ANTIFA★黒い彗星검은혜성  だにえる단열の一言。 -12ページ目

ANTIFA★黒い彗星검은혜성  だにえる단열の一言。

韓国籍在日朝鮮人3世、いわゆる「在日コリアン3世」のだにえる단열が大好きな『日本』について書く、そんなブログです。
ANTIFA★黒い彗星CHE★gewaltの新しい一歩のブログでもあります。いつまでも大切だよ。

2MBOUT☆編集する 2009年05月23日11:45 http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=845549&media_id=4


大統領が死亡したのは残念だ。

関係は遠いが、
現政権のアキヒロはとにかく、即刻自由と民主主義を抑圧・弾圧を辞めるべきであり、
そのままつづけて、権力の椅子に座り続けるなら、
民衆たちがその席から2MBを引きずりおろすだろう。

KCIAの復活と情報網完成は近い。
また暗黒の時代は復活せずとも、
日本とアメリカのような社会に近づくかもしれない。
保守政権と安定が多くの無気力と絶望を生み出すと思われる。
そして、韓国の半分はすでにそうだ。

しかし、まだ韓国は労働組合が産業別にそして、大きな連帯でもって
つながっている。
日本の労働組合は企業別で、連帯もまた個人主義、志向である。
日本が高度産業化にともないこのようになったのか。
新自由主義と戦後保守政権を許してきた帰結なのかは知らないが、

希望という言葉が胡散臭く聞こえてくる私たちポストモダンの子どもたちは
単純な連帯やダサい連帯など望まないだろう。
そもそも家でひきこもって、ネットやってる方が気がらくだろうが、

パソコンを捨て、街に出ろという寺山かぶれがいるなら、
そいつのブログはおそらく炎上するだろう。
そのようなどうしようもない時代のように勘違いしてしまうから
テロを渇望し、鈴木謙介あたりが宿命論を受け入れなければならないとか
ホザく、

とにかく、韓国の学生と労働者が2MBに抵抗するように、
民主党でも自民党でも反対するデモをすることは私は悪いとは思わなくなってきた。
行動する保守とかいって、フィリピンの少女を集団で罵り、いじめる可哀想な日本人の
団体があるらしい。

そんなことを許してはいけないように、
私たちもまた行動すべきである。
いま、韓国でノムヒョン大統領死亡という速報が駆け巡っている。

自宅の後ろにある山で、足を滑らしたか、自殺したか
死亡したらしい。

進歩政権と韓国の進歩的な(サヨク的な?)文化を発展させた、
市民が選んだ大統領というイメージなので実に惜しいし、残念だ。

最近、与党野党関係なしに金を配っていたパク・ヨンチャという新興財閥の会長が
逮捕され、とくに彼は前政権の人間にわいろを配っていたが、
ノムヒョン大統領の妻が収賄したことが明らかになり、
韓国検察の捜査を受けていた。

来週から拘束令状の準備がされているということから、
それと関連した自殺と思われるかもしれない。

あるいは、他殺や事故の可能性もまだ否定できない。

ただ、現保守政権の報復的な捜査と嫌がらせにより
ノムヒョンが死んだということになれば、
保守の正当性もその程度かと思われるだろう。

進歩・保守と関係なしに、いま韓国の若者の蓄積した不満は
現政権へと爆発するだろう。
今日はソウルで失業した青年たちが大規模な集会を催すらしい。
現政権の雇用政策に反対する集会だ。
前大統領を追悼する集会もあるだろう。

しかし、日本の報道では韓国の大統領は必ず逮捕されるという
馬鹿な報道をすると思うが(特にフジ産経が、、、)
ノムヒョンもあの5.18光州での、市民虐殺で逮捕された全トカンやノテウという元大統領と軍事政権の最後の象徴と一緒にされたら、
私たち民主主義を愛する市民が選んだ大統領への限りな冒涜と恥辱であろう。

遺書が見つかり、自殺は濃厚である。

実に惜しい。

そういえば、日本の馬鹿な2ちゃんねらーもノムヒョンを嫌ったり、
よくネタにして嗤っていた。
おそらく、ばかなねらーは(ねらーが全員馬鹿とは言っていない)
今頃、筑紫哲也が死亡したときのように
お祭り騒ぎかもしれない。
そして、煽るやつらは「死者を鞭打つようなチョン(朝鮮・韓国人)のような事をするな」
とさらなる悪意で、この状態をせせら笑うと思われる。
東ひろきや北田や鈴木謙介はそのようなねらーやサブカルの消費者を別の視点で
擁護するかもしれないが、わたしはそれほど寛容な異邦人にはなれない。
私にヒットラーのように独占的な権力があるなら、私もジェノサイドを実施するかもしれない
とときたまパラノイア的なネット右翼に対する私の怒りはそれと違うようで似てりる。
人権擁護法案に反対する支配的なネット・ユーザーに、
そのような最悪な欲望に駆られる。
だから、わたしは自制心を忘れないように、民主主義を愛する。

民主主義を愛するとは、そのような個人の糞みそな欲望、他者を掌握したいと思う欲望を
実質、不可能にするだけでなく、
絶対交通不可能な理解できない他者と理解できる時間と冷静さを与えてくる人類の叡智であるから、
私は民主主義を尊重し、
民主主義とは国が主張するほど胡散臭いものはないということをもう一度確認し、
市民の口から語れる民主主義をわたしは胡散臭いけど熱望する。

確かに、わたしや多くの進歩的な民衆、労働者たちもまた
ノ前大統領の後半の活動にはがっかりしたかもしれない。

しかし、彼を大統領にさせたことは民主主義の実現を象徴していた。
そして、その民主主義の不十分さを自覚しながら、
さらなるろうそくの灯を燃やすと思う。

まだまだこれからだ。

とにかく、冥福をお祈りしたい。
今日亡くなったすべての人に。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090330k0000m040089000c.html
派遣村 ブラジル人ら窮状訴え


住居や仕事を失った人からの相談を受ける「トドムンド浜松派遣村」が29日、浜松市で開設された。市内に住むブラジル人も多く訪れることが予測され、ポルトガル語で「みんな」を意味する「トドムンド」と名付け、ボランティアの通訳ら15人が外国人に対応した。

 「派遣切り」などに苦しむ人を支援しようと、司法書士やボランティア関係者が企画。この日はブラジル人など外国人55世帯と日本人53世帯が相談のため訪れ、「子供が3人もいるのに所持金が100円しかない」「仕事がしたい」と泣きながら話すなど、深刻な状況を訴えた。炊き出しもしたが、会場となった公園の使用規制のためテントを張った宿泊などはできない。

 浜松市はこの日、日曜日にもかかわらず生活保護の受付窓口を開き、約40件を受理した。また、失職などで住居を失い路上生活を余儀なくされた人たちも、市社会福祉協議会から貸し付けを受けるなどして全員が住む場所を確保したという。

 榛葉隆雄村長は「休日も市役所の窓口を開かせたことや外国人登録者でも生活保護申請を受理させることができたなど成果があった」と話した。派遣村は30日も同市中区中央1の東ふれあい公園で、午前9時~午後3時の間に開かれる。【瀬上順敬】
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

どうか、ミクシィのこのニュース記事の日記が、
前回の年末年始の「派遣村」のように、非難・バッシングの日記で
埋め尽くされないことを願う。とくに外国人排斥に近い論調も加わる
ことがなように、願う。

外国人労働者も、日本の労働者も大変な時期だ。
マネーゲームの失敗からくる世界の恐慌と不景気に
「労働者」や「不安定雇用者」たちは、国境を越え
絶望の淵に立たされている。

東京で起きた「派遣村」の活動が、今度は浜松と地方へ広がった。
このようにより地域社会に根付く活動として、より充実した「きっかけ」に
なって欲しい。
今はどこの地方自治体も、中小企業も雇用を増やすことは不可能に近いかもしれない。
しかし、少しでも「余裕」の、少しの希望の「余裕」でもある会社や団体は
なんとか新しい働き口を分け与えるよう、協力していただきたい。

そのためにも、ローカルな人々の信頼とつながりが必要であると思う。
それこそ、地域社会の経済を安定させるために、この活動をフルに利用する
「きっかけ」にならなければならない。

「炊き出し」や「生活保護」ももちろん、セフティネットとして、希望の再分配として、
重要な役割を担い、必要なことを理解していただきたい。

そして、地方自治体は職業訓練を含めた、新しい雇用の対策、政策に性急に対応して
もらいたい。

また、「生活保護」と聞くと、目くじらたてたり、「派遣村」と聞くとサヨク臭いと
アレルギー反応を起す、人々もどうか理解を示していただきたい。

われわれは「資本主義」社会を少なからず、受け入れて、存分に活用しながら
生活している。それを「恩恵」と呼びたいのなら、そうよんでも構わない。

「資本主義」の特徴は未来に「投資」ができることである。
そして、新しいことをすることで、市場と需要を開くことができるのである。
そして、それで人々の希望を作り出す。
これが成り立つために重要なのは「信頼」である。資本主義は「信頼」によって成り立つ。
いま、ひととひととの「信頼」が試されていると言えよう。
もちろん、排他的競争と、無限の資本の自己増殖欲望と無意味な剰余価値を生み出す
弊害があるのだが、

今は昔のように、ひととの「つながり」が弱くなった。ポストモダンかなんだか知らないが、
近代的「縦のつながり」も「横のつながり」も希薄になった現代社会、個人がバラバラに
なり、自己中心的に狭まった「親密圏」においてのみ生活し、
それに執着する「個人化」してしまったのである。

そのなかで、新たな人々との「つながり」を模索するのは、重大な課題であるだろう。
私たちは試されているのである。
もちろん、私が言う「つながり」とは偏狭なナショナリズムに満ちた国境で、線を引く
人々の「連帯」のことではない。

この人と人との新たな「つながり」が、新しい「信頼」を生み、「希望」を生むよう
に、未来への希望含みの「投資」を通して、
新しい「市場」=マーケットと「需要」が生まれるだろう。
そして、「雇用」、安定した「雇用政策」の道が開かされるのではないだろうか。

私が今までに書いたことは、空虚な楽観論に満ちているかも知れないが、、

この「派遣村」の活動を非難し、バッシングする人間よりは「生産的」なことを
していると自負する。
もし、この活動に批判的な人々のなかに「正社員」や「雇用者」がいるのならば、
自分の仕事や労働時間をシェアし、分けることで多くの「雇用」を生むように
協力してもらいたいものである。あるいは、現実的な打開策を考えてもらいたい。

また、ゼノフォビア(外国人嫌い)や移民排斥の人々は
いかなる経済政策をすれば、グローバル経済の原則から
解放され、日本の経済、地域社会の経済がどのようにして内需のみで、
安定するのか、その硬い脳みそをこねくり回していいアイディアを出してもらいたい。

ただ、それだけが腹痛に悩む大学院生で、ヘルパーバイトをしている人間の
今日の願いである。
■ブラジル人親子3人、感謝の帰国…滞在18年・職探し断念
(読売新聞 - 03月17日 20:06)

http://www.yomiuri.co.jp/feature/20081209-206556/news/20090317-OYT1T00935.htm


この人いい人なのは分かったが、
この人は日本人のナショナル・アイデンティティの扱いも
またうまいのだろう。

確かに、個人的感想として日本人に感謝する気持ちでいっぱいだろう。
ずっといたいけど、ブラジルで過ごすことを決めたのだろう。
不景気の、みそうゆうの世界的恐慌のせいにして。
しかし、なぜ「日本人」に感謝しなければいけないのか?
実際、世話になったたまたまの「日本国籍保持者」に感謝するならまだしも。

例えば、雇用と労働の問題において
働いてやったのにという感情と
働かせてやったのにという感情は
雇用する側(企業)と労働者(被雇用者)の間で
よく摩擦する互いの感情であるだろう。

しかも、この感情は互いの心の余裕(寛容のキャパシティ)によって
余計なコンフリクトなしに保っているのが実情である。
そして、この関係こそが数々の左右イデオロギー対立を激化させた
歴史を持つ。

春になって春闘によってより強い組合の連帯の確認と
雇用する側への申し立てを行うのであろう。
不景気のなか、このこともまたうやむやになり、
慣例化してしまった企業別労組や連合(批判しても否定するわけではない)
の「春闘」に大きな成果は期待できないだろうが。

これを「日本人」と「在日外国人」との例で、考えてみたら
どうなるのだろうか。
当然、ここでおかしなことが起きていることに気づくだろう。
ここででの対立構図は「日本人」ではなく、「在日外国人」に在留資格を
「与えて」いる「日本政府」であることが妥当であるだろう。

しかし、これはどこのネーション・ステイト(国民国家)、どのナショナルな
地政空間において起きうる「勘違い」である。
「日本(政府)に感謝する」と「たまたまの日本人に感謝する」はまったく
違う文脈で捉えられるべきことであるのだが、しかし、
「在日外国人」はよく間違えるのである。

いや、これはむしろ事実を物語っているのかも知れない。
「日本人」とは「在日外国人」にとって、そのたまたまの日本の領土?
と呼ぶべき地政空間の一部(それはたまたま「在日外国人」が立っている
土の上だが、)にいる自分の存在を承認(許可)しているのは、
日本国籍を所持する「日本人」であるということに無意識に気づいている。
日本国憲法において、日本人が日本という国家の主権を持ち、
民主主義を掲げる、法治国家日本において、日本主権民による
「公平」な選挙の結果次第で、政権も日本政府も変容することは
誰もが知りうる事実である。
しかし、これが日本国民以外で、日本という地政空間に共存する
「在日外国人」にとっては大きな意味を持つ。
つまり、彼らには「日本人」が潜在的に日本国家の巨大な権力の
公平な?分配を受けた小さな権力者、ナショナルな管理者に映るときが
あるし、一般的な日本人が権力を振りかざす役人(これこそ国家や
行政のミクロな権力者であるのだが)に見えるときがあるから、
どこか遠慮がちになる(私には最近この遠慮が足りなくて問題かもしれない)。

一般的な?「日本人」にそんな権限や力はないと笑う人がいるかも知れない。
しかし、入管のGメンや警察、役人(公務員)などは実際の権力を
委任された人物であるのだが、「日本人」あるいは「日本国籍者」も
また潜在的にそのような役職に就ける可能性を持っていて、
その「自由」を憲法のもとで保証されているのである。
そして、彼らが担いうる「権力」とは日本国家がもつ巨大な権力と
「直列」で結びつける小さな「権力」である。

つまり、「日本人」と呼ばれる人々は幸か不幸か、潜在的に
日本国家の巨大な権力を振りかざす可能性のある小さな権力を
持っているのだが、
このことが「持たざるものの嫉妬」とまではいかないが、
「在日外国人」にとって「特権的である」と印象付けるであろう。

しかし、なにかしろ国籍を持つ人間はその国において自由と安全を
約束された「特権者」であるはずだ。いざ、その国の国民=特権者が
外国に定住あるいは、永住する場合、なんとも言えない「不安」に
苛まれるであろう。たとえ領事館や大使館があったとしても、
その「在日外国人」が「不法滞在者」であるのなら、その不安は
自らの存在が懐疑的になる実存的不安に堕ちいれられるだろう。
そして、これら特権者の自覚など、情報や知識さえも「疎外」された
人々にとっては「無用の産物」であるだろう。
情報や知識たけではない、権利、人権からも「疎外」されやすい、
国家の権力によって簡単に折れてしまうような状況に陥った人々は
どうすればいいのだろうか。

なんらかの国民(日本人、外国人も)は無国籍者や難民ではない限り、
潜在的、国家の主権民として権力の行使の可能性と自由を保証されて
いるという事実は知りうると先ほど言ったが、
「知りうる」とは「知りえない」とほぼ同義である。

そのようなアクセスのチャンスが何らかの事情で与えられてない
人々にとって、それらの「特権」など絵に描いたぼた餅である。
国民はそれぞれ平等でもなければ、富の所有や階層などさまざまな
ヒエラルキーや格差が存在し、中心に近い人間もいれば、そのような
中心から「疎外」された人々もいる。

いま、日本社会でも「新たな貧困層」や「派遣切り」など、
さまざまな問題が「日本人」/「外国人」の軸で考えられない問題が
あるだろう。
漠然と「この世界」からの「疎外」を感じる人々も増えている。
自殺者は年間3万人を超え、うつなど精神的な病いに悩む人々も増え、
不景気と新自由主義的改革による自己責任や
社会保障の切り詰めの結果で、借金苦や生活苦に苛まれる人々も、
その危機に近いと言わざるを得ない。

この社会に希望が足りない、それこそ希望格差社会が本当に到来したかも知れない。
これは単純な所有する富の量では、計測できない、
社会の希望の再分配システムが明らかにドン詰まりになっている。
そして、これは日本の若い保守層・ネット右翼が、義務を果たさず、
権利ばかり主張する「弱者」(彼らにとっては自称弱者)が、うざく見えたり、
自らが本来「優先的」、「特権的」に与えられるべき「希望」を
「社会的弱者や在日外国人」に搾取され、奪い取られたと考える
人びとが増えたのではないだろうか。

結局、このブラジル人の家族3人の笑顔の写真を見ていると、
先述した心のキャパシティ(寛容の閾)がとても広く、
まだ希望を見失っていないのが分かる。
もし、人間がこの心のキャパシティを超えた何かに直面したとき、
さまざまな精神的疾病を引き起こすかもしれない。
また、そもそもこのキャパを捨て去るような思考法に会えるなら、
それはそれで、素晴らしいことであるだろうか?カルトでも?
引きこもりでも?オタクサブカルでも?過剰購買?など。

しかし、カルデロン一家のように日本政府や入管に(不法滞在による)
脅かされた生活を送り続け、 自称保守の「日本人特権者」からの心のない
バッシングや誹謗・中傷を受けた人間と「希望」の格差は、日を見るより明らかである。

だから、私も「希望」を持つことを忘れず、もし自らが「希望」を
生産できるとしたなら、社会を通して「希望」の再分配に寄与できる
ようにしたい。ただ、「希望」は何か別な価値と等価交換できるかも知れないが、
義務の等価交換は権利ではない。
権利とは、人が存在するだけで発生するものであり、
法が保証するよりも先に、法を保証するものである。

「すぐにでもお父さんを返してほしい」比人一家の長女ら会見
(読売新聞 - 03月10日 01:35)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=773273&media_id=20

ルールは守るものだけど、
法律はいくらでも民意で変えられるはず。
それが理想(本当)の民主主義。

法律を優先的に考えると治安悪化や外国人差別の問題は消えない。
むしろ、不法滞在者でも機会を与えることはそれこそ、民主主義であり、
人権を守るという重要な意義を持つ。

日本人特権者が憂慮するのは不法滞在者=ルールを守らないあれくれものに
見えるからかも知れない。その不安は理解できなくもない。

この日本という地政空間において、ただ日本人特権が脅かされ、
国家に訓育されたナショナル・アイデンティティが傷ついているとしか思えない。
つまり、日本における日本人という特権がどれくらい有難いものかが無視され、
棚上げしている。

法律以前に、そこ(日本)になんらかの形で(違法であっても)定着してしまった人に
お前その場から消えろということは、
ただ、俺たちが日本にいられる特権をひけらかしているということにも
なりうる。

だから、ルールは大切だけど、それはあくまでも政治家にしか、変えられる権力がない。
今の日本の政治状況で、本当に民意で法律が変わることがありますか?
金と権力のある人間のロビー活動で(政治献金や議員への直談判)、
出来た法律の方が圧倒的に多いはず。

俺たちは(日本人以外は)その権力に従順にしたがっている、客体化された抜け殻。
日本の土壌に根を張ることのできない、巻きつるのような昔甲子園で
いっぱい茂ってたあの植物で、日本人はまっすぐ誇らしげに育ったケヤキやひのき
なんでしょうね。
国民主権、人民主権?笑わせてくれる。

社会をよくするためにルールを守ろうとすることと遵法精神はすこしズレがある。

ただ、在留資格を持つもの、あるいは日本国籍者、特別永住者あるいは永住者は
優遇と特権があることを忘れてはならない。

つまり、彼らが自分たちの家族を第一に考え、直談判することは
別に国家の法律は時として、例外が認められるべきだというメッセージが
こめられているのであって、不法滞在者全員に在留許可を認めろとは言っていない。
それこそ、排他的な入管法で、犯罪の道に走る「第三世界ー風の人々」がいるにはいる。
すべての不法滞在者が、移民が、「第三世界ー風の人々」がそうならば、
日本人の半分以上も犯罪者だ。信号無視とか、ポイ捨てとか、チャリのにけつとか
日常茶飯事でしょ?

だけど、カルデロン一家は不法滞在者にも救いのチャンスをくれと入管と法務省、日本国家に訴えている
ということだと思う。それこそ、強制送還覚悟で。

法律を守ろうとするのは社会のルールやマナー、エチケットを守ろうとすること
、よい社会を目指すことと時として、まったくま逆の方向へいってしまうこともある。

ちなみに、メディアも注目して大々的に直談判をした彼らは
東京入管のブラックリストに入ってしまい、
なかなか再入国許可がおりない可能性が高い。

むしろ、手続きで、再入国許可はそれこそ法務大臣の「鶴の一声」=特例がない限り
もう一度あの家族が日本で再会するのは今の現状ではかなり困難である。

だから、日本に愛着を抱いてしまった不法滞在者に、違法だからという
簡単な言葉は使ってほしくない。とくに2ちゃんの馬鹿のひとつ覚えのような
同じ意見をミクシィの記事日記に書くなよ。2~3個でいいよ、そんな記事日記。
そんなに日本人特権をひけらかしたいと思うのか?
もう飽きた。てか、それしかいえないの?あんたらばぁかぁ?(ラングレー風)

今日の俺はカルデロンのりこさんの父親が収容されている
東京入国管理局に行って、再入国許可証を取ったんで、
あれを取らないと、もう二度と日本には帰れない。たとえ特別永住資格者である
俺でさえも。だから、ちょっと感情的になったかも。

東京入管や日本政府のやり方は、日本のグローバルな資本と市場、安い工場生産、
現地の安い低賃金の労働者をフルに利用して、
世界の富をむさぼって、自国の経済を保っているのに、
日本に流れてくる外国人に厳しい条件を突きつけ、排他的に扱う、
その態度はそれこそ国家のご都合主義でしかない。

ま、あのアジアを統一して(大東亜?)、ヒエラルキーの頂上に日本人を置きたかった
日本帝国主義の無駄な戦争、侵略、植民地で多くの犠牲と不幸を生み出したことを
忘れたか?
馬鹿な西洋人の猿真似したお国柄だから?(だったらもっと移民や難民を受け入れろ)
そんなことないよね。日本人は本当にいい人多いし、
寛容さがあると思ったのに、ネットでは陰口のように陰湿な意見を述べるばかりですか?

結局、この「日本」という地政空間において、最大の特権者は日本国籍保有者で、
ありもしない「日本人の純粋な血」のイデオロギー(虚偽意識)を持っている人間のことですか?
どんな階層秩序=ヒエラルキーだよ。
まじでむかつく、在日や外国人の自治区も作れない日本はチベットやウィグルを
いじめる中国より、劣っているね。多文化共生ってマジ笑わせるなよ。

これはもう日本という地政空間外の日本と言われている土地で独立国家を作るしかないなぁ、それこそ満州国もびっくりな
多くの民族が平等で平和に、暮らせる解放区を武力革命でもってしても
戦って作るしかないのか?
武力革命は好きではないけど、これでチェがなぜゲリラになって
銃を手にしたか、少し理解できた気がする。

だから、権力ふりかざして、のほほんと自分の不幸だけひけらかして、
(もちろん、諸個人にはそれぞれ私なんかが想像もつかない、悲しい経験があることを
非難するつもりはない)
自分の特権を忘れている、あるいは無関心なやつらが増えてこまる。
ま、こんな多様化された後期近代の世界で、「政治」なんて趣味ですよね。
ナショナリズムも。

どうだ。こんなダメなひきこもり在日に言われて悔しいか?あ?
どうぞ、俺をテロリストとして、罵ってください。
私、今年留年してM3です。M度が増してどMですから。

あー、なんだよ。○○人とか。境界とか国境とか。
そんなの俺は決めたことも同意した覚えもねーよ。

荒れてるなぁ、今日の俺。

とにかく、私は日本という国が大好きだし、日本人の大切な友人たちが
あーあいつちょっと血迷うときあるよね。理解してくれることを信じて、
こんな感情的な文章を書いてしまいました。

時として、言葉は無力ではなく、暴力です。
この日記で傷ついた方、怒りを覚えた方申し訳ありません。
日本のすばらしい表現の自由におもいっきり甘えさせてもらいました。
これを読んでいるあなたにもあなたなりの意見、考えがあることを
認めます。そして、尊重します。

あと。日記にコメント書いても構いませんが、ズボラな私、
心の中でしか返事しないので、どうかテレパシーで受け取ってください。
(そういう不治の病なんです)
前の日記にコメくれた方、ごめんなさい。
返信できず、念力でなんとかテレパス送ります。


今日も寝れません。あー、結局なにが言いたいんでしょ、私は。
ここ何日平均睡眠時間2~3時間。
それは鬱憤も半端ないですよね。本当に悪気はないので、
ごりょうしょください。親愛なるみなさま。
Korean the 3rd こりあん・ざ・さーど  (元だにえるの一言。)
Korean the 3rd こりあん・ざ・さーど  (元だにえるの一言。)
「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」

この言葉はかの日本の有名な作家村上春樹が、壁である
イスラエルのエルサレム賞の受賞式で講演した際の言葉だ
もちろん、この言葉は壁=イスラエルの卵=ガザへの攻撃を
批判した彼独特の言い回しである

今年度の年末年始、イスラエルはガザのロケット弾攻撃の報復として、
その何百倍ほどの殺戮兵器で空爆、侵攻を繰り広げた。
ガザの死者は1300人に及びその多くが民間人のこども、女性であったという。

ある平和団体が村上氏の受賞辞退を求める署名活動を行っていたが、
これは平和団体としてしごく当然であり、
ノーベル文学賞を辞退したサルトルのような行動を求めたと思う。

しかし、村上氏は堂々とイスラエルに出向き、言葉を発することを選んだ。
これはとても勇気ある行動であるし、沈黙やボイコットが蔓延した市民運動にも
改めて欲しい態度であると思った。

彼が言う壁が正しいというのはもちろん括弧つきの「正しい」、
イスラエル側の「正しい」であることはイスラエルの人々に向けた言葉であるから、
間違いない。
もちろん、高い壁という比喩にはハマスのロケット弾やヒズボラの武器が含まれるのは
見逃してはいけない。

では、私たち一人一人は「卵」であるのだろうか?日本や韓国に住み、
高らかな壁の上で下を見下ろし安住しているのなら、
それはゆで上げられ、腐りかけのハンプティ・タンプティだ。


私は長らくブログや文章という文章を書いていなかったが、
つまり、沈黙していたが、今回の村上氏の
行動に運動の、抵抗の新しい希望を感じ、
そして、私もつねに「卵」側にいたいと思った。



★引用★
☆作家の村上春樹さんが十五日行った「エルサレム賞」授賞式の記念講演の要旨

 一、イスラエルの(パレスチナ自治区)ガザ攻撃では多くの非武装市民を含む1000人
以上が命を落とした。受賞に来ることで、圧倒的な軍事力を使う政策を支持する印象を与 えかねないと思ったが、欠席して何も言わないより話すことを選んだ。

 一、わたしが小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかっ て 壊れる卵のことだ。どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立 つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。

 一、高い壁とは戦車だったりロケット弾、白リン弾だったりする。卵は非武装の民間人で、押しつぶされ、撃たれる。

 一、さらに深い意味がある。わたしたち一人一人は卵であり、壊れやすい殻に入った独自の精神を持ち、壁に直面している。壁の名前は、制度である。制度はわたしたちを守るはずのものだが、時に自己増殖してわたしたちを殺し、わたしたちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる。

 一、壁はあまりに高く、強大に見えてわたしたちは希望を失いがちだ。しかし、わたしたち一人一人は、制度にはない、生きた精神を持っている。制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090216/acd0902161022003-n1.htm

★関連記事
http://www.asahi.com/culture/update/0216/TKY200902160022.html

★由里幸子の記事

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200902100087.html?ref=reca


監視社会になっていく、世界の裕福な階層が必然的不安にさいなまれていく経緯で、権力は規律訓練型から管理統制社会に移行する形となり、リスクという概念が保険統計主義からの社会構成員としての連帯意識の高揚といよりはポストモダンの特徴というえる脱中心化、周辺化、によるさまざまな共同的、あるいは協働的コミュニティが解体されたり、アンダーグラウンドへ追いやられる形になっている気がします。

そして、リスクというのはネオリベのおかげで、自己責任としての対処が求められる現状、そしてセキュリティの民営化(プライベタリゼーション)による人々の信頼の構築の解体のための相互監視がますます進んでいる気がします。
なんだか、教科書的なネオリベラリズム解釈ですが、
確かに、物神化と呼べるようなフェティシュ的なものが提供してくれる選択肢を、消費文化を経由して、そこにアイデンティファイしてしまった私たちはそれを選ぶことで、自己満足、瞬時的な生き甲斐を感じてしまうかもしれません。
そして、ネオリベ権力はそれしか、市場原理できしか世界の安定を維持する選択肢がないとうそぶくし、無反省に上かのその言説を垂れ流している。そして、私たち人類の唯物史観でないにしろ、抵抗していた記憶、抵抗の潜在的能力への想起さえも不可能にさせてしまう現状があると思います。

先生のカーニヴァル化の意味がよく理解できませんが、鈴木謙介のそれだとしてら、そこに共同性と抵抗の運動の潜在性が潜んでいるとは思いますが、志向性やベクトルを変えない限り、秋葉原の殺傷事件と同類の犯罪のテロルでしか、われわれに課せられた抑圧への抵抗と発散、昇華ということはできないと考えております。

ただ、私は東浩紀の「動物化」のように、戦略として、植民地的誘惑を含めた、日本社会で自分のポジショナリティから来るアイデンテイティ維持のため(これもまた戦略的本質主義なのですが)に消費文化を積極的に感受している部分はあります。無反省に商品をつくる搾取された労働者を軽んじる気はさらさらないですが、今だ在日にとりまく、国家権力側の国民主義的、植民地主義的な日本のナショナル帰属への欲望を回避したいと思っています。

ただ、ネット上でのカーニヴァルは結果的に歪んだ形での発散でしかなく、それがナショナルな権力、ネオリベを推進する資本側に与えられた「戯れの空間」でしかなく、それは意図的につくられるのではなく、やはり構造的な権力と資本に包摂されてしまうことではないでしょうか。

ただ、現代社会を生きる人間にとって、自分の存在論的不安へを解消する一時的な特効薬として働くことは認めざる得ない事実だと思います。

しかし、別の形での共同性、<抵抗へ>の道筋を考えることがこれからの課題だと思います。

<文献>

・「『マンガ嫌韓流』と人種主義-国民主義の構造」 坂垣竜太(前夜2007春号)

■「嫌・韓流」?「嫌韓・流」?

・『マンガ嫌韓流』(山野車輪 普遊舎2005)は「嫌・韓流」というよりは「嫌韓・流」、扱われている内容は日韓ワールドカップから朝鮮植民地支配、日韓条約、在日朝鮮人「問題」へ及び、植民地支配の美化、謝罪、補償は必要ないと説いている、韓国批判にとどまらず、朝鮮人総体に対するバッシングの内容

・「人種主義―国民主義」(あるいは「排外主義的ナショナリズム」):「ナショナリズム」といってもさまざまなベクトルがある。ここでは「日本人」という国民を立ち上げるのと同時に、その裏面で朝鮮人を排除し、蔑視をし、序列化する人種主義と国民主義が不可分にくっついている構造がある

Ex)「日の丸・君が代に対抗する市民ネットワーク」に届いた、嫌がらせメールにおいて、日の丸・君が代に反対すること自体が「朝鮮人」や「中国人」だと位置づけ

 最後には「嫌なら出て行け」⇒これはナショナリズムか?

               ナショナル・アイデンティティと人種主義

本質化とマンガ特殊論

・『嫌韓流』の本質化:第四話において「韓国」は「捏造しているんだ!」から話は飛び、→朝鮮時代「小中華思想」を持った「朝鮮人」→日本敗戦後に「朝鮮人」が「自分たちは戦勝国だ」と主張、『嫌韓流2』第二話、「韓国」のベトナム派兵、メキシコやアルゼンチンでの「韓国人」問題、パラオでの「韓国業者」による問題、ロス暴動の「韓国系の店」など⇒過去であれ、現在であれ、また国家であれ国民であれ、国内のマイノリティであれ、   さらに国籍が何であれ、こういったものがすべて一つの脈絡に入ってくる

「そもそも○○人は●●という存在だ」と規定する力学、本質化作用

・ステレオタイプでの描き方:韓国から来た人たちは、目が吊り上がり怒鳴り散らすイメージで描かれ、朝鮮人の発言に「ニダ」がつく⇒マンガ特殊論で開き直る

国民主義と人種主義の結合

・ガッサン・ハージ『ホワイト・ネイション』において、ムスリム女性のスカーフを突然剥ぎ取るといった明らかなレイシズム(人種主義)の論理と白人中心で語られる「寛容」なマルチカルチュラリズム(多文化主義)が、いかに同じ論理上にあるか

・スカーフを剥ぎとった人へのインタビューから「オーストラリア」という「ナショナルな空間」を管理する「主体」はわれわれホワイト(白人)なんだ、こいつら(移民、ムスリム)はいらないとスカーフを剥ぎとる→人種主義と国民主義の結合

・家の例:アリが家の外にあると気にならないが、家の中に入ると排除する

:「寛容」と「不寛容」の線引き ・『マンガ嫌韓流』においても家の例が出てくる

「家」:戸籍を持つ家族=<日本というナショナルな空間>

・「在日」はろくに働きもしない「居候」か?

・帰化した在日の登場人物に語らせる:なぜ朝鮮人だけが「帰れ!」と言われるのか、それは在日に問題が? 在日朝鮮人は「家」の管理者たる「日本人」に「出て行け」と言われたら自分のせいだと考えろという無茶苦茶な話

・帰化すれば、問題ないのか? 否、かつて韓国籍を持ち、日本国籍を取得した政治家、白真勲、平田正源を挙げながら、「立候補直前まで韓国人だった人達が本当に日本の国益のために働いてくれるかな?日韓の利害が対立したとき、どう動くか見ておくべき」と「国益」の論理にもとづいて監視のまなざしを向ける→要するに「日本国」というナショナルな空間は「日本国民」が管理するが、その「日本国民」の主体とは、どこまでも人種化された「日本人」プロパーなのだというメタメッセージがある

■ 9.11以降の世界と<嫌韓流>

常にエクスキューズ(言い訳)をともなって議論される 「一部」が悪い 「一部の在日朝鮮人は敗戦直後に非常に悪いことをした」→911以降 良心的ふりをしながら、徹底的にテロリスト(と疑わしきもの)を排除する「不寛容」な権力形態と軌を一にする

例)一部テロリストが悪いんだとアフガニスタンとイラクを攻撃、全員から指紋を採取

「一部の悪」を前提に全体を統制・監視・攻撃していく構造と

二者択一を性急に迫るグレイゾーンをいっさい認めない権力形態

・伊藤博文を暗殺した、安重根はテロリストか?テロリストを讃美する韓国人は人類の敵

・「一部の善」:としての新日派?韓国人作家 呉善花や鄭大均、浅川晃広など

・「通名の批判」:可視化されれば、「日本人」にとっえ弁別、管理・統制するのが容易

・チマチョゴリ事件の自作自演説 人種主義の隠ぺい、正当化

■ 植民地主義の正統化

世界的にみても、2001年ダーバン会議において、人種主義、人種差別は植民地主義が克服されていないところから起こるのだというコンセンサスに至る

植民地主義の歴史的正統化は人種主義にとっては必要不可欠:『嫌韓流』において、「白人」の「植民地主義正当化」と同じ論理で語られる

■ 人種主義の欲望としての歴史

・「日韓併合」の前の日朝関係と朝鮮内の動向

・「米の増産」と人口増

・植民地近代化の問題点 90年代後半の「新しい歴史教科書をつくる会」

 ⇒植民者たる日本人エリート男性と、朝鮮人「新日派」エリート男性が、朝鮮人女性をはべらせて語り合うのが、<嫌韓流>の「友好」か?

問題は日本の植民地主義による近代化と植民地主義そのもの 

■ 受容と欲望の構造

・この漫画には多くの「驚き」と「論破」のシーンがある→読者も?

・さらに、なぜ今まで知らなかったのか、その解答も与える:「反日マスコミ」(朝日、毎日)や「近隣諸国条項」に操作された「教科書」のせい、「戦後民主主義」のせい、「韓」や「反日」によって今まで騙されていたという歪んだ被害者意識を持つ、一見、マスコミ・公教育批判で体制批判のようにみえ、いまの日本社会で疎外感を覚える人には気持ちよかったりするような構造

・モヤモヤから解き放たれ、その先に待っているのは人種化された「日本人」

・『嫌韓流』の購買層:必ずしも「若者」ではない、「若者の右傾化」では問題を捉えられない

人種主義・国民主義とどう対峙できるか

<嫌韓>は戦後のPCPolitic Correctness)批判か?終戦間もないころの「差別・偏見」が、冷戦の左右対立に還元する言説の中で、相対的に不可視になり、ポストバブル・冷戦期に表現の場を獲得。復活したというよりはまだ人種主義的差別構造は根強いということ

:泉靖一「日本人の人種的偏見」調査など

・「つくる会」が出てきたとき、従来、学界が正しい歴史知識を生産する→マスメディアや公教育という流通経路を通じて市民に受容させ、消費されていく:「啓蒙主義」のプロセス

しかし、「つくる会」はプロセスを飛ばして、流通の場に登場し、影響力を獲得

その後、歴史研究者が対応したが、歴史的に、史実として間違っていると指摘するのも大事だが、それだけでは足りない。そこをどうするかが問題。

◎もう一つのナショナル・アイデンティティ

・ガッサン・ハージはネオリベラリズムの多文化主義とグローバリーゼーションの世界経済の人の移動(移民)という文脈で、人種主義(レイシズム)とナショナル・アイデンティティの欲望を批判

・「寛容の域」:移民に対して「寛容」と思われる白人市民社会だが、その域を超えた場合、不寛容になることが許容される、「寛容」の実践を行う人々は、不寛容が認められる人々には依然として「排除」の実践を行う人々であり、ナショナリスト的な「排除」の実践と「包摂」の実践を行う人々でもあり、ナショナリスト的な「排除」の実践を行う人々の差異とは「寛容の域」の差異でしかない

・「寛容の域」の差異とは?⇒「寛容」の実践:ナショナルな空間を管理しようとするナショナリストの実践は、ネイション内部において自分たちの意思を実践する潜在能力があるものとして自らを想像するナショナルな主体(管理する側)と、価値ある対象でありナショナリストな主体の意思に従属することだけが許容されるナショナルな客体(管理される側)という差異化を持つ分類様式を持ち、このナショナルな客体(他者)に価値付与して寛容に扱うことが可能な場所に、他者を位置づけることができる能力を強調する

⇒・「国籍取得特例法案」を支持する民族団体「国籍取得権確立協議会」への批判

 ・坂中英徳 「移民国家ニッポン 1000万人 移民受け入れ構想」と「在日特権を許さない市民の会」

・その他、想像のネイション空間の管理者としてのナショナリストのアイデンティティの他、同じネオリベラリズムの社会変動の文脈で「財政への管理者(統治者)」としてのナショナル・アイデンティティがあるのではないか?

例)・植民地主義や過去の戦争に対して日本政府が謝罪や補償を続けたら、日本政府の財政は破綻する、とくに個人賠償の強制労働や戦時強制動員の旧日本軍や「従軍慰安婦」の方に賠償し続けたらどうなる?といった言説

・何らかの福祉政策の増額に対して否定的な見方をする納税者(金がないから、いなくなって欲しい患者や「障害者」)→優性主義による正当化の恐れ、「健常者」の人種化

・生活保護の不正受給へのヒステリックな反応→貧困の人種化

・大阪府の公務員の退職金減額に対して、府民の「税金で働いているのだから、当たり前」という意見⇒ある意味では、ネオリベの投資家・企業家アイデンティティ(酒井・渋谷)と似ている。税金=資本、株/納税行為=投資行為と考えてしまう。

この文脈で語られる、ナショナリズムはネーション・ステイト(国民国家)を考えるとき、もはや国民というのは人民や民衆を指すのではなく、ステイト=国家権力側の人間を意味するのではないか?それはナショナリズムというよりは国家主義に近い

○オルタナティブ・ナショナリズム、民衆主義としてのナショナリズム

・韓国の民主化闘争の運動原理はナショナリズムである

BSE問題とアメリカ牛肉輸入に反対する運動も民衆レベルでのナショナリズムである

◆日本での共同性や運動の可能性は?

下関市教育長の植民地発言:在日社会に波紋 「支配は事実に反する」発言受け /山口
 「日朝併合(日韓併合)と植民地支配は違う」--。下関市の嶋倉剛教育長(44)の発言が、下関の在日社会に波紋を投げ掛けている。26日に直接聞いた山口朝鮮学園の金鍾九理事長らは「訂正と謝罪を求める」と抗議。市内の朝鮮、韓国籍の人たちも「歴史を習っていれば分かるはずなのに」と困惑を隠せない様子だ。【取違剛】
 発言は26日。金理事長らが山口朝鮮初中級学校の助成金増額を要望した席上だった。
 嶋倉教育長は「助成金は公教育のルールで決まっている。市には増額する財源もない」と回答。しかし、学園側の出席者が「植民地支配によって来ざるをえなかった朝鮮人子弟が通っている」と述べたのを受け「植民地支配というのは歴史事実に反する」などと反論した。
 発言に対する在日社会の反発は大きい。
 金理事長は27日、本広正則副市長に面会し、助成金増額の要望と併せて抗議。「教育長が正しい歴史認識で職務に当たるよう指導を」と求めた。面会後には「教育長は併合を対等合併のように言うが、併合とは人の心を取ってしまうことだ」と厳しい口調で話した。在日本大韓民国民団県地方本部も対応を検討するという。
 日本社会に根差して暮らす人々には、戸惑いもある。会社経営の韓国籍男性は「せっかく韓日関係が良くなっているところで、なぜ。我々は日本で暮らさせてもらっているからこそ両国友好を強く願っているのに」と首をかしげる。別の韓国籍男性は「日本人でもおかしいと思うでしょう」と嘆いた。
 27日、取材に応じた嶋倉教育長は「助成金の話で(学園側が)歴史経緯を持ち出すのは筋違いで、それを否定する中で発言した。私の歴史認識とは別の話だ」と説明。重ねて「日朝併合と植民地支配は異なる」という認識も示した。
 同日午後には改めてコメントを発表。「当然のことながら下関市の教育行政を行うにあたり、政府の見解を尊重する」とした。
〔下関版〕
毎日新聞 2008628日 地方版
http://mainichi.jp/area/yamaguchi/news/20080628ddlk35040535000c.html

韓国は68年の「熱い秋」を経験したことがない。
その当時、韓国には「自由」がなかったからだ。
しかし、分断体制と長い独裁政権の圧政と暴力により、
苦しんだ民衆は、自ら抵抗しなければいけない運動と文化を
培ってきた。そして、今回米国産牛肉輸入を認める大統領の
独断による決定に対して、「NO」を突き付け、BSE問題に留まらない
≪運動≫へと発展した。また、あくまで「平和的」な示威という現代社会に見合った形で変容したともいえる。さまざまな年齢層、小中高生からご老体まで世代を超えた連帯がそこにはあった。

これをただ嬉しいとか、感動的という無反省に肯定することはできないが、しかし、民主主義や社会や市民の意識がはっきりと育まれているということが確認できた。
そして、最大の驚くポイントは今の現代社会においてあれほどの動員力が可能であったのだろうかということである。
みんなの意見には差異がある。一様にひとつのことでまとまることは至難の業であると思われる。韓国にも日本と同じようにポスト・モダンの特徴である周辺化や脱主体化、多様化などが進んでいるが、しかし、いまだひとつになりうるものがあり、差異を超えた信頼による連帯が可能であったことは言うまでもない。
もちろん、韓国内にもサイレント・マジョリティはこれら運動を共産主義者と見る保守主義者、開発独裁支持者はいる。

では、今の日本はどうだろうか。日本も韓国ほどではないが、運動圏はある。しかし、彼らを応援・支援するメディアや政党はない。メディアは企業や公権力の傀儡や広告媒体に堕ちていて、なんらかデモがあってもそれは3面記事に終始する。
また、民衆は消費文化の虜になり、消費者アイデンティティを持って、近所や回りの人間と物欲の充実を競い合う。そして、商品自体が物神化し、私たちに生きがいや充実感、あるいは働く動機さえも満足させてしまう。そして、私たちはそれなしに恋愛や家族愛が別の形であるんだと考えてるものの、その愛の表現方法さえも資本主義の方法論を取らざる得ないことに無反省的である。
大衆文化は恋愛資本主義の別名で、若者たちは自らの存在理由を他なるものに任せ、依存的に生きている。60年代のモテる条件はデモに参加することらしいが、それともサルトルの本を持ってヒッピー風のロン毛にすることであったが、今の若者のモテる条件とはなにをやっても恋愛資本主義の支配領域から自由になれないという悲しい事実がある。もちろん、恋愛中の二人の関係性の中には「真実の愛」と呼べるものがあったとしてもだ。

就職に関しては言うまでもない。私たちは誰もが経済面で興味関心を持たなきゃいけない。資本主義の歯車になって、企業家アイデンティティ、株を買う金もないのに、投資家アイデンティティに同一化しなければならなず、企業の支配体制の中で生きなければならないのである。

そして、日本の経済の変革、新自由主義的な改革は雇用の流動化と不安定化を呼び起こしている。いまの若者が終身雇用を望むことは儚い夢でしかなく、派遣社員や契約社員といった形骸化した保障のもとで働かされる。いつ首を切られるかわかならない斬首台の前に立つ囚人のように。もはや労働することで存在論的不安な状況に常に立たされている。
正社員は会社の看守のようにアルバイトや契約社員を怒鳴り散らし、鞭打ち、労働させる。また、正社員も過労死寸前の危機に瀕している。

そんな状況で労働が楽しく感じられるなら、それはよほどの変態であるだろう。

そして、私たちは同じ苦しい状況をお互い理解し、強固にむずぶつけるものが見えなくなっている。働くことによる共同性はもはやない。ある程度いい人間関係を作ることはできるかもしれないが、全体が連帯できることは到底無理である。なぜなら、わたしたちのコミュニケーション能力は会社や資本主義体制に奪われ、サービス産業において賃金に還元させられているからだ。そして、残されたコミュニケーションでひねり出される言葉は現状の不平、不満ばかりで、言葉さえも貧困化し、
他者を蔑み、攻撃することで、鬱積したものを吐き出すことが日常茶飯事である。
ネットに流れる言説、何を見てもそんな感じがする。あるいは今の現状に反旗を翻す小さな市民意識さえも持ち前のシニシズムからの乾いた嗤いで、摘んでしまう情況にある。すべてがネタとして、リアルに感じられないこの状況は自虐的になると同時に他者を虚仮下ろすことで、見た目は安定しているかのようにみえる。
そして、個人はサイレント・マジョリティと常に対峙しては、彼らの消費文化に毒された戯れを馬鹿にしながらも、とてつもない憧れでもって彼らに敵対心を燃やす。そして、彼らには歪んだ英雄主義でもって2ちゃんのvipper並みの馬鹿げたことで世間を驚かし、「復讐」をしようとする。復讐とはまたおかしな話で彼らの論理は仲間や何かが被害を被ったというよりは神に近い自分の存在を侮辱したことへの恨みに近い、そういう意味での復讐により、日本の現代のテロリズムは行われている。

今回の通り魔事件にもそういう要素があったのだろう。消費文化の聖地、秋葉原で起きたことは本当に偶然であるだろうか。もっと書きたいことはあったのだが、ここらへんでやめよう。ただ、加藤を死刑にしてはいけない、彼ら自分が犯した罪を死ぬまで見つめるための生き地獄に生かすことが、死刑よりも人道的であるし、残酷であると考えるからだ。そして、私たちは犠牲者の方々の代わりに極刑(復讐)を望むのではなく、
この事件を社会に還元し、社会の歪んだ構造を見つけ、克服することが先決ではないだろうか。
そして、私たちは今この事件に対して、悲しい喪の状態にある。
喪われたのは人の命と私たちのこころである。
それを探すため、みなミクシィやブログに自分なりの言葉を紡いでいる。
そんななか、喪われたものを一緒に探すことで、現代社会を生きぬく、共同性の可能性はないのだろうか。喪の共同性、それが可能ならば少なくとも隣にいる人の顔が生きいきと感じられるだろうに。