待ち合わせ場所は駅前の、ハンバーガーショップの前だった。既に敵は待っている。童顔、小柄で、肩までのストレートヘアの、若奥様風だ。
「いかにも、という感じね」
サングラスの女が、駅の出口から見ていた。連れが1人、いる。
「がんばってね、ノボル」
「はあ。大丈夫でしょうか」
「あの迷惑メールの影に、巨大売春組織があるのよ」
「リナ先輩のサングラスはかえって目立つのでは」
「余計なお世話よ」
ノボルは女の方に向かった。リナは今時めずらしいワンレングスの髪に隠したイヤホンから2人の会話を聞く。
(シホです。初めまして。来て下さってよかった)
(どうも)
(想像していたよりずっと素敵な人)
(いやあ)
クサイセリフだ。
 リナたちは組織的犯罪調査を専門とする、警視庁秘密組織STCのメンバーだ。巧妙になる一方の、迷惑メールによる美人局被害を追ううち、その背後には巨大売春組織があることを突き止めたのだ。

 2人は歩き出した。リナは後をついて歩いた。人波の中、突然腕をつかまれた。
(見つかった)
腕をつかんだ男はリナを見つめ
「ミカ、ミカじゃないか」
と言った。
「人違いよ」
「僕が悪かったよ、ミカ」
ノボルとシホの姿が人の波に消えていく。
「違うって言っているでしょ」
リナはサングラスをずらした。
「あ、本当ですね、違ったみたい」
リナの耳に、シホの
(行きたいところがあるのでつきあっていただけませんか)
という声が聞こえた。壺売りの会場にでも連れていくつもりか。
(この先にチェインソーというお店があるの)
どこよ、どこ。
「チェインソーって知っている」
リナは男に聞いた。
「ああ知っていますよ。そこを左に曲がって」
「連れて行ってよ。あんたのせいで逃がしたんだから」
「はあ」
「そうだ、名前は」
「ひろしです」
「お笑いの人みたいね。私、リナよ」
リナはサングラスをかけ直した。
 

 

 11月13日の記事。かなり戻りますが、最近やっと妄想小説の連作が終了したので写し始めます。まさか5ヶ月も続くとは思いませんでした。読んで下さる方のことを考えると、毎日妄想を読まされるのは大変です。大変ですと言いつつやるんですが。

 この記事は、実在の迷惑メールから妄想たくましくしたのですが、迷惑メールで本当に待ち合わせとなることは実際にはないでしょう。

 自閉症の人は文章を組み立てるのが上手でないという説と、そんなことはない、人それぞれだという説があります。
 よく言われるのは抽象語の理解が難しいということですが、抽象語というのは
「責任」「気概」「前向き」
のような、中身のないスカスカ語のことでしょうか。それなら理解が難しいです。
 
 善語文を書くには、このスカスカ語をきれいに使えることが不可欠です。
 
責任=かっこよくて偉いボク。
気概=戦うことではない、愛し合うことだったんだ。
前向き=黙ってこの悪徳商品を買え。もしくはうるさいからあっちへ行け。
 
 ・・・きれいに使えるでしょうか。抽象語を考える時は具体的な事例と結びつけようとしますが、いい思い出がなかなかありません。
 
 具体的な事例を題材にする方が、書く時は楽ですが、複雑なことを考える時は抽象語も必要です。抽象語を上手に使うと、文章が知性的に見えるような気がします。
 「抽象語」で検索して発見したサイト を見ますと、やはり私のような人間にはわかりにくそうです。辞書的な意味でしか言葉を理解していないのに、辞書によって違うのではお手上げです。
 
 私の発言は医療関係者が聞いても意欲に欠けるように聞こえるらしいので、善語に慣れないといけないのだろうなと思います。使いこなすにはまだまだですが、読んで嫌な気持ちにならない程度には鍛えないと。

 

 

 3月8日の記事。連作はこれで終了です。

「なぜ書けるのか」

を考えながら

「なぜ(違う文体で)書けないのか」

も考えました。

 私が「私の」文章を書く限り、書くことに不自由はないものの、善語文体に直そうとすると、ろくな言葉が紡げません。何も出てこない自分にイラつきもします。

 「精神の自由」「表現の自由」という言葉が浮かびますが、この言葉が私を救うとは限りません。説教だって表現の自由だと言われたら、私の言葉は封じられてしまいます。

 日本の教育ではあまり文章の書き方の指導はしないようです。教師が個人的にしてくれるケースはあると思われますが、
「型にはめるのはよくない」
という理由で文章は自由に書くのが主流です。
 
 マニュアル論 の時に激しく主張しましたが、私は
「型にはめないと個性は生まれない」
と考えています。自分自身がそうだというだけで他の人は違うのかも知れません。私は自然に常識を身につけるのが難しく、全てルールとして学ばなければならなかったからです。
 型からはみ出すのが個性です。それを切り取るのはいかんですが、型にはめないと個性は見えません。
 
 私はいまだに
「大学受験で点数の取れる小論文の書き方」
はわかりませんが、社会に出てから、ビジネス文書は容易に書けるようになりました。いくつかの型を覚えれば簡単でした。広告物に載せる文章も、難しくありませんでした。宣伝という目的がはっきりしていたからです。
 
 どうも学校で書く文章が書きづらいのは、書く本当の目的と名目上の目的が違っているからのようです。
「思った通りを素直に書けばいい」
嘘です。
「論旨展開がしっかりしていれば賛成でも反対でもいい」
多分嘘です。
「無難に書けばいい」
これは本当かも知れませんが、無難の程度がわかりません。
 
 学校の作文というのは、経験したこと、考えたこと、思ったことを書くのではなく、心身共に健全な子供であることを自己PRするために書くのだと知らないと、いくら型を整えても上手に書けません。
 大学受験で小論文の添削を受けた時、当時(今も)意味のわからなかった一文が添えられました。
「大学受験ではあなたより年上の、経験豊富な大人が読むのです」
これは、生意気なことを書くな、という意味だったのでしょうか。
 
 例えば映画のレビューのブログを作ろうと思ったら、好きな映画の宣伝をしたいのか、ネタばれが目的なのか、映画を題材にした自分語りをしたいのかによって用意する型が違ってきそうです。
 このブログの目的は自分語りです。こんなタイトルですが、文章の書き方がどうのという気はありません。

 

 

 3月7日の記事。文章は型を壊すことから始まる、なら型を教えてもらわないと壊せません。

「こうすれば正解という文章の書き方はない」

というとかっこいいですが、実際に上手な文章やそうでない文章というのは存在します。

 過去2回は、考えを言葉で表現できないというのを文字通り解釈し、そういう人は言葉以外の手段で思考していると仮定しました。私自身には映像中心の思考が難しいので、なら逆の人も存在するはず、と考えました。
 ちょっと考え直して、言語で思考しているが文章にできないという状況を、自分に置き換えてみます。私は自分と異質の人を推測できず、自分に置き換えることしかできません。あくまで自分のことなので、間違っている可能性はあります。
 
 私にも考えを文章化できなくなった時期がありました。もちろん、説教族襲撃の時です。結構まじめに善語で文章を書こうとしました。しかしうまく書けません。名セリフ
「気概が欲しいということです」
も私が使うと何だか嫌みったらしいです。
 絶対善語で書かなければならないとしたら、私も
「書きたいことが書けない」
状態になります。どう書けば説教されないのか、思考=言葉であるほど、言葉を置き換えると違う内容になった気がします。
 
 ある特定の型の文章を書けない、考えが文章にならないもどかしさ、それはわかりますが、
「書きたいことが書けない」
というのはそういう意味ではなさそうです。文体を変えられない、ではなく最初から書けない、思考は言語であるにも関わらず。それは単純に上手に書けない、ということでしょうか。説教族襲撃を、
「笑われる」「幼稚だと思われる」
に置き換えるともう少し一般化できそうです。
  
 うーん。映像思考型ゆえに文章化できない、に比べると感情移入できそうにありません。しばらく書いてから壁に当たるのではなく、最初から上手に書こうとして書けないなら、それは
「書けない人は書かなくてもいいし、書きたいならつたなくても書けばいいし」
ということです。寝言になってしまいました。

 

 

 3月6日の記事。文体を変えるのって、簡単そうで難しいです。私も

「説教されない文章を書く方法」

という企画ブログがあったら読みに行ってしまいそうです。(実は自分がやろうとしていたりして)

 文章がうまいと言われたのは社会人になってからでした。定型的なビジネス文書や指示書、広告制作物の原稿、最初はお世辞だったと思いますが、ほめられると自信がつきました。
 
 学生時代の読書感想文や作文、レポートは、平均的には書けましたが、うまいと言われたことはありません。実際、どう書くのが正しいかわかりませんでした。受験の時は
「小論文の書き方」
のような本をあさりましたが、上手にはなりませんでした。思いやりに欠ける記述で先生を怒らせてしまったことは、以前 にも書きました。
 雑誌に投稿すると時々採用されたので、学校向きの文章ではなかったようです。学校向きの文章とは、善語にあふれ、先生にほめられるような書き方です。けなしているのではなく、読む人の立場に立つという点で、とても重要なことです。
 
 私は考えたことが脳内でそのまま文章になるので、それを書くことに不自由はありません。(上手下手は別として)しかし
「あなたの考えを絵に書きなさい」
と言われたらかなり困ってしまいます。
 具体的な場面ではなく、抽象的な事柄もビジュアル的に思考する人がいるとしたら、その世界を言語に置き換えていくのは困難な作業に思えます。書いても、言いたいことの半分も表せていないとがっかりしていらっしゃるかも知れません。
 
 私は絵が下手です。技術的に下手というのはもちろんですが、脳内で画像を組み立てるのが苦手です。緑の草木が生い茂り、茶色の子馬が歩いている、遠くには山が見える、という具合に、映像を言語化する方が理解しやすいです。抽象概念映像思考型の人は(もし存在すればですが)、私を
「怠け者」「努力が足りない」
とののしるでしょうか。

 

 

 3月5日の記事。自分と逆の人を想像すると、映像を言葉に置き換えることで何かが変わってしまうもどかしさを感じます。私がこの文章を絵に描けと言われてもどうしていいかわからないように。いただいたコメントも面白かったので写します。

 

「普段の自分を振り返ってみると、無意識の行動の比率はとても多いような気がします。だから部屋の中で鍵をどこへ置いたかわからなくなってしまったり、何かをどこかにしまいこんでしまったりするのです。

自分のしたいことをしているときのことは言語化しているけど、ルーティンワークが無意識がちです。言語化にも段階があって、絵コンテみたいな絵本みたいなときと、挿絵のように画像がはまるときと、全部言葉で作文のようにしてるときとあるような感じがします」

 

「プログラムを考える時は全体構造がぼやっと浮かんできて、それが消えない間にキーボードで打ち込んだりします。この"ぼやっと浮かぶ"のは文字ではなく、かつ図でもない。。ので表現のしようがないです」

 

「抽象概念イメージ思考型も多そうですね(言語でも映像でもない)。以前アメブロのコメントで、突然リストラされたサラリーマンの立場をシュミレーションするという話があったでしょう。あれ、私も含めたいていの定型発達者も言語で思考して無いと思います。映像でもない、でも無意識でもない。しかし、尋ねられれば即言語化・映像化できるくらいのレベルまでは来ている・・・なんとなくの感触ですがね」

 

 私は無意識の比率が低い。映像の比率も低い。ゼロではないけれど。