「すぐにでもお父さんを返してほしい」比人一家の長女ら会見
(読売新聞 - 03月10日 01:35)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=773273&media_id=20
ルールは守るものだけど、
法律はいくらでも民意で変えられるはず。
それが理想(本当)の民主主義。
法律を優先的に考えると治安悪化や外国人差別の問題は消えない。
むしろ、不法滞在者でも機会を与えることはそれこそ、民主主義であり、
人権を守るという重要な意義を持つ。
日本人特権者が憂慮するのは不法滞在者=ルールを守らないあれくれものに
見えるからかも知れない。その不安は理解できなくもない。
この日本という地政空間において、ただ日本人特権が脅かされ、
国家に訓育されたナショナル・アイデンティティが傷ついているとしか思えない。
つまり、日本における日本人という特権がどれくらい有難いものかが無視され、
棚上げしている。
法律以前に、そこ(日本)になんらかの形で(違法であっても)定着してしまった人に
お前その場から消えろということは、
ただ、俺たちが日本にいられる特権をひけらかしているということにも
なりうる。
だから、ルールは大切だけど、それはあくまでも政治家にしか、変えられる権力がない。
今の日本の政治状況で、本当に民意で法律が変わることがありますか?
金と権力のある人間のロビー活動で(政治献金や議員への直談判)、
出来た法律の方が圧倒的に多いはず。
俺たちは(日本人以外は)その権力に従順にしたがっている、客体化された抜け殻。
日本の土壌に根を張ることのできない、巻きつるのような昔甲子園で
いっぱい茂ってたあの植物で、日本人はまっすぐ誇らしげに育ったケヤキやひのき
なんでしょうね。
国民主権、人民主権?笑わせてくれる。
社会をよくするためにルールを守ろうとすることと遵法精神はすこしズレがある。
ただ、在留資格を持つもの、あるいは日本国籍者、特別永住者あるいは永住者は
優遇と特権があることを忘れてはならない。
つまり、彼らが自分たちの家族を第一に考え、直談判することは
別に国家の法律は時として、例外が認められるべきだというメッセージが
こめられているのであって、不法滞在者全員に在留許可を認めろとは言っていない。
それこそ、排他的な入管法で、犯罪の道に走る「第三世界ー風の人々」がいるにはいる。
すべての不法滞在者が、移民が、「第三世界ー風の人々」がそうならば、
日本人の半分以上も犯罪者だ。信号無視とか、ポイ捨てとか、チャリのにけつとか
日常茶飯事でしょ?
だけど、カルデロン一家は不法滞在者にも救いのチャンスをくれと入管と法務省、日本国家に訴えている
ということだと思う。それこそ、強制送還覚悟で。
法律を守ろうとするのは社会のルールやマナー、エチケットを守ろうとすること
、よい社会を目指すことと時として、まったくま逆の方向へいってしまうこともある。
ちなみに、メディアも注目して大々的に直談判をした彼らは
東京入管のブラックリストに入ってしまい、
なかなか再入国許可がおりない可能性が高い。
むしろ、手続きで、再入国許可はそれこそ法務大臣の「鶴の一声」=特例がない限り
もう一度あの家族が日本で再会するのは今の現状ではかなり困難である。
だから、日本に愛着を抱いてしまった不法滞在者に、違法だからという
簡単な言葉は使ってほしくない。とくに2ちゃんの馬鹿のひとつ覚えのような
同じ意見をミクシィの記事日記に書くなよ。2~3個でいいよ、そんな記事日記。
そんなに日本人特権をひけらかしたいと思うのか?
もう飽きた。てか、それしかいえないの?あんたらばぁかぁ?(ラングレー風)
今日の俺はカルデロンのりこさんの父親が収容されている
東京入国管理局に行って、再入国許可証を取ったんで、
あれを取らないと、もう二度と日本には帰れない。たとえ特別永住資格者である
俺でさえも。だから、ちょっと感情的になったかも。
東京入管や日本政府のやり方は、日本のグローバルな資本と市場、安い工場生産、
現地の安い低賃金の労働者をフルに利用して、
世界の富をむさぼって、自国の経済を保っているのに、
日本に流れてくる外国人に厳しい条件を突きつけ、排他的に扱う、
その態度はそれこそ国家のご都合主義でしかない。
ま、あのアジアを統一して(大東亜?)、ヒエラルキーの頂上に日本人を置きたかった
日本帝国主義の無駄な戦争、侵略、植民地で多くの犠牲と不幸を生み出したことを
忘れたか?
馬鹿な西洋人の猿真似したお国柄だから?(だったらもっと移民や難民を受け入れろ)
そんなことないよね。日本人は本当にいい人多いし、
寛容さがあると思ったのに、ネットでは陰口のように陰湿な意見を述べるばかりですか?
結局、この「日本」という地政空間において、最大の特権者は日本国籍保有者で、
ありもしない「日本人の純粋な血」のイデオロギー(虚偽意識)を持っている人間のことですか?
どんな階層秩序=ヒエラルキーだよ。
まじでむかつく、在日や外国人の自治区も作れない日本はチベットやウィグルを
いじめる中国より、劣っているね。多文化共生ってマジ笑わせるなよ。
これはもう日本という地政空間外の日本と言われている土地で独立国家を作るしかないなぁ、それこそ満州国もびっくりな
多くの民族が平等で平和に、暮らせる解放区を武力革命でもってしても
戦って作るしかないのか?
武力革命は好きではないけど、これでチェがなぜゲリラになって
銃を手にしたか、少し理解できた気がする。
だから、権力ふりかざして、のほほんと自分の不幸だけひけらかして、
(もちろん、諸個人にはそれぞれ私なんかが想像もつかない、悲しい経験があることを
非難するつもりはない)
自分の特権を忘れている、あるいは無関心なやつらが増えてこまる。
ま、こんな多様化された後期近代の世界で、「政治」なんて趣味ですよね。
ナショナリズムも。
どうだ。こんなダメなひきこもり在日に言われて悔しいか?あ?
どうぞ、俺をテロリストとして、罵ってください。
私、今年留年してM3です。M度が増してどMですから。
あー、なんだよ。○○人とか。境界とか国境とか。
そんなの俺は決めたことも同意した覚えもねーよ。
荒れてるなぁ、今日の俺。
とにかく、私は日本という国が大好きだし、日本人の大切な友人たちが
あーあいつちょっと血迷うときあるよね。理解してくれることを信じて、
こんな感情的な文章を書いてしまいました。
時として、言葉は無力ではなく、暴力です。
この日記で傷ついた方、怒りを覚えた方申し訳ありません。
日本のすばらしい表現の自由におもいっきり甘えさせてもらいました。
これを読んでいるあなたにもあなたなりの意見、考えがあることを
認めます。そして、尊重します。
あと。日記にコメント書いても構いませんが、ズボラな私、
心の中でしか返事しないので、どうかテレパシーで受け取ってください。
(そういう不治の病なんです)
前の日記にコメくれた方、ごめんなさい。
返信できず、念力でなんとかテレパス送ります。
今日も寝れません。あー、結局なにが言いたいんでしょ、私は。
ここ何日平均睡眠時間2~3時間。
それは鬱憤も半端ないですよね。本当に悪気はないので、
ごりょうしょください。親愛なるみなさま。


監視社会になっていく、世界の裕福な階層が必然的不安にさいなまれていく経緯で、権力は規律訓練型から管理統制社会に移行する形となり、リスクという概念が保険統計主義からの社会構成員としての連帯意識の高揚といよりはポストモダンの特徴というえる脱中心化、周辺化、によるさまざまな共同的、あるいは協働的コミュニティが解体されたり、アンダーグラウンドへ追いやられる形になっている気がします。
そして、リスクというのはネオリベのおかげで、自己責任としての対処が求められる現状、そしてセキュリティの民営化(プライベタリゼーション)による人々の信頼の構築の解体のための相互監視がますます進んでいる気がします。
なんだか、教科書的なネオリベラリズム解釈ですが、
確かに、物神化と呼べるようなフェティシュ的なものが提供してくれる選択肢を、消費文化を経由して、そこにアイデンティファイしてしまった私たちはそれを選ぶことで、自己満足、瞬時的な生き甲斐を感じてしまうかもしれません。
そして、ネオリベ権力はそれしか、市場原理できしか世界の安定を維持する選択肢がないとうそぶくし、無反省に上かのその言説を垂れ流している。そして、私たち人類の唯物史観でないにしろ、抵抗していた記憶、抵抗の潜在的能力への想起さえも不可能にさせてしまう現状があると思います。
先生のカーニヴァル化の意味がよく理解できませんが、鈴木謙介のそれだとしてら、そこに共同性と抵抗の運動の潜在性が潜んでいるとは思いますが、志向性やベクトルを変えない限り、秋葉原の殺傷事件と同類の犯罪のテロルでしか、われわれに課せられた抑圧への抵抗と発散、昇華ということはできないと考えております。
ただ、私は東浩紀の「動物化」のように、戦略として、植民地的誘惑を含めた、日本社会で自分のポジショナリティから来るアイデンテイティ維持のため(これもまた戦略的本質主義なのですが)に消費文化を積極的に感受している部分はあります。無反省に商品をつくる搾取された労働者を軽んじる気はさらさらないですが、今だ在日にとりまく、国家権力側の国民主義的、植民地主義的な日本のナショナル帰属への欲望を回避したいと思っています。
ただ、ネット上でのカーニヴァルは結果的に歪んだ形での発散でしかなく、それがナショナルな権力、ネオリベを推進する資本側に与えられた「戯れの空間」でしかなく、それは意図的につくられるのではなく、やはり構造的な権力と資本に包摂されてしまうことではないでしょうか。
ただ、現代社会を生きる人間にとって、自分の存在論的不安へを解消する一時的な特効薬として働くことは認めざる得ない事実だと思います。
しかし、別の形での共同性、<抵抗へ>の道筋を考えることがこれからの課題だと思います。