喪われた共同性を求めて | ANTIFA★黒い彗星검은혜성  だにえる단열の一言。

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韓国籍在日朝鮮人3世、いわゆる「在日コリアン3世」のだにえる단열が大好きな『日本』について書く、そんなブログです。
ANTIFA★黒い彗星CHE★gewaltの新しい一歩のブログでもあります。いつまでも大切だよ。

韓国は68年の「熱い秋」を経験したことがない。
その当時、韓国には「自由」がなかったからだ。
しかし、分断体制と長い独裁政権の圧政と暴力により、
苦しんだ民衆は、自ら抵抗しなければいけない運動と文化を
培ってきた。そして、今回米国産牛肉輸入を認める大統領の
独断による決定に対して、「NO」を突き付け、BSE問題に留まらない
≪運動≫へと発展した。また、あくまで「平和的」な示威という現代社会に見合った形で変容したともいえる。さまざまな年齢層、小中高生からご老体まで世代を超えた連帯がそこにはあった。

これをただ嬉しいとか、感動的という無反省に肯定することはできないが、しかし、民主主義や社会や市民の意識がはっきりと育まれているということが確認できた。
そして、最大の驚くポイントは今の現代社会においてあれほどの動員力が可能であったのだろうかということである。
みんなの意見には差異がある。一様にひとつのことでまとまることは至難の業であると思われる。韓国にも日本と同じようにポスト・モダンの特徴である周辺化や脱主体化、多様化などが進んでいるが、しかし、いまだひとつになりうるものがあり、差異を超えた信頼による連帯が可能であったことは言うまでもない。
もちろん、韓国内にもサイレント・マジョリティはこれら運動を共産主義者と見る保守主義者、開発独裁支持者はいる。

では、今の日本はどうだろうか。日本も韓国ほどではないが、運動圏はある。しかし、彼らを応援・支援するメディアや政党はない。メディアは企業や公権力の傀儡や広告媒体に堕ちていて、なんらかデモがあってもそれは3面記事に終始する。
また、民衆は消費文化の虜になり、消費者アイデンティティを持って、近所や回りの人間と物欲の充実を競い合う。そして、商品自体が物神化し、私たちに生きがいや充実感、あるいは働く動機さえも満足させてしまう。そして、私たちはそれなしに恋愛や家族愛が別の形であるんだと考えてるものの、その愛の表現方法さえも資本主義の方法論を取らざる得ないことに無反省的である。
大衆文化は恋愛資本主義の別名で、若者たちは自らの存在理由を他なるものに任せ、依存的に生きている。60年代のモテる条件はデモに参加することらしいが、それともサルトルの本を持ってヒッピー風のロン毛にすることであったが、今の若者のモテる条件とはなにをやっても恋愛資本主義の支配領域から自由になれないという悲しい事実がある。もちろん、恋愛中の二人の関係性の中には「真実の愛」と呼べるものがあったとしてもだ。

就職に関しては言うまでもない。私たちは誰もが経済面で興味関心を持たなきゃいけない。資本主義の歯車になって、企業家アイデンティティ、株を買う金もないのに、投資家アイデンティティに同一化しなければならなず、企業の支配体制の中で生きなければならないのである。

そして、日本の経済の変革、新自由主義的な改革は雇用の流動化と不安定化を呼び起こしている。いまの若者が終身雇用を望むことは儚い夢でしかなく、派遣社員や契約社員といった形骸化した保障のもとで働かされる。いつ首を切られるかわかならない斬首台の前に立つ囚人のように。もはや労働することで存在論的不安な状況に常に立たされている。
正社員は会社の看守のようにアルバイトや契約社員を怒鳴り散らし、鞭打ち、労働させる。また、正社員も過労死寸前の危機に瀕している。

そんな状況で労働が楽しく感じられるなら、それはよほどの変態であるだろう。

そして、私たちは同じ苦しい状況をお互い理解し、強固にむずぶつけるものが見えなくなっている。働くことによる共同性はもはやない。ある程度いい人間関係を作ることはできるかもしれないが、全体が連帯できることは到底無理である。なぜなら、わたしたちのコミュニケーション能力は会社や資本主義体制に奪われ、サービス産業において賃金に還元させられているからだ。そして、残されたコミュニケーションでひねり出される言葉は現状の不平、不満ばかりで、言葉さえも貧困化し、
他者を蔑み、攻撃することで、鬱積したものを吐き出すことが日常茶飯事である。
ネットに流れる言説、何を見てもそんな感じがする。あるいは今の現状に反旗を翻す小さな市民意識さえも持ち前のシニシズムからの乾いた嗤いで、摘んでしまう情況にある。すべてがネタとして、リアルに感じられないこの状況は自虐的になると同時に他者を虚仮下ろすことで、見た目は安定しているかのようにみえる。
そして、個人はサイレント・マジョリティと常に対峙しては、彼らの消費文化に毒された戯れを馬鹿にしながらも、とてつもない憧れでもって彼らに敵対心を燃やす。そして、彼らには歪んだ英雄主義でもって2ちゃんのvipper並みの馬鹿げたことで世間を驚かし、「復讐」をしようとする。復讐とはまたおかしな話で彼らの論理は仲間や何かが被害を被ったというよりは神に近い自分の存在を侮辱したことへの恨みに近い、そういう意味での復讐により、日本の現代のテロリズムは行われている。

今回の通り魔事件にもそういう要素があったのだろう。消費文化の聖地、秋葉原で起きたことは本当に偶然であるだろうか。もっと書きたいことはあったのだが、ここらへんでやめよう。ただ、加藤を死刑にしてはいけない、彼ら自分が犯した罪を死ぬまで見つめるための生き地獄に生かすことが、死刑よりも人道的であるし、残酷であると考えるからだ。そして、私たちは犠牲者の方々の代わりに極刑(復讐)を望むのではなく、
この事件を社会に還元し、社会の歪んだ構造を見つけ、克服することが先決ではないだろうか。
そして、私たちは今この事件に対して、悲しい喪の状態にある。
喪われたのは人の命と私たちのこころである。
それを探すため、みなミクシィやブログに自分なりの言葉を紡いでいる。
そんななか、喪われたものを一緒に探すことで、現代社会を生きぬく、共同性の可能性はないのだろうか。喪の共同性、それが可能ならば少なくとも隣にいる人の顔が生きいきと感じられるだろうに。