【古代賀茂氏の足跡】捨篠池と役行者 | 東風友春ブログ

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旧事紀高鴨神社「高鴨社、云捨篠社」と記されていることは、長い間不思議に思っていたことの一つです。

確かに「大字鴨神小字捨篠」に鎮座する高鴨神社を「捨篠社」と呼ぶのは不思議でないが、それならどうしてその土地が「捨篠」だったのか、その理由が今ひとつ分からなかった。

その謎を解明する鍵が、大和高田市にある「捨篠池」にあると知ったのはつい最近のことです。

 

 

捨篠池は、近鉄浮孔駅より約1.5km南、奈良県大和高田市奥田にある。

大和高田市奥田は、葛城山と畝傍山に挟まれた平野部のど真ん中と言えるような土地である。

ここには、初夏になると蓮の花咲く捨篠池があり、池の傍らには弁財天を祀る神社(奥田弁天神社)が建っている。

この池は、奈良県神社庁が発行した「かみのみあと」という本に「大和高田市史」を引用して次のように記されている。

 

奥田の善教寺の東北に捨篠の池がある。この池は味鉏高彦根命の荒魂を祀った池である。この神は大己貴神の長子で、高鴨神社に祀られている。高鴨神社は御所市にあり、ここにはこの神の和魂を祀る。捨篠神社は興田村、今の興田村の捨篠池で、池を御神体とする。役行者の母・刀良売が、この神社に参詣した際、蛙が水より出て蓮の葉に乗って浮いていた。彼女が池の傍の篠を取って蛙に向かって投げたところ、蛙の目にあたった。これからこの池を捨篠の池と名付けたという。蛙の目を損じたので、この池には、今も片目の蛙が住んでいる。

 

これによると、捨篠池は「味鉏高彦根命の荒魂」を祀った池であり、現在の弁天社は、別名を「捨篠神社」と言うらしい。

味鉏高彦根命の荒魂を祀った池であるのに、捨篠神社が弁財天を祭神とするのは不自然な感もあるが、一般的に弁財天は池や水辺に祀られることが多いため、この神社は後世になって建てられたものなのだろう。

 

 

捨篠池に設置されていた案内板によると、役行者の母・刀良売が篠を投げて蛙の目を損じた話を「蓮池の一つ目蛙」と題して「捨篠」の名の由来としている。

神が木や草で片目を損じた民話は日本各地にあるが、谷川健一氏は「青銅の神の足跡」の中で、一つ目の神や妖怪は鍛治師が患う職業病の投影ではないかと論じており、「一つ目」蛙の伝説は、味鉏高彦根神と製鉄との関連が疑われてまことに興味深い。

ちなみに現地案内板の一つである「大和高田の民話伝承碑」では、この物語に後日談があって、刀良売はこの出来事の後、重態に陥って最後は亡くなってしまったとある。

母を失った役行者はこれを契機に発心し、葛城山で修行を積んで修験道を開いたのだそうだ。

 

 

これら捨篠池に纏わる伝説は、あくまで民間伝承として地元に伝えられたもので、何かの史料に書かれていたものではない。

しかしながら、捨篠池の近くには福田寺行者堂や刀良売の墓といった役行者ゆかりとされる場所がいくつか残されている。

この行者堂は役行者の生誕地と伝えられ、捨篠池を模したような小さな蓮池や弁天社があり、ここには捨篠神社の神像と同形の弁財天像も伝わっているそうだ。

 

 

役行者は御所市茅原の吉祥草寺を生誕地とする説が有名だが、(捨篠神社の説明板によると)刀良売が捨篠池に通っていたのは子供を授かるよう祈願していたからで、大和高田市奥田を役行者出生地の有力候補と見なすのに、捨篠池の伝説は説得力のある話だと思う。

 

 

そして、さらに役行者の開基とされる吉野の金峯山寺には、毎年七月七日(旧暦六月九日)に捨篠池の蓮の花を供える蓮華会が催され、あわせて蔵王堂では「蛙飛び行事」が行われている。

金峯山寺の蛙飛び行事は、蔵王堂で大蛙の姿から人間に戻されるという奇祭であり、山伏が鷲に攫われた者を蛙の姿にして救出したという説話に因むものだが、大和高田の伝承では、この行事を捨篠池で一つ目になった蛙の供養のためと説明している。

蓮華会のために捨篠池の蓮を収穫する「蓮取り行事」では、山伏たちが行者堂や刀良売の墓を巡り歩くことから、捨篠池と役行者、そして金峯山寺の蓮華会には各々密接な関連性があると言わざるを得ない

 

 

ところで、奈良県神社庁の「かみのみあと」では、もう一つ捨篠池に伝わる異説を載せている。

 

小角は幼少の頃から明敏であったが、人が問うて「汝の父は何処にいるか」と言うのに答えて、小角は天を指すので不思議に思うたが、四つの時、母がまた父の事を問うと、小角はまた前のように天を指して「今日は父に逢おうと思う」と言って、捨篠の池に向かって拝していた。しばらくして水面に人影が現れたので、小角が合掌して「願わくばお顔を拝みたい」と言うと、たちまち微風が吹いて水が波立ち、そこに白髪の老翁が茅萱に乗って水面に現れた。彼は「われは賀茂の神、味鉏高彦根命である。汝の母は我が後裔である。さきに子供がいないのを悲しみ、余に祈ること切なるによって、汝を授けた。しかるに角麻呂は早世した。汝は幼少から孤児になる。われはこれを憐れみ、野口村のカモノキミトツキマロはわが後裔であるから、彼をして育てしめんと思う。これを怪しむなかれ」と言って、姿を消してしまった。

 

こちらの物語では役小角(役行者)が主人公であり、しかも味鉏高彦根神も登場する。

この父を尋ねる問答に対して天を指差す役行者の姿は、山城国風土記賀茂別雷命「汝父將思人合飲此酒、即擧酒杯向天爲祭、分穿屋甍而升於天」とする場面とどこか重なって見える。

捨篠池に現れた味鉏高彦根神の言葉によれば、おそらく角麻呂は早逝した小角の実父、鴨公トツキマロは養父を指すと思われるが、実際には母である刀良売も含めて役行者の親族の名は不明で、これは後世に創作された役行者の伝記の影響だろうと思う。

ちなみに鴨公トツキマロの野口村は、葛下郡野口村(大和高田市野口)のことかもしれないが、もし「野口神社」が鎮座する御所市蛇穴のことなら、ここにも役行者が登場する伝説が残っており興味深い。

 

 

さて、役行者と言えば、日本霊異記「役優婆塞者、賀茂役公氏、今高賀茂朝臣者也」とあるが、高鴨神社を土佐から復祠させた賀茂朝臣田守は、神護景雲二年(七六八)に高賀茂朝臣の姓を賜っているので、田守は役行者の子孫だったのかもしれない。

続日本紀では高鴨神社の復祠を「天皇乃遣田守、迎之令祠本處」とあるので、高賀茂朝臣田守は復祠後に高鴨神社の神官家になったと考える。

この役行者と高賀茂氏との関係、そして捨篠池の伝説は、高鴨神社を捨篠社と呼ぶことの答えになるのだろうか。

もしかすると捨篠池は高鴨神社の元宮だったのか、繋がりそうで繋がらない、謎は益々深まるばかりである。