裏メッセージ(うらめしいぜ、に見えるのは私だけですか)は、受信できないならできないでいいとは思いますが、自分を発信側と考えた時、
「コメントしないで下さい」
と書いたら内緒罵倒された経験から、この言葉を使わずに特定の人にコメントしないでもらう方法はないかとも考えます。黙って削除し続けるのは裏メッセージなのでしょうか。受信できないくせに発信しようとは、神をも恐れぬ所業です。
 
 共同体感覚対話(この名称でいいのか)でルールを定めなかったことを悔いていましたが、2005年末ブログ文化論、2006年末異文化交流議論の時も、議論になりそうだと思ったのは記事が3つくらいつながってからで、ルールも
「参加を表明すること」「そのテーマで記事を書くこと」
くらいでした。新しい参加者もいましたが混乱はありませんでした。
 
 大変楽しい議論でしたが、この記事内容が全て私のブログのコメント欄に書かれていたら(無理だ)パンクしていたでしょう。1つのテーマについて、それぞれの場所で思い思いに書いて、読む側も自由に読んでヒントを見出していく、というスタイルは
「私はこれについてこう考えますがどう思いますか」
とピンポイントに問いかけられることとはプレッシャーが違います。
 
 わたりとりさんの過去記事「なんで書けないんだよ 」コメント欄より。
 
書きたいけど自分単独では書けない、という人、わりと多いのではと思っています。コメントとはつまり何かに対する「言及」であり「1」に対して何かを四則 演算する行為、言及なしで記事を書くことはゼロから「1」を立てる行為。この差はけっこうデカいんじゃないかな、と。(わたりとりさん)
 
 私自身は最初、書きたいことを一方的に書ける記事よりも、双方向であるコメントの方が敷居高かったのですが、普通は記事よりコメントの方が楽に書けるものならば、コメントでまとまった内容を書ける人なら当然記事も書ける、とは言い切れないのでしょう。
 ブログを持っている人のコメントの方がわかりやすいのは、ブログという、キャラを把握する材料があるからだけではなく、管理人側としてのコメント対応経 験を積んでいることや、記事を書ける人の方が受発信力も一般的には高い(もちろんそうでないこともある)、ということかも知れません。
 
 
 7月27日の記事。アメーバのトップページが携帯の画面みたいになって、使いづらいです。どういうリニューアルだ。直せるのかしら。
【21:50追記】↑と書いたら直してくれるかなと期待したら、本当に直っていました。ありがとうございます。
 一言メッセージに端を発したわたりとりさんともう1人の方(一応名前を伏せる)の対話が終了しました。内輪ネタを長く続けるのは本意ではありませんが、内輪だからこそ、係わり合いがリアルに迫ってきました。
 
 お2人には直接の交流がなかったのに、今回もいい印象で始まってはいないのに、短期間にちゃんと信頼関係に基づく対話が形成されていました。何かあった時、私には同じような公開討論ができるでしょうか。今後の参考に、自分が観察した結果を残します。
 
1 これほど緊迫した場面でも、対話の前にルールを設定している。
 
 私の、共同体感覚対話の時の失敗とは大変な違いです。力量の差というものです。
 
2 提示するルールは最低限とし、「この点は合わせます」「お好きな方で」と譲歩を見せる。
 
 早く始めろ、と思いながら見ていたのは内緒ですが、つき合いの浅い同士が突っこんだ対話をしようとする時、こういう前説的やり取りで相手の対話技能や背景を掴みつつ、距離感を図っている、のかも知れません。
 
3 押す時は押す、引く時は引く、聞きたいことを聞く前に、相手の言葉に反応する。
 
 コミュニケーションの極意を見せていただきました。私だと押すばかりか引くばかりになるような気がします。
 
4 ジャッジを下す。
 
 双方ゴールインを明確にした上で健闘をたたえ、譲歩も忘れず、終了。
 
 少年漫画の決闘するシーンとかスポーツの試合中に、主人公とライバルがファイティングポーズで向き合っているだけなのに
「むむ、こやつできる」
みたいになっているのありますよね。(妄想?)そんな感じで拝見しました。
 
 格闘技とコミュニケーションは似ています。今私が決めました。どちらも心理戦です。いきなり飛びかかればびっくりされるのは当然だし、私も想像を超える勢いで飛びかかられれば恐怖心を抱きます。
 なお、これは私がネット上のとある対話をリアルタイムで追いながら妄想したことで、お2人が本当にこの通り考えて対話を組み立てたのかは不明です。
 
 
 7月23日の記事。こういう風にやるんだな、よし、私もやってみよう、と思っても、相手が違う反応を示すと応用の利かない私は崩れそうです。懐かしの相関図ジェネレータ によると、わたりとりさんと相手の方は加害者と被害者の関係でありました。
 裏メッセージ 問題と、日本語はどうとでも取れる構造をしている 話と、投票中の初めてのコメントの意味がわからない 時どうするかという話は、私の中では1つにつながっています。書きながら、その関係を整理していきたいと思います。
 
 意味がわからない時は聞く、というのが正常な方法なのですが、的確に質問するのは技術がいるし、聞くというだけでも攻撃的に受け取られるのではないかと心配だし、答えてもらえなかった時動揺する自分が一番怖いです。初めての方でなくても、そういった齟齬は発生します。
 果たして答えてくれるのか、本当のことを答えてくれるのか、答えてくれるだろうと信じたから聞くのに、ごまかされたり逃亡されたりした時の落胆は大きく、せっかく築いてきた人間関係をも阻害します。
 
 まして初めての人とそれだけの対話が可能なのか、せめてブログがあれば、その人がご自分のブログのコメント者とどんな対話をしているのか、どの程度の教 養と文章力をお持ちなのかがわかるのですが、それもないと材料が目の前の意味のわからないコメントだけということになります。
 もしかしたら長いおつき合いができる人かも知れない、いつもそう考えて悩みますが、最初のコメントがいきなり意味わからない場合は長いおつき合いになる可能性は低いですね、これまでの経験上も。(解決早すぎ)
 
 なぜ答えてもらえないのか、私はずっと
「あ、怒っている、逃げよう」
と受け取られたんだと思っていました。しかし最近、
「言葉では説明できないこともあるのだ」
と知りました。
 
 自分が言葉でものを考えるので、他の人もそうだと思いがちです。考えていることのほとんどが言葉になるというのは一種の特技かも知れません。
 ただ、言葉でものを考える度合いの低い人とコメント欄で突っこんだやり取りをするのは難しいかなとは思います。人として気が合うとか趣味が合うとか、信頼できるか、理解し合えるかとは別で、つき合い方が違ってくるということです。
 お互いにそれを知っていれば何でもないことです。
 
 参考リンク : なぜ書けるのか
 
 
 7月21日の記事。お盆で電車が空いています。後々の記事(のコメント欄)によると、どうも私はコメントの読み方がおかしかったようです。
 名前出してしまいますが、わたりとりさんの一言メッセージが波紋を呼んでいます。昨日の記事「地殻変動 」で、実は関係者の名前を出さずにそのことに少し触れようとしていたのですが、帰宅してパソコン開けたら収束に向かっていたので、内容から省きました。
 だから、タイトルと記事内容が微妙に合っていない風にも見えます。それならタイトル変えろよと言われそうですが、我ながらいいセンスだぜと思ってそのままにしてしまいました。
 
 ところがまた新たな波紋を広げているようなので、やっぱり書いてみます。解決しないうちに。
 わたりとりさんは記事を更新しなくても一言メッセージが頻繁に変わるので、私はそれを楽しみにチェックしていました。その内容が、特定の人に対する裏メッセージであるとは認識していませんでした。
 一連の波紋を見ていると、わたりとりさんの一言メッセージを自分宛と受け取ってギク、となっている人は、そう発言していない人も含めて多くいるのではないか、と推測できます。そういうものなんでしょうか。私もそれくらい愛されたいです。(違)
 
 今の一言メッセージ
「見に来なければよろしい。文字通りの意味で。」
は、あなたのサイトを見たくない、と発言していなければ宛先としては通らないので当然私宛ではないし、仮に私宛だとしたら
「自分が見に行くと動揺するようなサイトを見に行く必要はないよ」
と励ましてくれているとしか解釈できません。もしかしてすごいバカ? ご本人も
「あてこすりと受け取られても仕方ない」
と認めていらっしゃるので、自分宛でないにしてもそう読むのが普通かも知れません。
 
 これも昨日の記事に書いたように(ここにつなげたかったのだ)
「日本語はどうとでも受け取れる構造をしている」
からというのもありそうです。
 私も他のブログを読んでいてギク、となることはあるし、私の記事を見たんじゃないだろうな、と思うことはありますが、触発されたとしたらむしろうれしい ことです。明らかに私を非難しているのであればあてこすりではないし、わからなければあてこすりかどうかもわからないことになります。
 実は、あてこすられたとはどういう感覚なのかがわかっていないのですが、悩みが増えそうなので、知らないままでいいです。私がコメント欄で説教された時の感覚に似ているのでしょうか。
 
 わたりとりさんに限って、波紋に落ちこんだりはしていないと思いますが(ひどい)私はわたりとりさんの一言メッセージ好きだし何のことについて書いているのだろうと妄想するのも好きなので、これからも同じように続けていただきたいです。
 想定外に傷つく人がいると知ってしまうと、とても無責任なことは言えないのですが。
 
 
 7月19日の記事。何で、人に甘えるなと言う人は、甘えて生きることが許されるのだろう。こんなのに絶対甘い汁吸わせるべきでないと思うけど。 何か私がうるさい人で、こういう人たちは愛すべきバ○として見守られているみたいでムカつく。
 しまった、昨日の記事とかいって昨日の記事写していないや。内容はただのウダウダです。
 Yahoo!ブログをお持ちの方がログインしてコメントしているのに訪問者履歴が更新されていないことがあるのはなぜだろうと思いながらも、さほど重要課 題でもないため特に追求していなかったのですが、ログアウトして訪問し、同じ日に同じパソコンからログインして再訪問すると履歴が更新されないことがわか りました。
 おお、そうだったのか。まだ世界には私の知らないことがたくさんあります。
 
 Yahoo!ブログのブログタイトルの下にある一言メッセージの欄に書かれている内容には、特定個人に向けた裏の意味があることがある、という話を複数箇所で読みました。
 私はそんな裏メッセージを受信したことがありませんが、もしかしたら鈍くて気づいていないだけかも知れません。もし私に裏メッセージを送信した方がいたら、名指しでない限り気づいていないことをお知らせしておきます。
 
 言葉に他の人がわからないような裏の意味を忍ばせる風習が、顔は見えず個人特定もあいまいで言葉だけが頼りであるネットの世界でも発生するということは、ネットがよりリアルに近づいてきたからだとも言えます。
 元祖公開型SNSであるYahoo!ブログでは、各ブロガーの個性が浮き彫りにされるがゆえに、現実世界にも似た濃ゆい人間関係の機微が発達していそうです。
 
 いつもコメント下さる方は私が鈍いことを知っていて、裏読みを必要としないコメントを心がけているように見えますが、他の場所で他の方と対話なさっている時は裏メッセージをこめることがあるのでしょうか。
 疑い始めると全てに裏があって、火花散らし合いながらも表面上はうまくまわっているようにも見えます。
 
 自分宛のコメントで意味がわからなければ、おつき合いのある方であれば原則聞きますが、どういう意味かと聞くことそれ自体にケンカを売っているようなニュアンスがあります。コメントを削除するよりも意味を聞く方が人間関係をぶち壊しそうです。
 
 コミュニティ内で自分だけがわかっていないという現実の体験が不安を後押しします。中学生くらいの頃のコミュニティでも、みんなでおしゃべりしていて、他の人が全員わかっているのに私だけわかっていないということが時々ありました。
 たいていは冗談を私だけ真に受けているという取るに足りないパターンではありますが、恥ずかしい思いをします。
 
 ブログ上はそういうことが発生しにくいし実際まだ発生していないと思いますが、コミュニティの濃密さが増すほど、現実のコミュニティに近い悩みは将来起こる可能性があります。そういう時は
「距離感、距離感、距離感」
と、パソコンの前で不気味に唱えるのです。
 
 
 7月16日の記事。これが、今も続いている(のか?)長期シリーズになろうとは私も予測していなかった訳ですが、考えれば考えるほど深い闇にとらわれてしまいます。