮方面に向かう。

 

 

7時50分BTSサパーンタークシン駅(Saphan Taksin)Google Map到着。

ちなみに駅では朝の8時になったのに国歌が流れなかった。

今日が土曜日のせいだろうか、たまたまかもだけど今回の旅では国歌斉唱の場面に出くわさなかった。

 

 

8時05分サトーン船着き場(Sathorn Pier)Google Mapから船(15B)に乗り換え、チャオプラヤー川(Mae Nam Chao Phraya)を遡上する。

このチャオプラヤーエクスプレスは、バンコクの一つの観光スポットと言ってもよく、特に川面を吹く風が気持ちいい朝の時間に乗るのがオススメだ。

 

 

8時40分ターチャン(Tha Chang)Google Mapに到着。

8時50分バンコク国立博物館(National Museum Bangkok)Google Map入場(200B)。

 

 

国立博物館ではカメラOK(フラッシュ撮影はNG)をいいことに写真を撮りまくったが、あまりの展示品の多さにカメラのバッテリー残量がすぐに尽きかけていた。

博物館のショップでは、日本語の図録と伝統音楽のCDがあったので購入する。

結局、タイ語以外の図録を発行している博物館はバンコクだけだった。

 

 

12時00分タマ大(Thammasart University)のブックセンターGoogle Mapにて大学のロゴが入ったキーホルダーや文房具などを購入(173.7B)。

ここでは全品割引セールをやっていて、お釣りでついに25サタン硬貨にお目にかかった。

 

 

ちなみにここでカメラの電池残量が完全にゼロになる。

携帯バッテリーはチェンマイに置き忘れてきたし、スマートフォンは象乗りで落として、なぜか自撮り用のカメラは作動したが、前面のガラスが割れているため画像に変な光が入って使い物にならない。

デジタル化のおかげで随分旅行が便利になったが、それに反比例して携帯とカメラと充電池のトラブルは、旅行に重大な影響と結果を与える。

しかしながら、最終日という時間の制約から、このまま今日の午後を乗り切るしかなかった。

 

12時35分ワットポー(Wat Pho)裏の食堂Google Mapで昼食にする。

 

カオパッ、パッツイーイウ、タイコーラ(115B)

私は彼此15年も昔に夏休み休暇を利用して、ワットポーの学校Google Mapで一週間マッサージを習ったことがあり、ここはその時毎日のように通っていた店だった。

今日もついでにマッサージを受けようと思って学校へ行ってみると、以前の場所には無く、付近を歩いて路地裏の目立たない場所に移転していたのを見つけた。

マッサージ学校だけでなく、ワットポー裏のこの辺りは路地奥にもゲストハウスや洒落たレストランができ、色んなものが変わってしまった感じで、昼食時のこの食堂だけが(料理の値段は上がったが)かろうじて昔のままの姿で営業していた。

 

13時25分、マッサージを諦めて、ターティェン(Tha Tien)Google Mapの桟橋からワットアルン(4B)へ渡る。

桟橋では長蛇の列が出来ていて、今日が週末だから観光客で大混雑していることに気づいた。

13時35分ワットアルン(Wat Arun Rajawararam)Google Map参拝(50B)。

 

(画像は2008年当時のもの)

ワットアルンは三島由紀夫の小説「暁の寺」の舞台になった寺院。ワットアルンの創建時期については不明だが、アユタヤ朝にはすでに存在していたらしい。1779年にビエンチャンから取り返されたエメラルド仏は、ワットプラケオが建立される1782年までこの寺院に安置されていた。寺院には高さ75mの仏塔が聳え、チャオプラヤー川から眺められる優美な姿はタイをを代表する光景の一つと言える。

 

ワットアルンの参拝中に、国立博物館で買ったお土産の入った紙袋をさっきの食堂に置き忘れてきたのに気がついた。

しかし、せっかく対岸に渡ったのだから観光を優先し、ワットラカンまで歩いて行こうとしたがあまりの暑さのためすぐに断念し、たまたま向こうから来たモタサイ(バイクタクシー)を捕まえて移動(40B)した。

 

13時50分ワットラカン(Wat Rakhang Khositaram)Google Map参拝。

 

(画像は2008年当時のもの)

ワットラカンの前身はアユタヤ朝時代に遡る。寺院の名前はラマ一世の治世に敷地から鐘(ラカン)が発見されたことに因む。タイのお守りでは一番人気のプラソムデット(Phra Somdej)を作ったことで有名なソムデッドトー(Somdej Toh)師が住持を勤めた寺としても知られている。

 

ワットアルンやワットラカンでは気になるようなプラも見かけなかったし、やはり忘れ物が気になったので、結局早々に食堂に戻ることにした。

14時05分、ワットラカンから船でターチャン(4B)へ渡り、王宮の横を早足で歩いて、ワットポー裏の食堂に荷物を取りに行った。

店では忘れ物が席の下にそのまま置いてあって、私が礼を言うと、店の娘さんはやれやれといった表情をしていた。

 

 

14時35分、この日は凄い日差しと暑さのためバテてきたので、一旦ホテルに帰ろうと考え、ターティェンの桟橋に来たが、サトーンに帰るには別の船着き場に行けと言われた。

実はターティェンの桟橋は、土日はワットアルン行き専用となり、各駅停船のボートは来なくなる。

久しぶりのバンコクだったため、そんなこともすっかり忘れていて、ターチャンに引き返す羽目になった。

15時05分、ターチャンからサトーン(15B)へ、船からBTSに乗り換えて、サパーンタクシン駅からアソーク駅(44B)へ。

船着き場もBTS駅での切符売り場も観光客のもの凄い行列にうんざりした。

16時10分、アソーク駅に到着後、両替所で一万円を両替(レートは0.2844)し、ホテルに帰って休憩する。

 

 

さて、今夜の夕食はタイでの最後の晩餐になる。

しかし、帰国前日に生牡蛎3皿食べて飛行機で苦しんだ経験があるので、美味いからと言っても生ものや刺激の強いものは避けたほうがいい。

19時00分、悩んだ末に昨日と同じイサーン屋台に行ったが、土曜日は営業してなかったので、その近くにあったカオカームーの店に入った。

 

 

しかしながら、カオカームーサイカイ(50B)は脂肪分が多く、食べてる最中に少し気分が悪くなった。

昔はカオカームーが好きだった時期もあったが、それもこれも歳のせいかもしれない。

口直しに果物をと思ったら、昨日のフルーツ屋台も居なかったので、ソイカウボーイまで行って、水商売相手のフルーツ屋台でスイカ(20B)を買った。

 

 

20時10分、帰国前にマッサージを受けておきたいと考え、ホテルの近くでこの時間まで営業している店を探したがなかなか見当たらず、やっとソイカウボーイ近くの入口脇に「古式マッサージ」と書かれた店を見つけて入店(2時間500B)した。

場所が場所だけに警戒して「古式マッサージだけ」と念を押したにも関わらず、案の定マッサージの途中で「スペシャルはどう?」と切り出してきた。

実は夕食前すでに風俗店で一時間ほど遊んできたので断ったのだが、終わった後にもチップが少ないと文句を言われて、せっかくマッサージを受けたのに気分を害しただけだった。

 

22時10分、ホテルに帰る。

こうしてタイ滞在二十六日目、タイでの最後の夜は更けていったのでした。