女性雑誌が来年の占いを特集する季節となりました。
「来年のあなたに新たなる恋のチャンス」
などと書いてあると思わず手に取ってしまいますが、よく考えるともう夢も希望もないお年頃。40になっても50になっても60になっても手に取ってはいてはだめですね。やっぱりこういうのは20代向きです。
 
 とここまで書いて、むむ、こういうことを書くと
「そんなことはない、いくつになっても恋はできるし夢も希望もある」
と善意否定されないだろうか、と被害妄想します。
 困ったな。上記のようなことは私でなくても同年代の女性なら考えると思うのですが、どう書けば否定されないのでしょう。
「来年の転職は大チャンス」
のたびに転職したり、人妻が
「来年こそ運命の人とめぐり会う年」
を見て離婚したら大変です。
 
「占いで自分の人生を決めるのはつまらないことです。自分の人生は自分で決めるべき。すでにある結論を占いに後押ししてもらおうという使い方なら悪くないかも知れません」
おお、これこれ。否定されそうな言葉を外して善語っぽく形成、よく見かける感じの文章にしてみました。しかし違和感ありありなのは、まるで他人事だからです。
 「自分が」占いをあてにしようとした時期があるからそう考えるに至ったであろうに、自分は昔から賢い人であるかのよう。逆に、1度も占いを真剣に読んだり聞いたりしたことのない人なら、ただの薄っぺらい偏見です。
 
 これを書いた人(私が書いたんだが)は上の最初の文章のようなことを考えたんじゃないかと思うんだけど違うでしょうか。大胆な翻訳なので自信はありません。
 「占いで自分の人生を~」の文のこそばゆい違和感、でもこういう表現を使った方がわかりやすいのか、それとも根本的にこの翻訳がおかしいのでしょうか。
 わからなくなったので、今日のところは、私の文章を定型発達者語に翻訳する時の(やりたくないが)のヒントに留めておきます。

 

 

 12月6日の記事。今1月だってのに、「来年の占い」というタイトルでは変です。

 読書感想文コンクール佳作の(しつこいな)海風大先生の善語講座 をトラックバックでいただきました。私には違和感ありありの、直した方の文章の方が他者に受け入れられやすいとは、不思議なことです。でも何となく、翻訳できそうな見込みが立ち始めています。背中のかゆさに耐えられれば。

 友達と奇数人数で会うというのは気が重いものです。11人もいれば気になりませんが、3人だと自分だけぽつねんとしないかと妙な気づかいをします。私が気にしなくても向こうが気にするかも知れません。話題をいくつか用意しておくということはできますが、それだと1人でしゃべってしまう恐れがあります。
 
 それぞれと1対1なら何でもないのに、3人で会うことで人間関係を悪くしてしまうことがあります。私が悪いのですが。
 例えば友人A、Bと私が3人で、昼間会ってお食事することになったとします。AとB、Aと私は仲がいいのですが、Bと私はあまりつきあいがない、というケース。

A「ランチビールあるみたいね。頼む」
私「えー、いらない」
A「遠慮しないでいいよ、好きでしょ」
私「ビールは好きだけど昼間から飲みたくない」
A「平気平気、1杯くらいなら酔わないって」

 古いですが、「昼下がりの恐怖 」でスポンジを持っておそいかかる先輩のように言葉が通じません。雰囲気悪くしないようにやんわり断わらなければいけないのに、笑顔で
「やめてよ」
と言っても通じません。

A「ランチビールひとつお願いします」
私(顔面蒼白)「やめて、いりません」

 響く極端な大声(声の大きさの調節が難しく、少しだけ大きくするということができない)、キーキーとおかしくなる発音、必死な様子に、場の空気が凍ります。また、やってしまいました。

 Aは普段は無理にランチビールを勧めるような人ではないのですが、Bがいたので
「この人ビール大好きなんだよ」
と紹介し、話題を広げたかっただけなのだろうとは思います。自己PR語の応用、他者PR語でしょうか。
 その時はなぜ私の言葉がAに届かないのかわからず、混乱しました。わかったところでどうやってその場の雰囲気を崩さずビールの注文を止めればよかったのか、多分今でも難しいと思います。

 言葉が通じない気がするのは、同じ日本語で話しているように見えても言語体系が違っているからです。言語体系の違いを知ることでうまく対処できるとは限りませんが、周りが突然宇宙語を話し始めたようなパニックは予測がつくようになる、と思いたいです。

 

 

 12月5日の記事。なぜかコメント欄は血液型の話になってしまいました。3人の場合はA、B、Oの組み合わせだとバランスいいそうです。

 AB型はどうすればいいのか、というと他の2人の組合わせを見つつ、AかBを演じるのです。「みゆき」という漫画は主要登場人物のほとんどがAB型でしたが、血縁関係のない知り合いが何人か集まって全員AB型というのはそうそうないと思います。

 私はマニュアル人間です。身のまわりのことはできるだけマニュアル化します。
「こういう時はこう」
パターンは無限にあります。
 マニュアル人間がバカにされることは知っていましたが、そういう人に限ってオリジナリティも創造力もないように思えました。
 分類もダメ、決めつけはダメなどと、だって決めつけないとその先に進めないではありませんか。科学実験だって仮説から入ります。仮説が正解でなければ修正すればよいし、物事には必ず例外があるのに、そんなグラグラの意識で何ができるのでしょう。
 
 原則があるから例外があります。常識があってこその非常識です。自民党があるからぶっ壊せるのです。
 私がどんなにマニュアル好きでも、私に個性がないという人はリアルにもいませんでした。だから私は
「マニュアルがあってこそ工夫が生まれ、原則があるから創造性が発揮できる」
という持論を展開しておりました。周りも
「そうかも知れないね」
と言って(あきれて)くれました。
 
 「平均的な」人間など1人も存在しないし、どんなにマニュアル通りでも個性は必ずにじみ出てきます。
 どんな創造も先人の真似、あるいは現在の不便から出発するもの、マニュアルを軸にして工夫を加えることが創造であり、個性であると信じていました。マニュアルが間違いではないかと考えることすら、マニュアルなしではできません。
 
 私はマニュアルを否定する人に反対しているのではなく、感心しているのです。多くの人が、私の「マニュアル」に代わる軸を、言語を介さずに自然に内部に持っていることに、驚嘆を禁じえません。
「なぜ人を殺してはいけないのか」
と質問した子供がいる、というのがニュースになったことがあります。これを常識に捕らわれない行動と前向きに受け取ることができるでしょうか。質問したことそれ自体が、危険人物であるかのように1人歩きしてしまいます。質問は、真理を追究するためでなく、自分はこんなに勉強熱心で立派な人間であるとPRするためにするものです。こんなことはどこにも書いてありませんが。
 
「普通はどうするのか」「何をしてはいけないのか」
という常識やルールは社会を維持するのに必要なものです。それを文章化したものを熱心に読む人間を否定できる人は、最初からそれを内部にしっかりと持っているようです。熱心に読む私よりも読まない人の方が、世間の常識やルールに精通しているからです。
 
 私が否定されるとすぐグラグラするのは、他の人の中にあるような軸がない、もしくはヘロヘロに弱い、ということなのでしょうか。
「マニュアルはよくない」
という意見を見ますと、私が意味するマニュアルにあたるものを、ほとんどの方が最初からお持ちであるように見えるのです。

 

 

 12月3日の記事。海風さんが「軸の再構築 」をトラックバックして下さいました。マニュアルは悪語のようです。なぜバカにされるのかわかりませんでした。「彼ら」は本当に軸を持っているのか、彼らの軸の正体は何なのか。後で別な記事のコメント欄で話題になったのですが、どうも私のイメージする「マニュアル」という言葉の意味が微妙に違っていたようです。

 うわさのワイン、ボージョレヌーボーをいただきました。きっと、今まで飲んだこともないほどすごいおいしいに違いない、と決めつけ、期待と妄想に脳内を充満させながら飲むと。

 おいしいにはおいしいのですが、充満した期待に追いつきません。あれれ。私が味覚オンチなのか。ネットで見ると、そんなに高価なものではありませんでした。なぜかすごい高いに違いないと思いこんでいました。解禁日のことがあるから実力以上に騒がれていただけだったのでしょうか。

 何にせよ、
「きっとおいしいに違いない」
と充満しながら飲むよりも
「まずいかも」
と覚悟しながら飲む方がおいしく感じられてお得ではと思ったりするのですが、こういう考え方はネガティブだと怒られるのでしょうか。

 フォローしますけど、本当においしいですよ。今回はもらい物でしたから、まだ売っていたら1回買ってみたいです。そんなに高くないこともわかったし。ただコルクを開けるのが大変。普通ワインのコルクは男性が開けるのだそうですね。女1人ワインを開ける、が当たり前になった今日この頃です。

 こういう記事の時は画像を入れないとなんですが、狭い部屋の中で上手に写真取れる場所を作るのに苦労します。この前はもろキッチンが写って恥ずかしかったのです。

 

 

 11月29日の記事。この後クリスマスに近い時期にスパークリングワインがいっぱい売っていたので飲んだらおいしかったのですが、クリスマスが終わったらあまり売ってなくて、探すのにひと苦労です。

 いつも話題を提供してくれるそらさん宅の「アストロ球団 」にトラックバック。私は若いので(強調)「アストロ球団」という漫画自体は見たことないのですが、何かと引用される「アストロ球団的なもの」は知っています。
 
 よくわからないすごい特訓から生み出される荒唐無稽な必殺技は、後のスポ根漫画というジャンルに多大な影響を与えたのみならず、日本人、特に説教族に
「努力とは、血と汗が飛び散り、何だかよくわからないが苦しくて痛くて疲れるもの」
という観念を植えつけました。
「努力している姿など他人に見せるものではない」
という奥ゆかしい観念を一気に吹き飛ばし、努力する姿がショータイム、何を目的にした努力かはどうでもよくなりました。
 見ている分には面白いのですが、私は命が惜しいのでやりたくありません。(本当に努力している人に失礼ですよ。by久々登場の幻聴様)
 
 私はどちらかというと表題にした「リングにかけろ」世代。これはボクシング漫画ですが、根性論に待ったをかけるかのごとく登場しました。
 最初はスポ根のつもりだったようですが、パンチ名を叫んだだけで敵は競技場の天井にめりこんでしまう、もしくはガラスを突き破って会場の外に吹っ飛んでしまう迫力の前に、どんな秘密特訓が有効と言えるのでしょう。人間は自分の限界を知らなければならないという現実を我々に突きつけます。
 
 同じ作者の「聖闘士星矢」は「リンかけ」と設定は違えど登場人物がやっていることはほとんどが同じにも関わらず、SF漫画として成功しました。何が言いたいかというと、スポ根とSFは大して変わらないということです。
 少々話がそれますが、同時期の漫画「受験戦士とどろけ一番」の主人公轟一番は、試験前には勉強どころか、鉛筆腕立て伏せ、鉛筆の芯を日本刀代わりにわら人形斬りという行動を取りましたが、これも机に向かって勉強しているよりも
「がんばってるぜ」
っぽいからだと思われます。

 「リングにかけろ2」という漫画が現在も続いており、私も欠かさず立ち読み(買えよ)しておりますが、スポ根にもSFにもなりきれない現実路線が現代的な感じです。さあ、もっと荒唐無稽に行こうではありませんか。ただ現実と混ざらないよう注意しましょう。

 

 

 11月28日の記事。アストロ球団の秘密特訓みたいなのを努力と言われたらたまったものではありませんが、「ガラスの仮面」も演劇なのに山ごもりして修行しているので、あれが「努力している姿」の定型なのでしょう。SFを本気にしたらダメだって。

 記事中の「とどろけ一番」はその後明らかにリンかけに影響されて、ボクシング漫画に路線変更してすべりましたが、全国のPTAから苦情でも来たのでしょうか。試験中にジャンプして必殺技名を叫びながら答案を書くというあり得なさが面白かったのですが。