前にどこかのニュースサイトかブログで
「将来の夢はコンビニのバイト」
と答える子供(といっても中学生くらい?)に大人が絶句したみたいな話を見ました。その時は後でネタにしようとは夢にも思わず、どこで見たかすっかり忘れてしまいました。
 そういえば、
「将来の夢は正社員」
という子供に絶句した、という話もあったような気がします。雇用形態は夢に見てはいけないのですね。おちおち夢も語れません。
 コンビニの正社員ならどうでしょう。
 コンビニの店長、コンビニの経営者。微妙。絶句はされないだろうけど。
 コンビニの商品開発。これなら多少受けはよさそうです。商品開発という仕事、私は大学卒業するまで知りませんでしたが。
 大人の職業観というか、大人が子供に投影する職業観というか。職業としてのランクに差はないはずなのに、大人受けする職業としない職業が存在するような。
 
 私の夢は、1億円を合法的に不労所得すること(前は天から降ってくることだったのですが、それだと警察に届けないといけなそうなので)なんですが、これも絶句されそうです。
 いったい何ならいいんだ。パイロットとかプロスポーツ選手とか大人受けしそうな夢を語る子供というのは、親の意向を反映している臭いんですが。これだけでも、子供が大人に将来の夢を聞かれたら、大人がどういう答を望んでいるかを読み取り、
「子供らしい夢いっぱいの子供である」
という自己PR語で答えなければならないということがわかります。
 
 コンビニバイトの子の話も、前後がわからないのでこれだけで判断するのは危険ですが、もしかしたらレジ打ったり商品を並べたりする姿がかっこよく見えたのかも知れません。コンビニのバイトは身近な職業だし、なってみたいと思っても不思議はありません。私はコンビニを愛用していますが、自分にはレジ打ちは無理だと思うので、コンビニのバイトをやりたい人が減ると困ります。
 実現不可能な夢を見て挫折するよりも、小さくても成功体験を積んでいきたい、ではいけませんか。夢は幼少の頃は大きく、大人になるにつれ小さくならないといけないことになっているみたいですが、逆の方が楽しそうです。
 子供の頃の夢が大きい方がよい理由のひとつは、幼少の頃から訓練しないとなれないような職業があることですが、そういうのは本人よりも親が熱心であることが必要です。
 
 大きすぎる夢につぶされるのも人生、チャレンジ精神が足りなかったと後悔するのも人生。いかにも大人受けする将来の夢を無邪気に語る子供もうざいけど、人の夢の内容にいちいち絶句する人は、大人になっても夢ばかり語る人に
「そんな都合のいい世界はありませんよ」
と説教しそうでさらにうざいのです。
 
 
 5月9日の記事。アメブロがまた大幅に改造されています。コメント欄が書きにくそうですが、スパム防止に工夫を凝らしているところが見受けられます。アメブロはコピペの宣伝コメントがよく入りますが、私はコメントは承認後公開にしているため、失敗したと思ったのか、同じ記事に9つ同じコメントが入りました。
 メッセージ機能も、アメブロは内緒コメント機能がないのでいいと思うのですが、mixiの真似っぽいです。保存期間が60日なところまで。
 名古屋のバス会社の
「せいぜいご利用下さい」
話(コメント欄参照) から、どこかで読んだ、日本語の堪能な外国人が
「この書類、適当に仕上げておきました」
と言って周囲を凍らせたエピソードを思い出しました。
 
 何となく言葉の使い方が変でも許されるケースはあります。外国人である、明らかなお国訛りがある、子供である、など。外国人でも顔立ちが日本人と区別がつかないほど、そして発音が正確であるほど
「悪意がある」
と解釈されるのでしょう。それでもどこかで外国人だとわかれば、
「なーんだ」
と氷解する、はずです。
 地方出身者でも、いわゆる訛りがないと、やはり悪意を疑われるかも知れません。それも地方出身者であるとどこかで気づけば、誤解は解けるであろうと考えられます。
 
 自分の状況に当てはめると、非言語でカバーすることもできず、悪意で取られても全然気づかずに過ごすんだろうなと想像します。
「コミュニケーション能力に障碍があって」
「そうだったの。なーんだ」
とは多分ならないでしょう。
「普通に話しているじゃない、ふざけるな」
がオチです。「外国人」「地方出身者」ならいいんですが。私も「地方出身者」という理由で納得されたことはあります。
 
 会話があまり達者でない人は、障碍でも何でもなくても
「あ、この人話すの苦手なんだな」
と自然な配慮を受けることができます。それでも責める人はいるかも知れませんが、自然で無意識な配慮というのは、誰でも持っています。
 お年寄りには席を譲りましょうみたいな。内部障碍者が車椅子用トイレを使うと責められるけど、少しでも見た目でわかれば配慮されるような。
 私は言われないと全然気がつかないので、自然な配慮をできる人は素敵だと思います。
 
 理由を言わなくても配慮されることもあれば、理由を言ったら罵倒されることもあります。日本語の発音がきれいな外国人がいるからといって片言の外国人を努力が足りないと罵倒するんでしょうか。日本人は外国人に弱いからそんなことはあまりないと思いますが、日本語の達者な外国人ほど、訛りのない地方出身者ほど、誤解にはさらされやすそうです。
 
 
 5月7日の記事。ゴールデンウィーク中はどうも不機嫌ですね。今私はご機嫌なんですが、不機嫌な記事を写すと感化されて不機嫌になってきます。
 時間のあるゴールデンウィーク中に善語文を書こうとしてどうにもうまくいかないイライラがたまってしまいました。今年の目標のひとつに
「全文善語の記事を書くこと」
があったのですが、もう今年が半分過ぎているではありませんか。善語を研究するほど憎しみがわくのですが。
 平塚5遺体事件のあまりのすごさに1日中テレビのニュースや2ちゃんねるを追っていると、気持ち悪くなります。ネットのやりすぎは身体によくありません。無理してでもどこかに出かけてさわやかな5月の風でも浴びないと、心身共にどす黒くなってしまいそうです。
 ゴールデンウィークで訪問者が少ないので、普段だと書きづらい(あらゆる説教妄想を喚起する)ネタを書いてみます。
 
 たまに本を書けばと言っていただくと、すぐその気になる私は妄想だけはしますが、このブログを自費出版以外の方法で本にするのは現実的ではありません。悪語満載過ぎます。
 こういう手の出版物は
「主人公がハンディを乗り越え成功した」
というストーリーにしなければなりません。有名な
「自閉症だったわたしへ」
も大学へ進学したり結婚したりするところで終わります。
 
 私は今のところ成功はしないと思いますが、こう書くと
「やる気がない」
と言われそうです。謙譲の美徳と受け取ってもらえないものでしょうか。逆にきっと成功すると書くと
「そんな甘いもんじゃない」
と言われそうです。どうすればいいのだ。
 ああ言えばこう、こう言えばそう、と相手の言葉を否定するのはそういう会話ルールになっているからであって深い意味はないみたいですが、何を言っても否定されるんだと思うとあまり自分の未来を語りたくありません。
 しかし未来の希望を語らないと
「気概が欲しいということです」
となりそうだし八方塞やん。
 
 要するに、全文善語の文を書いてみようと思うと、何かしら否定されるような説教が思い浮かんできてうまくいかないなあということです。
 世間では、否定する方が、本当に相手のためを思っている、ということになっているみたいですが、相手のためを思っている割には否定したことに対して責任取る気はないようです。肯定会話を
「ひとりごとの応酬」「キモイ」
と取る人もいるようです。私の言うことはひとりごとっぽいから本当かも知れません。ひとりごとの応酬がコミュニケーションを拒んでいるという意味なら、相手の言うことを否定するのがコミュニケーション?
 何を書いたところで、何を言ったところで、全ては否定されるんだいうことを受け入れないと厳しそうです。(これも否定されそう)
 
 
 5月6日の記事。短期引きこもりでげんなり気味です。
 これは絶対コメント拒否です。ハッピーな記事を書けば人の気持ちがわからない、アンハッピーな記事を書けば甘えだと言われる(被害妄想です)、いったいどうすれば誰にも文句を言われずに済むのでしょう。だからこのブログは批判禁止です。その人の意に沿うように変えたところでまた別な誰かに批判されるからです。
 昼過ぎに家を出たら、目の前にカラスのフンが落ちてきました。危ないところでした。家を出るのが3秒早かったら、フンをかぶっていたことでしょう。朝から(昼だけど)フンなどかぶっていたらその場で大騒ぎです。(私が)
 
 自分はすんでのところで運がいいと胸をなでおろします。巨人の桑田真澄投手が先日600日ぶりの勝利をあげた時
「生かされている」
という名セリフを吐いておいででしたが、そんな心境です。
 桑田は実力の割に十分運が悪いと思うのですが、すんでのところで救い上げられることに感謝の気持ちを忘れないのはよいお話です。その後まもなく2軍落ちしたので油断は禁物です。
 
 桑田の話が出たのでそのまま続けます。清原同様、桑田も私が入団時から知っている数少ないスタープロ野球選手です。その前の甲子園時代から知っていました。知っていましたといっても、テレビを見て一方的に知っているだけで、当然知り合いではありません。
 高校生が坊主頭で野球のユニフォームだと、相貌認知能力あやしい私にはみんな同じに見え、清原でさえ他の選手と区別がついていませんでしたが、投手である桑田は目立ちました。高校野球ではどうしても投手に注目が集まるので、イメージとしては桑田>清原でした。
 
 しかしプロに入ると大黒柱は4番バッターです。投手は何日かに1度しか見ませんが、4番バッターは毎日出場が原則です。ランナーがいる時、試合が劣勢の時、こう着状態の時、何でもない時でさえ、4番バッター登場となるとボルテージ上がります。
 今では清原>桑田でしょう。でも桑田という人はガリクソンや上原にも尊敬されていたし、意外に人格者なんではないかと想像します。
 
 いろいろ不運があっても、人格攻撃に近い報道をされても、静かに時を見送り、
「生かされていること」
に感謝を忘れない、というのは、理想的でありながらなかなかできないことです。そんな風に生きられたら、私ももう少し大人物なんですが。
 今後もフンにも負けず、一花咲かせていただきたいものです。先発は荷が重そうなので中継ぎあたりで。
 
 
 5月4日の記事。ジャイアンツも自力優勝の可能性を失って大変です。桑田に来年はあるのでしょうか。選手としては厳しそうです。コーチかな。
 コメントの返信を考えながら、いろいろ思いつくことがあったので、昨日の補足を兼ねてつらつらと。
 ここに書いていることは私の世界から見た一方的な見方なので、他の人から見ると違う風に写ると思います。かんさつ日記 R氏のように。あそこまでひどくない、とは思いますが。
 
 昨日の記事「申し訳ございません 」も、言い訳は反省がないように見えたでしょうし、何があっても機械的に謝罪するだけなのも誠実さがないように見えたでしょう。
 それをカバーする非言語コミュニケーション能力(言葉はつたなくても、誠実さや一生懸命さや人間味を感じさせる表情、発音、空気を作り出す力)も私には欠けていました。
 機械がしゃべっているような、あるいはヒステリックに叫んでいるような、極端な表現能力しかないのでは、
「本当に一生懸命かどうかは見ればわかる」
と信じる人たちには通用しません。
 
「この前はこう言われたのでこうしたんですが今回はこうしてはいけなかったんですね。どこがこの前とは違っていたのでしょう」
こんなこと言ったら普通は怒りますね。次に同じ失敗をしないための「検証」は
「言い訳ばかり」「人のせいにしている」「逆らっている」「反省がない」
です。善語悪語ルール、否定会話ルール、自己PR語、言語を事実を伝える目的で使っていないの法則を知っていれば、せめて何がすれ違っているかわかったのですが。
 検証しようとすれば人間関係を悪くする、検証しなければ同じ失敗を繰り返す、どうすることもできません。前門の虎、後門の狼、というのでしょうか。
 
 昔の出来事を書きながら、世界が私をどう見ていたかを知っていきます。過去の自分の記事を読み返すと、まだ非言語コミュニケーションがどんなものか知らなかった頃書いたことが結構間抜けです。
  
 
 5月3日の記事。ゴールデンウィークど真ん中なのに家でずーっと平塚5遺体事件(もう誰も覚えていないな)のニュースを追っていました。今日は七夕ですね。だからどうという訳ではありませんが。