夕方帰宅して、昼寝(夕寝?)して、また起きてきて、古畑任三郎を見ながら書いております。今日は何を書こうかなと帰りの列車の中で考えましたが、今年も説教族ネタから。三が日から既にこのネタで、がっかりされはしないか心配です。
 
 年末、ちょっちぷんさんの記事「納得できる思いやりの定義を考える 」とコメント欄を見て考えたのですが、つまりですね、説教族というのは、
「本人は自分では思いやりがある、親切である、と心から信じていて、それに対して感謝を要求し、受け入れられないと怒り出す人」
と定義していたのですが、彼らは本当に
「本人は自分では~心から信じている」
のか、疑問が生じた訳です。全面的にとは申しませんが、ある程度押しつけを自覚している可能性はあります。
 
 前に「彼ら」に感情移入しようとした時、その心の行く立てがどうしても理解できませんでした。
「たとえ自分にとって受け入れがたいことでも、相手の親切心に対しては感謝するべき」
という説教もありました。生ゴミを心から素晴らしいものだと思っている人が、心をこめて生ゴミをプレゼントしてくれたらありがたく受け取るべきだという論拠です。
 しかし後で
「言ってくれないとわからない」
と逆ギレされたのも確かです。言っても言わなくても怒るのでは防ぎようがありません。だから私は今も攻撃に怯えることしかできません。その時が来たら、自分が滅ぼされないために戦うのみです。
 
 説教族については
・私は共存できない
・近づきたくない
・かなうことなら滅んで欲しい
というスタンスは変わりませんが、彼らがどんな心の行く立てをもって他者を攻撃するのか(100%親切、思いやりと本気で信じているのか、それとも攻撃者であることを自覚しているのか)、「異文化としての」興味はつきません。(続く。か?)

 

 

 1月3日の記事。元旦に帰省し、テレビを見ながら書いていることもあってまとまりがありません。続くって、ちっとも続いていないし。

「生ゴミを素晴らしいものと考える文化の人が心をこめて生ゴミをプレゼントしてくれたら、それは私にはいらないものだと断っていいのか、それとも自分を思ってくれるその心をありがたく受け取るべきか」

には考えさせられました。

 説教族だと、受け取らないと

「人の気持ちがわからない」

と責め、

「いやそれは私の文化では生ゴミといって捨てるものだから」

と説明すると

「そんなの言ってくれないとわからない」

と逆ギレしそうだなと思いました。

 本当に言っていることおかしいと気づいていないのか? と悩みだすと少しくらいはわかっているのかもと考えざるを得ませんでした。わかっていてやっているとしたらさらにわからなくなるのですが。

 あけましておめでとうございます。全国的に1月1日元旦なので、帰省前であわてて荷物詰なんかやっている合間を縫って更新。
 今頃みんなブログなんかせずに、雑煮をつつきながら
「今年もいい年にしたいね」「うん」
とか言っているのかと思うと意味なく腹黒な感情が芽生えます。

 昨夜は紅白→ゆく年くる年→さだまさしと、某国営放送局を続けざまに見てしまいました。他の番組を見る予定だったのですが、さだまさしのしゃべりが面白かったので思わず交互に見てしまいました。
 さだまさしは昔落語家を目指していたといううわさ(本当か?)がありましたが、コンサートのトークも非常にさえており、民放の司会者とかやってもいけるのではないかと思いました。おそらく本人が嫌なのでしょうが。
 私も昔、落語家を目指してはどうかと勧められたことがありましたが、目指さなくて本当によかったです。

 いつものぞいていただき、ありがとうございます。今年もよろしくお願いします。

 

 

 1月1日の記事。本日は全国的に2月26日です、はい。正月のあいさつまで写すことないだろうと突っこみを入れつつ。

 よくASは他人に思いやりが持てないと言われます。こんなに心優しい私(妄想)に思いやりがないとは何ですか。
 何度か書きましたが、自分ならして欲しいと思うことをして意地が悪いと言われたり、他人が親切でしてくれたことに私が腹を立てたりして、何が何だかわからなくなりました。
「私はこんなに人に優しくあろうとしているのに、周りは意地悪ばかり」
と思っていたのですが、周りから見ると私がそうだったのでしょう。
 
 先日、私の部屋があまりに汚いので、叔母が五千円で大掃除してやるということで来てくれました。五千円というのは貧乏な私には大金ですが、やはり新年はきれいな部屋で迎えたいということで、お願いしました。

 その後、母に
「あんた叔母さんがせっかくお掃除に来てくれたのにお茶も出さずにふんぞり返っていたんだって」
と言われてしまいました。
 私は非常に気が利かないというか、素のままではとっさにそういうことを思いつかないので、あらかじめ
来客がある
→お茶を出さなければならない
→「コーヒー入れようか、それともお茶がいい?」と聞く
→コーヒーはあるけどお茶は変なハーブティ(便秘に効く)しかない
→買っておいた方がいいかしら
などいろいろシミュレーションしてシナリオを書き、準備を整えておかなければなりません。人が来る時は、外で会う以上に緊張します。
 今回の場合お金を払って掃除をしてもらうため、それほど大層に気を使わなければとは認識していませんでした。(それは間違っている、お茶を入れるべきだった、あるいは掃除くらい自分でしろという説教はとりあえずしないで下さい)
 
 お茶が欲しいならお茶くらい入れろと言ってくれればいいのに。ボケッとしていないで少しは手伝えと言ってくれればいいのに。年齢が近く、友人のような叔母でした。その時には何も言わず、
「ありがとう。いいバイトだわ。また言ってくれれば来るから」
とにこにこしていたのに、後でそんなこと言っていたんだと思うと、部屋に人を入れることにげんなりです。この辺が思いやりに欠ける訳ですが。
 人が来たら必ずお茶を入れると決めておいたとしても、宅急便の人には入れませんよね。水道屋さんだったら。工事に時間がかかれば入れるかも知れません。お掃除の業者の人だったら。考えると微妙なライン結構あります。普通の人ならタイミングを読んで自然に動けるのでしょうけれど、私はとっさには動けないから
「こういう時はこうする」
と決めておかなければなりません。
 
 示す側が思いやりのつもりでも受け取る側が迷惑な場合それは思いやりと呼べるのでしょうか。相手の思いやりに満ちた贈り物を迷惑と言えるのでしょうか。人としてそんなこと言えない気がします。
「迷惑な時はお互いそう言おう」
と仮に決めたとしても、本心とは限りません。
 贈り物と言えばお返しです。相手が何を喜ぶかわかりません。相手にとっては妙な物を私が送りつけるかも知れません。
「お返しなんていいよ」
が本心とは限りません。
 まあ私に贈り物をしようという奇特なお方はもういませんが、思いやりは人の心が読めないと難しそうです。相手に言われてからやるのは思いやりではなさそうです。そういう訳で、私にとって納得できる思いやりの定義とは
「他人が何も言わないうちに、その他人の心を読んでそれに沿って動くこと」
です。

 

 

 12月30日の記事。書いていて思ったんですが、思いやりというのは

「相手に頼まれたことをその通りにやる」

のでは駄目で、言われないのに心を読んでその通りにやらないといけないのですよね。私でなくても外れることありませんか。だったらして欲しい側が希望を言ってその通りにするというスタイルの方が効率よさそうですけど、多分駄目なんでしょう。心を読めないから思いやりがないのでした。

 「伝説巨神イデオン」は、異星人との接触を異文化の衝突として描いたアニメ作品です。
 「ガンダム世代 」で書きましたが、小学校高学年以降あまりアニメを見なくなりました。イデオンも、テレビも映画も見ていませんが、アニメ雑誌は熱心に購読していたので、まるで見ていたように語ることはできます。下記の語りは見ていたように語っていますが、アニメ雑誌の解説にかなり毒されている可能性はあります。
 
 異星人と言っても、アニメのお約束で日本語を話します。言葉が通じているのに文化の違いからどんどん誤解が積み上げられます。例えば地球側が白旗を揚げると異星人は挑発と受け取るという具合に。たまたま一致することもあります。
「何だ同じ人間じゃないか」
と簡単に終わりません。同じ部分があっても異文化には違いありませんから、新たな誤解の元です。
 イデオンは滅亡で終わります。子供相手としては悲惨すぎる結末。それ以前のアニメ(もっと正確にはガンダム以前)は勧善懲悪、メデタシメデタシで強引に解決する善語文化がベースになっています。ファーストガンダムもイデオンも、テレビ視聴率的には成功しませんでしたが、その世界観が熱狂的ファンに支えられ、映画になりました。
 
 さて、そろそろ言い訳をしておかないと、
「じゃあ殺人犯も異文化か」「異文化だと言えば何でも許されると思って」
という攻撃が説教族から入りそうです。私は殺されるのはいやなので、殺人犯は厳罰に処して欲しいと願う者です。
 私は「文化に優劣はあるのか」というタイトルで4つの記事を書きました。
「異文化は共存できるのか」「理解し合えるのか」
というタイトルにしなかったのは、イデオンのラスト同様、それは「集」としては困難に思えたからです。イデオンでも、「個」としては異星人と友情や恋が芽生えますが、「集」としては最後まで交わることはできなかったようです。
 ただ滅亡に向かうだけでは、視聴者は次回を楽しみにできません。(視聴者的に)明るい材料は、地球人の男性と異星人の女性の間に子供ができたことでした。その子はメシア(救世主)と呼ばれ、2つの文化を結びつける存在として期待されますが、その子の誕生は滅亡に間に合いませんでした。

 異文化が理解し合おうとする時、両者を結びつけるキーマンの存在は重要です。わたりとりさんの「二十四人の話者 」のコメント欄には、
「混成コミュニケーションが成功するポイントはブリッジをかけられる人がいるかどうか」
とありました。
 耳の聞こえない両親から生まれた聞こえる子供はコーダと呼ばれ、「聞こえる文化」と「聞こえない文化」の架け橋として期待されるようです。
 私たちは「彼ら」ときっと出会えます。

 

 

 12月29日の記事。アニメネタはつい語ってしまいますが、動くイデオンを1度も見たことはありません。イデオンの操縦者である主人公ユウキコスモのアフロヘアはいただけませんでした。

 海風さんが、2ちゃんねるを例にあげたわたりとりさんのコメントを元に、ブログがメディアの一翼を担えるかという考察 をなさっています。  
 
 私はブログを始める前は2ちゃんねらーでした。Yahooブログは2ちゃんねるに似ています。記事がスレ、コメントがレス。
 2ちゃんねるだと、自分が居心地悪くなったり攻撃されそうになったら簡単に逃げることができました。そこへ行かなければいいのです。自分の立てたスレでも管理責任はありませんでした。
 ブログ、特に自分のブログからは逃げることができません。説教族が襲撃してきたら、戦わなければなりません。
 2ちゃんねるは匿名性が高く、流言、無責任発言など問題の多いメディアですが、匿名だから書けることもあります。責任の所在が明らかなら信頼できる内容とは限りません。責任は危険を伴います。
 
 例えば悪徳商法の体験談、これはマスコミがなかなか報道しないネット向けの素材ですが、ブログでやっても
「それはだまされた方が悪い」
と説教族にたしなめられて終わりな気がします。(これは私の妄想なので、うまくいった例はあるのかも知れません)
 悪徳リフォーム問題が盛り上がったのは、被害者が認知症だったからで、普通のサラリーマンだったら
「そんなのにだまされるなよ」
で終了です。
 どう考えてもだます方が悪いと思うのですが、日本には喧嘩両成敗文化というか、被害者にも落ち度があったことにして、自分はそんな被害には合わないと安心したがる傾向があります。
 
 悪徳商法は警察に相談しても
「だまされた側にも責任がある」
と説教されるばかりか、
「あんた逆に名誉毀損で訴えられるよ」
と脅される始末だそうです。(悪徳商法は警察ではなく消費者センターに訴えるべきではないかという説教をしないで下さい。悪徳商法にもいろいろあるのです)
 被害者が高齢者や主婦だとそこそこ問題になっても、学生や社会人だと被害者に落ち度があるように言われがちです。悪徳商法側も法の網の目をくぐるため日々工夫していますから、法律に照らし合わせると泣き寝入りせざるを得ません。私は裁判をしたことがないのでよくわかりませんが、企業相手に裁判を起こしても休暇を取って裁判所に通うのは大変そうです。向こうは仕事だからいいでしょうけれど。
 
 その力ない個人が大企業にも対抗し得る場がネットです。日本のブログがメディアになれるかというと、これは、
「勇気を出して真実を語ろうとする他者を攻撃することで、いかに自分が賢いかを自慢する行為」
を説教族がやめてくれるかどうかにかかっています。(偏見です)
 2ちゃんねるが正しいと思う訳ではなく、問題は大有りですが、真実は受け売りの正論ではなくゴミの山の中にあります。正論はスポンサーの紐付きの大マスコミだけで十分です。

 

 

 12月27日の記事。もう年末です。ついこの前みたいなのに、もう2月も下旬。ガーン。社名を出して悪徳商法をさらしたブログが削除勧告を受けたとか。表現の自由と名誉毀損は常に紙一重です。コメントが多かったのは、喧嘩両成敗文化のことでした。