劣等感を、他の分野を発達させることで補おうとする補償という概念は、私がブログの初期に似たことを書いてボコられた経験との関係を合わせて考えずにはいられません。私だけでなく
「算数が苦手だからその分国語をがんばる」
と言おうものならその子はひどく叱られるに違いありません。補償は密かに行われる必要があります。私のように何でも本気にするお子さんであれば
「国語をがんばってはいけないのだ」
と思い込み、補償の機会を失うことでしょう。
上の引用文を信じるなら、自分の子をミルクで育てた女性が若いお母さんに
「母乳でないなんて駄目ねえ」
と説教する行為は、その人自身の劣等感に対する補償としての行為なのでしょう。
ネットで説教するその人自身が、自分が説教する内容を達成できていないという不思議な現象を多く見てきました。
正しく働けば、補償はその人の能力を高め、ひいては人類の発展に役立ちますが、補償が他者への攻撃に向かってしまうこともよくあるようです。それは残念ながら失敗した補償です。
私自身も、
「私は働いているのに、働いていない人に努力が足りないと言われた」
「私は障害を隠して働いているのに、障害を理由に人に助けてもらって生きている人に、障害を盾にとって甘えていると言われた」
という劣等感を、未だ補償できずにいます。補償できている劣等感もあります。多くの人は完全にどちらかに偏っているのでなく、両方を抱えていると思われます。
劣等感が強くなりすぎて、できない理由づけや他者への非難に転換することが劣等コンプレックス、自分の優れた部分を他人に認めさせようとしたり支配しようとしたりすることが優越コンプレックスと名づけられています。
前者は何だか私に似ているし、後者は自己愛性パーソナリティ障害 の説明(あるいは説教族)と似ています。
1月22日の記事。他人を自分の劣等感の補償に使うものではありません。どうでもいいですが、小さい頃ドラえもんで
「正直者がばかを見る世の中なんだから」
というセリフを見て
「正直者がバカの面倒を見なければならない世の中」
という意味だと思いました。こちらの方が当たっていると思うのですが。
「算数が苦手だからその分国語をがんばる」
と言おうものならその子はひどく叱られるに違いありません。補償は密かに行われる必要があります。私のように何でも本気にするお子さんであれば
「国語をがんばってはいけないのだ」
と思い込み、補償の機会を失うことでしょう。
「まま母のようなやり方で扱われた人間は、強い劣等感の呪いを与えられていて、プラスの状況をつまり安全と征服を求めざるをえなくなっているということを、誰が本気で疑えるのでしょうか?」
「自発的な行為すべてが、(自分は)不適当だという感情から始まる」
「自発的な行為すべてが、(自分は)不適当だという感情から始まる」
上の引用文を信じるなら、自分の子をミルクで育てた女性が若いお母さんに
「母乳でないなんて駄目ねえ」
と説教する行為は、その人自身の劣等感に対する補償としての行為なのでしょう。
ネットで説教するその人自身が、自分が説教する内容を達成できていないという不思議な現象を多く見てきました。
正しく働けば、補償はその人の能力を高め、ひいては人類の発展に役立ちますが、補償が他者への攻撃に向かってしまうこともよくあるようです。それは残念ながら失敗した補償です。
私自身も、
「私は働いているのに、働いていない人に努力が足りないと言われた」
「私は障害を隠して働いているのに、障害を理由に人に助けてもらって生きている人に、障害を盾にとって甘えていると言われた」
という劣等感を、未だ補償できずにいます。補償できている劣等感もあります。多くの人は完全にどちらかに偏っているのでなく、両方を抱えていると思われます。
劣等感が強くなりすぎて、できない理由づけや他者への非難に転換することが劣等コンプレックス、自分の優れた部分を他人に認めさせようとしたり支配しようとしたりすることが優越コンプレックスと名づけられています。
前者は何だか私に似ているし、後者は自己愛性パーソナリティ障害 の説明(あるいは説教族)と似ています。
1月22日の記事。他人を自分の劣等感の補償に使うものではありません。どうでもいいですが、小さい頃ドラえもんで
「正直者がばかを見る世の中なんだから」
というセリフを見て
「正直者がバカの面倒を見なければならない世の中」
という意味だと思いました。こちらの方が当たっていると思うのですが。