アドラー心理学入門 」 ロバート・W. ランディン著
 
 共同体感覚に関する部分はモヤモヤしています。アドラー自身か訳者かあるいは両方が、肝心なことを隠しているんではないかというモヤモヤです。どんな種類のモヤモヤかというと、例えるならこれです。
 
プログラマーkkの勉強/成長ブログ様
 成功できない人たちが持つ7つの悪習慣
 
 私がよくツッコミを入れる系の記事ですが、早速冒頭の
「第1の悪習慣:人のせいにしない」
から、怒鳴られたら怒鳴り返すという当然のことが悪いことされています。いつもこういうことにモヤモヤさせられます。なぜそれが悪いことなのでしょう。先に怒鳴る方が悪いに決まっているじゃん、というのは通じません。それは共同体感覚がないということです。
 
 先に怒鳴る方が悪いに決まっているのですが、先に怒鳴る人は自分より劣った人間なので、広い心で接してあげようというのが共同体感覚である、と言ったら言い過ぎでしょうか。定型発達者は
自分が他人より優れていてものをよく知っている
と思うのがデフォルトであると書きました。私は
「他人は自分より優れていて自分よりものを知っていると思わなければならない」
と教えられてきましたが、前者が正しいのです。
 人は自分より劣った相手には優しくするのが普通です。人は他人より優越するために努力します。そして劣った人間に優しくするのです。こう書くとイヤらしいですが、自己責任論や、厳しいことが本当の優しさの方が、実務的にはずっとイヤらしいです。
 
 このシリーズのこれまでの記事で、下記のことを扱ってきました。
 
1 目の不自由な人の聴覚が発達する
2 人は劣等感があると他の優越する部分で努力しそれを補おうとする
 
 人体にも精神にも、人には優越部分が劣等部分を補うためにより発達する働きがあります。
 それを1人の人間の人体、精神から社会に拡大して考えれば、その中で優れた人間が劣った人間を補う働きをするためにより発達するのは当然の帰結となるでしょう。社会を人体に例えるなら、目の不自由な人の聴覚が発達するのと何ら変わりはありません。
 つまり、社会全体を1人の人間のように捕らえ、自分をその人体の一部であるように捕らえる感覚が共同体感覚ということです。そこには、自分が他の器官を補うだけでなく補われる存在であるという側面もあります。
 
 最初に示したリンク先の7つの悪習慣の中にもこういうのがあります。
「第六の悪習慣:頼れるのは自分だけ」
人は自分より劣った他人を補うだけでなく、優れた他人に補ってもらう存在でもあるのです。
 
 
 1月29日の記事。ついにYahooでも、ブログ記事中に広告が入るようになりました。上品な広告ならまだしも(自主規制)。