■ブラジル人親子3人、感謝の帰国…滞在18年・職探し断念
(読売新聞 - 03月17日 20:06)
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20081209-206556/news/20090317-OYT1T00935.htm
この人いい人なのは分かったが、
この人は日本人のナショナル・アイデンティティの扱いも
またうまいのだろう。
確かに、個人的感想として日本人に感謝する気持ちでいっぱいだろう。
ずっといたいけど、ブラジルで過ごすことを決めたのだろう。
不景気の、みそうゆうの世界的恐慌のせいにして。
しかし、なぜ「日本人」に感謝しなければいけないのか?
実際、世話になったたまたまの「日本国籍保持者」に感謝するならまだしも。
例えば、雇用と労働の問題において
働いてやったのにという感情と
働かせてやったのにという感情は
雇用する側(企業)と労働者(被雇用者)の間で
よく摩擦する互いの感情であるだろう。
しかも、この感情は互いの心の余裕(寛容のキャパシティ)によって
余計なコンフリクトなしに保っているのが実情である。
そして、この関係こそが数々の左右イデオロギー対立を激化させた
歴史を持つ。
春になって春闘によってより強い組合の連帯の確認と
雇用する側への申し立てを行うのであろう。
不景気のなか、このこともまたうやむやになり、
慣例化してしまった企業別労組や連合(批判しても否定するわけではない)
の「春闘」に大きな成果は期待できないだろうが。
これを「日本人」と「在日外国人」との例で、考えてみたら
どうなるのだろうか。
当然、ここでおかしなことが起きていることに気づくだろう。
ここででの対立構図は「日本人」ではなく、「在日外国人」に在留資格を
「与えて」いる「日本政府」であることが妥当であるだろう。
しかし、これはどこのネーション・ステイト(国民国家)、どのナショナルな
地政空間において起きうる「勘違い」である。
「日本(政府)に感謝する」と「たまたまの日本人に感謝する」はまったく
違う文脈で捉えられるべきことであるのだが、しかし、
「在日外国人」はよく間違えるのである。
いや、これはむしろ事実を物語っているのかも知れない。
「日本人」とは「在日外国人」にとって、そのたまたまの日本の領土?
と呼ぶべき地政空間の一部(それはたまたま「在日外国人」が立っている
土の上だが、)にいる自分の存在を承認(許可)しているのは、
日本国籍を所持する「日本人」であるということに無意識に気づいている。
日本国憲法において、日本人が日本という国家の主権を持ち、
民主主義を掲げる、法治国家日本において、日本主権民による
「公平」な選挙の結果次第で、政権も日本政府も変容することは
誰もが知りうる事実である。
しかし、これが日本国民以外で、日本という地政空間に共存する
「在日外国人」にとっては大きな意味を持つ。
つまり、彼らには「日本人」が潜在的に日本国家の巨大な権力の
公平な?分配を受けた小さな権力者、ナショナルな管理者に映るときが
あるし、一般的な日本人が権力を振りかざす役人(これこそ国家や
行政のミクロな権力者であるのだが)に見えるときがあるから、
どこか遠慮がちになる(私には最近この遠慮が足りなくて問題かもしれない)。
一般的な?「日本人」にそんな権限や力はないと笑う人がいるかも知れない。
しかし、入管のGメンや警察、役人(公務員)などは実際の権力を
委任された人物であるのだが、「日本人」あるいは「日本国籍者」も
また潜在的にそのような役職に就ける可能性を持っていて、
その「自由」を憲法のもとで保証されているのである。
そして、彼らが担いうる「権力」とは日本国家がもつ巨大な権力と
「直列」で結びつける小さな「権力」である。
つまり、「日本人」と呼ばれる人々は幸か不幸か、潜在的に
日本国家の巨大な権力を振りかざす可能性のある小さな権力を
持っているのだが、
このことが「持たざるものの嫉妬」とまではいかないが、
「在日外国人」にとって「特権的である」と印象付けるであろう。
しかし、なにかしろ国籍を持つ人間はその国において自由と安全を
約束された「特権者」であるはずだ。いざ、その国の国民=特権者が
外国に定住あるいは、永住する場合、なんとも言えない「不安」に
苛まれるであろう。たとえ領事館や大使館があったとしても、
その「在日外国人」が「不法滞在者」であるのなら、その不安は
自らの存在が懐疑的になる実存的不安に堕ちいれられるだろう。
そして、これら特権者の自覚など、情報や知識さえも「疎外」された
人々にとっては「無用の産物」であるだろう。
情報や知識たけではない、権利、人権からも「疎外」されやすい、
国家の権力によって簡単に折れてしまうような状況に陥った人々は
どうすればいいのだろうか。
なんらかの国民(日本人、外国人も)は無国籍者や難民ではない限り、
潜在的、国家の主権民として権力の行使の可能性と自由を保証されて
いるという事実は知りうると先ほど言ったが、
「知りうる」とは「知りえない」とほぼ同義である。
そのようなアクセスのチャンスが何らかの事情で与えられてない
人々にとって、それらの「特権」など絵に描いたぼた餅である。
国民はそれぞれ平等でもなければ、富の所有や階層などさまざまな
ヒエラルキーや格差が存在し、中心に近い人間もいれば、そのような
中心から「疎外」された人々もいる。
いま、日本社会でも「新たな貧困層」や「派遣切り」など、
さまざまな問題が「日本人」/「外国人」の軸で考えられない問題が
あるだろう。
漠然と「この世界」からの「疎外」を感じる人々も増えている。
自殺者は年間3万人を超え、うつなど精神的な病いに悩む人々も増え、
不景気と新自由主義的改革による自己責任や
社会保障の切り詰めの結果で、借金苦や生活苦に苛まれる人々も、
その危機に近いと言わざるを得ない。
この社会に希望が足りない、それこそ希望格差社会が本当に到来したかも知れない。
これは単純な所有する富の量では、計測できない、
社会の希望の再分配システムが明らかにドン詰まりになっている。
そして、これは日本の若い保守層・ネット右翼が、義務を果たさず、
権利ばかり主張する「弱者」(彼らにとっては自称弱者)が、うざく見えたり、
自らが本来「優先的」、「特権的」に与えられるべき「希望」を
「社会的弱者や在日外国人」に搾取され、奪い取られたと考える
人びとが増えたのではないだろうか。
結局、このブラジル人の家族3人の笑顔の写真を見ていると、
先述した心のキャパシティ(寛容の閾)がとても広く、
まだ希望を見失っていないのが分かる。
もし、人間がこの心のキャパシティを超えた何かに直面したとき、
さまざまな精神的疾病を引き起こすかもしれない。
また、そもそもこのキャパを捨て去るような思考法に会えるなら、
それはそれで、素晴らしいことであるだろうか?カルトでも?
引きこもりでも?オタクサブカルでも?過剰購買?など。
しかし、カルデロン一家のように日本政府や入管に(不法滞在による)
脅かされた生活を送り続け、 自称保守の「日本人特権者」からの心のない
バッシングや誹謗・中傷を受けた人間と「希望」の格差は、日を見るより明らかである。
だから、私も「希望」を持つことを忘れず、もし自らが「希望」を
生産できるとしたなら、社会を通して「希望」の再分配に寄与できる
ようにしたい。ただ、「希望」は何か別な価値と等価交換できるかも知れないが、
義務の等価交換は権利ではない。
権利とは、人が存在するだけで発生するものであり、
法が保証するよりも先に、法を保証するものである。