ロングラン対話となっている、「ASと定型の通訳に関する対話 」コメント欄からスピンオフ。私は常々ご意見はコメントでなく記事でと主張しておるのですが、なかなかうまくいきません。
 
1 ご意見は記事にして欲しい理由
(1)私の読解能力が低いため、コメントだけでは意図や根拠が不明確。
(2)ご意見にレスしてキレられたり、延々と意図の説明などのやり取りが続いて話題がおかしな方向へ行った経験による恐怖。
(3)真偽不明あるいは非公開情報を書かれた場合、自分のブログに置くことに責任を持てない。
(4)相手のブログがわからずそのコメント以外の情報がない場合、相手の知識レベルがわからない。意図、根拠、知識レベルを汲んでレスしないと(2)になる。
(5)同じところをグルグル回るレスレスは消耗する。
 
 逆に言えば、根拠や意図が私にもわかるコメントで、真偽を確認しなければならないような情報が入っていなくて、相手のブログがわかっていて、私のレスにキレないでくれて、私が消耗するようなレスレスをしないでくれれば、コメントでも可です。
 レスしなくていいと言う人はいますし実際しないこともありますが、
「ばーかばーか、レス要りません」
というのも腹が立ちます。削除していただいて結構ですと同じでレス不要なら何を書いてもいいということではありません。
 
 実際のところ飛び込みの人にここまで求めるのは無理そうなので、コメント不可にしていますが、残念でもあります。
 対して、記事にできない方の理由を推測。
 
2 ご意見を記事にできない理由
(1)記事が書けるほど、テーマに関する基礎知識がない
(2)コメントは書けても記事を書く能力がない
(3)テーマの違う話題を自分のブログに持ち込みたくない
(4)面倒臭い
(5)確実に反応してもらいたい
(6)現在自分のブログが荒れている
 
 掲示板を置く、という作戦もあります。記事へのコメントもそこに書いてもらうのです。思考を綴りたい人はそれもよし、それとも記事の下につけるコメントでないと駄目なんでしょうか。
 ちょっちぷんさんが、
「ある種類の人達は、自分が相手を理解するためでなく、相手に自分を理解してもらうためにコメントする」
と書いていました(現在は非公開の模様)が、真相はそんなところかも知れません。ただそれでも、むしろなおのこと、それは記事で書くべきことなんではないか、と引っかかってしまいます。少なくとも
「それはこういうことなんではないでしょうか」

「私を理解して欲しい」
にはとても見えんのですが、言葉とはそういうもの(「それはこういうことなんではないでしょうか」=「私を理解して欲しい」になるようなもの)かも知れません。
 
過去記事 : 他者のブログを発信場所とすること
 
 
 1月31日の記事。テーマについて記事が書けるほどの基礎知識もないのに、「それは違うんではないでしょうか」と意見するのもどうかと思うが、厳しすぎるのか。
アドラー心理学入門 」 ロバート・W. ランディン著
 
 共同体感覚に関する部分はモヤモヤしています。アドラー自身か訳者かあるいは両方が、肝心なことを隠しているんではないかというモヤモヤです。どんな種類のモヤモヤかというと、例えるならこれです。
 
プログラマーkkの勉強/成長ブログ様
 成功できない人たちが持つ7つの悪習慣
 
 私がよくツッコミを入れる系の記事ですが、早速冒頭の
「第1の悪習慣:人のせいにしない」
から、怒鳴られたら怒鳴り返すという当然のことが悪いことされています。いつもこういうことにモヤモヤさせられます。なぜそれが悪いことなのでしょう。先に怒鳴る方が悪いに決まっているじゃん、というのは通じません。それは共同体感覚がないということです。
 
 先に怒鳴る方が悪いに決まっているのですが、先に怒鳴る人は自分より劣った人間なので、広い心で接してあげようというのが共同体感覚である、と言ったら言い過ぎでしょうか。定型発達者は
自分が他人より優れていてものをよく知っている
と思うのがデフォルトであると書きました。私は
「他人は自分より優れていて自分よりものを知っていると思わなければならない」
と教えられてきましたが、前者が正しいのです。
 人は自分より劣った相手には優しくするのが普通です。人は他人より優越するために努力します。そして劣った人間に優しくするのです。こう書くとイヤらしいですが、自己責任論や、厳しいことが本当の優しさの方が、実務的にはずっとイヤらしいです。
 
 このシリーズのこれまでの記事で、下記のことを扱ってきました。
 
1 目の不自由な人の聴覚が発達する
2 人は劣等感があると他の優越する部分で努力しそれを補おうとする
 
 人体にも精神にも、人には優越部分が劣等部分を補うためにより発達する働きがあります。
 それを1人の人間の人体、精神から社会に拡大して考えれば、その中で優れた人間が劣った人間を補う働きをするためにより発達するのは当然の帰結となるでしょう。社会を人体に例えるなら、目の不自由な人の聴覚が発達するのと何ら変わりはありません。
 つまり、社会全体を1人の人間のように捕らえ、自分をその人体の一部であるように捕らえる感覚が共同体感覚ということです。そこには、自分が他の器官を補うだけでなく補われる存在であるという側面もあります。
 
 最初に示したリンク先の7つの悪習慣の中にもこういうのがあります。
「第六の悪習慣:頼れるのは自分だけ」
人は自分より劣った他人を補うだけでなく、優れた他人に補ってもらう存在でもあるのです。
 
 
 1月29日の記事。ついにYahooでも、ブログ記事中に広告が入るようになりました。上品な広告ならまだしも(自主規制)。
このシリーズのタイトルである「アドラーを読む」と同一タイトルの書籍 がありましたが、タイトルには著作権がない、発生するとしても相当独自性がある場合に限られる、という判断でこのままでいきます。
 
 前回 の最後に、劣等コンプレックスと優越コンプレックスについて書きました。用語が増えてきたので、この辺りで、これまで出て来たものも含め、用語の意味についてをまとめておきます。
 
補償
 身体機能の劣った部分、あるいは劣等感のある性質を、他の部分を発達させることで補おうとする、人間の身体及び精神に備わった現象。
 
劣等感
 自分がある部分について劣っていると自覚する心理。正常の範囲内である限りは、優越への努力を刺激するものとして好ましい存在である。
 
優越への努力
 他人より優越したいと考えて努力すること。生れつきの本能とされる。
 
優越コンプレックス
 自分の優れた部分を他人に認めさせようとしたり、他人を支配することで自分の優越性を確認しようとしたりすること。
 
劣等コンプレックス
 劣等感が強くなりすぎて、優越への努力につながらず、できない理由づけをしたり他者への非難に転換すること。
 
 次に、上記用語を用いて、補償が得られるまでの過程を書いていきます。
 
1 優越への努力(生れつきのもの)
2 失敗
3 劣等感
4 別な分野での優越への努力
5 成功
6 補償
 
 基本はこのように補償が形成されるのですが、もちろんそう計算通りにいきません。
 
1 優越への努力 → 2 失敗
 周りが失敗体験させないように育てると「甘やかされた子供」となります。
 
2 失敗 → 3 劣等感
 失敗体験から正常な劣等感が形成されないこともあります。
 
3 劣等感 → 4 別な分野での優越への努力
 劣等感が他の分野での優越への努力につながらず
「自分がそれをできないのは〇〇のせいだ」
と留まってしまうのが劣等コンプレックス、他人に自分の優秀さを認めさせようとしたり支配的な態度に出る方向性になるのが優越コンプレックスです。
 
4 別な分野での優越への努力 → 5 成功
 分野を変えてもなかなか成功せず補償を得られないこともあります。
 
5 成功 → 6 補償
 日本だと、他の分野で秀でても、できないところばかり責められるので、劣等感だけは形成されますがなかなか補償がされそうにありません。その、他人のできないことばかり責める人もまた優越コンプレックスを抱えているのですが。
 
 
 1月24日の記事。世間話もオリンピック一色。「私よく見てないんですよ」「私も見てないんですけど」とその後がやけに詳しい。
 劣等感を、他の分野を発達させることで補おうとする補償という概念は、私がブログの初期に似たことを書いてボコられた経験との関係を合わせて考えずにはいられません。私だけでなく
「算数が苦手だからその分国語をがんばる」
と言おうものならその子はひどく叱られるに違いありません。補償は密かに行われる必要があります。私のように何でも本気にするお子さんであれば
「国語をがんばってはいけないのだ」
と思い込み、補償の機会を失うことでしょう。
 
「まま母のようなやり方で扱われた人間は、強い劣等感の呪いを与えられていて、プラスの状況をつまり安全と征服を求めざるをえなくなっているということを、誰が本気で疑えるのでしょうか?」
「自発的な行為すべてが、(自分は)不適当だという感情から始まる」
 
 上の引用文を信じるなら、自分の子をミルクで育てた女性が若いお母さんに
「母乳でないなんて駄目ねえ」
と説教する行為は、その人自身の劣等感に対する補償としての行為なのでしょう。
 ネットで説教するその人自身が、自分が説教する内容を達成できていないという不思議な現象を多く見てきました。
 正しく働けば、補償はその人の能力を高め、ひいては人類の発展に役立ちますが、補償が他者への攻撃に向かってしまうこともよくあるようです。それは残念ながら失敗した補償です。
 
 私自身も、
「私は働いているのに、働いていない人に努力が足りないと言われた」
「私は障害を隠して働いているのに、障害を理由に人に助けてもらって生きている人に、障害を盾にとって甘えていると言われた」
という劣等感を、未だ補償できずにいます。補償できている劣等感もあります。多くの人は完全にどちらかに偏っているのでなく、両方を抱えていると思われます。
 
 劣等感が強くなりすぎて、できない理由づけや他者への非難に転換することが劣等コンプレックス、自分の優れた部分を他人に認めさせようとしたり支配しようとしたりすることが優越コンプレックスと名づけられています。
 前者は何だか私に似ているし、後者は自己愛性パーソナリティ障害 の説明(あるいは説教族)と似ています。
 
 
 1月22日の記事。他人を自分の劣等感の補償に使うものではありません。どうでもいいですが、小さい頃ドラえもんで
「正直者がばかを見る世の中なんだから」
というセリフを見て
「正直者がバカの面倒を見なければならない世の中」
という意味だと思いました。こちらの方が当たっていると思うのですが。
アドラー心理学入門 」 ロバート・W. ランディン著
 
 参考図書の第1章は、アドラーの生い立ちと略歴紹介です。特筆すべきは、アドラーは最初眼科医であったこと、そして目の不自由な人は耳がよくなるという現象に着目したことです。
 
 目の不自由な人の聴力が発達する現象はよく知られていますが、それを努力の結果である、と解釈している人は少ないでしょう。
 発達障害界ではサバン症候群と呼ばれますが、知的障害者がある特定分野にのみ天才的能力を発揮することがあります。知的障害者全員に発生する訳ではなく、努力の結果でもありません。
 
 努力の成果としてではなく、器質的に、人には劣った部分があると他の部分が発達してそれを補おうとする現象があります。そこから
「人は劣等感があると他の優越する部分で努力しそれを補おうとする」
方につなげるのは若干無理がある気がしないでもありませんが、この入門書だけで理解しようとするのも無理があるので、思い込みでカバーすることにします。
 
 私が引っかかったのは、上の表現だと意志や努力の成果であるように見えるからです。優秀な人達の業績をコンプレックスの裏返しと見るのも抵抗があります。
 本書ではヘレン・ケラーの例も上がっていますが、盲聾の方が当然のようにヘレン・ケラー並を要求されるという話には目を背けたくなるものがあります。現代日本であれば乙武さんが真っ先に上がることでしょう。
 
 現時点では、あくまで器質的なものである、個人差がある、という解釈をしておきます。
「人には劣等部分を補うために、他の部分がより発達する性質がある」
補償と呼ばれる現象です。
 
参考記事 : アドラーを読む
 
 
 1月16日の記事。目の不自由な人の聴力が発達する現象は、ベルサイユのばらで知りました。視力を失っていくのを隠すアンドレがオスカルに、「お前ずいぶん耳がよくなったな」と言われるところ、意味がわからなくて親に聞いたのでした。