異文化交流議論は
「非常にコミュニケーションの難しい人とコミュニケーションするには」
方面に流れているような気がします。いえ、いいんですけど、その
「非常にコミュニケーションの難しい人」
というのは私ではないのです。ある意味では私よりもっと難しい人です。私が最も苦手とするタイプの人たちと申しますか。
 
 1人で考えていた時は
「私が一般人とコミュニケーション上手に取るには」
が主たる課題でした。
「私が最も苦手とするタイプの人たちとコミュニケーションする」
のはとても山が高くて、一昨年のブログ文化論では
「近づかない」
にとどまりました。
 
 今の異文化交流議論では、私もマジョリティ側に属する構図になっています。議論参加者が、比較的私と対話できる人たちだからです。できなければこのチームは成立しなかった訳ですが。
 さあ大変です。私は普段、他の皆様に歩み寄っていただいて何とか(一部の方と)対話を成立させていますが、
「もっと難しい人」
には私が歩み寄らないと向こうは歩み寄ってはくれません。
 
 歩み寄るというと仲良くしようとしているみたいですが、流れとしては、
「必ずしも受容できなくても、全貌を理解することで対処法を探る」
方向に向かっています。正体がわからないから難しいので、正体がわかれば怖くはない、とまでは言えなくても、山道でクマに出会ってもびっくりしないで生き延びる方法はあるのではないかということです。
 「破壊と脅威と対立と 」でも触れましたが、この議論は穏やかな理想の世界を思い描くのではなく、暗い部分や汚い部分をえぐり出そうとしているところがエキサイティングです。悪語好きな私の趣味ですか。きっとみんなの趣味です。
 ひとまずこの流れに乗ってみましょう。他者認識は自己認識でもある そうですから。皆様それぞれ、魚のアタマ を見つけ始めているようですし、先は楽しみです。
 
 
 1月25日の記事。今日(2月26日)からYahoo界では転載機能デフォルト不可です。どんな画面になるかと思ったら、何も変わっていません。チェックの位置が変わっただけ。(当たり前だ)何を期待していた自分。
 わたりとりさんの短編小説「オレはシャイダン 」のコメント欄で
「ブログはメディアか、公開された私的空間か」
という話題がありました。
 メディアという言葉をどういうくくりで捕らえるかも人それぞれのようですが、私は読者としては、ブログをメディア(情報収集のための媒体)として読みます。日常生活を綴ったただの日記でも、他者の生活実態を研究する材料だったりします。
 
 書き手としては、自分でメディアと呼ぶのは傲慢な感じです。こんなのがメディアかい、とせせら笑われたら、私は恥ずかしくてシュンとなります。だから、このブログは「公開された私的空間」です。
 新人ブロガーの分際で情報発信者を気取っていると、ベテランブロガーからはおそらくひどく生意気に見えます。だから、開設後間もない時期は同化圧力が仕掛けられるんではないか、という気が今はします。上から目線でたしなめられると、情報発信(恥ずかしい)というより先生に提出する作文を書いているようで、全然楽しくありません。
 
 これだけブログが増えてくると、ブロガー同士の人間関係は重要です。新人はそのシマ(って何だよ)を統括するベテランに辞を低くしてあいさつし、ここそこで活動いたしますんでどうぞよろしう、と頭を下げ、しばらくは腰ぎんちゃくを務めた後独立する、という手順を考えないといけません。その間にネットマナーも学べます。
 会社でも、入社3年(あるいは1年)は意見を言うなと言われますが、これを破るとどんなに優秀でも生意気だとボコボコにされます。ブログ界は移り変わりが激しいとはいえ、少なくとも開設後1年は
「うちは公開された私的空間ですうううううう、メディアってなーに?」
な顔をしておき、周囲に認められるのを待つ必要があります。
 
 ブログ文化論の頃のちょっちぷんさんの記事「フローリフェラス・フローリッシュ 」で、ファンを
「マーク シュマーク スマート」
の3層に分けるプロレス業界用語を紹介し、マニアなシュマークが最も大衆的なマークを敵視する構図をネット界に例えていました。マークが増えてくるとさらにその中に階層が出てくる、という話もしました。ブログ界でも、黎明期からやっていた人からさっき開設ボタンを押した人まで、様々な段階があります。
 
 70歳くらいの、珍しい病気にかかった人のブログを見ました。情報が少ない中、同じ病気の人のサイトが救いだった、今度は自分が恩返ししたい、そのために、PC教室に通った、とありました。病気や障害系のブログは荒れやすいと言われますが、心ないコメントにつぶされないようにと祈らずにいられません。
 今までなら発信手段を持たなかった人々の言葉がWEBに登場することは、情報を探す側にもメリットあることだと思うのです。
 
 
 1月23日の記事。アメブロ版ブログタイトルをYahooと合わせるべきかということについての投票を、Yahooでやっています。投票という形を取れば、「今まで通りで」という人が多いのですが、コメントを見ていくと、このブログをどう位置づけていくかということに考えが及びます。
 週刊モーニングで連載していたこの漫画が他誌に移籍するそうですが、私はてっきり、前の精神科編に抗議が殺到して出版社が対処しきれなくなったんだと思いました。報道だと金銭的問題だそうです。
 精神科編は私も毎週立ち読みしましたが、最後何の解決もないままでした。解決しようもないのですけど。あの患者カップルは幸せになれるのでしょうか。私はAS診断済だったので、いろいろ考えさせられました。患者にも、患者に冷たい世間にも感情移入しました。
 
 異質はどこまで受け入れられるか、と考える時、受け入れられなければ近づかない、というのを前のブログ文化論の時やりました。自分が共存できないと考える人間には近づかない、が原則ではあるけれど、どうしても許されない人間は死ぬしかないのか、と問われると難しい問題です。さすがに全てが受け入れられるとは思いません。
 某宗教の信者が部屋を貸してもらえなかったり、子女が学校に通えなかったりした報道がありました。幼児対象の性犯罪者の出所後の情報は公にされるべきだという論があります。私もそう思います。
 
 それはいじめられっ子を排除するいじめっ子と違うのか。もし、お前は秩序を乱す危険な人間だから消えろ、と言われたら。私は何も悪いことをしていない。お前がしていなくても外から見ると悪いことなんだよ。
 グルグルモードに陥ります。秩序の維持か、フラットで理想的な世界か。1人の人間の権利か、大勢の人間の権利か。自己を破壊するか、他者を破壊するか。社会秩序はできるだけ多くの人が安全に、幸せに暮らすためにあります。
 システムを整えた上で、理解を広げた上で、それでもギリギリの選択がなされる、その時、私もまた他者を排除する側にまわることもあるのでしょう。社会は選ばれた人間のためだけのものではないという原則と、排除する側となった事実は決して忘れてはいけません。法律的なことなど、きちんとした基準は必要です。
 
 関係ありませんが、8歳で行方不明になった少女が19年ぶりに密林で野生化した状態で見つかったというニュースがありました。(本当かよ)
 私がもし社会秩序の維持のために人間社会を排除されるなら、密林か無人島で野生化することも検討します。(できるのか?)ドラえもんののび太君は無人島で10年暮らしたそうですが、かなりたくましいです。私すぐ感染症にかかって死んじゃいそうです。
 
 
 1月20日の記事。異文化交流議論やっていますと、差別する側の自分を強く意識します。今日、放火や強姦で400件くらいの罪を犯して、本人も出たらまたやるだろうと言っている人が、死刑でなく無期懲役になったというニュースをやっていましたが、こういう人を社会として受け入れられるのかというと、全ての人に差別なくフラットであろうとすることは難しいと思えます。自分が差別される側になった時のことを考えると悩みますが。
 たまには言語シリーズも。私はわりと具体的に言語表現する方だと思いますが、
「具体的に言って」「もっと具体的に」
とはよく言われました。そこでさらに具体的に表現しようとしてすべりまくりました。
「具体的に言って」
とは
「今言ったことがわからなかった」
あるいは
「私がそれをやりたい時にはどうすればいいのか私の立場に立って私がすぐ使えるように説明して」
という意味だったのではないかと最近気づきました。
 
 具体的に、と言われると私は身近な例を次々引っ張り出しては余計わかりにくくしていました。実例を出すと説明しやすいけど、相手がその実例に引っ張られて肝心な部分を受け取ってくれなくなります。
 具体的という言葉がそもそも具体的ではなくて、使う人は
「もっと(自分にとって)わかりやすく言って」
よりは具体的だという理由で
「具体的に言って」
と言うのでしょう。私の具体的はこんなだから 、具体的に言おうとすればするほどわかりづらくなったりします。
「抽象的に言って」
とはあまり言いませんが、物事によってはむしろ実例をあげずに抽象的に表現した方がよいこともありそうです。
 
 ここでいつもだと何か具体的な例をあげて自論を補足するところですが、今回は例を出さないことで抽象的な雰囲気をかもし出してみます。
「具体的に言って」
よりも
「演繹的に言って」「帰納的に言って」
の方が求めることが具体的です。
 
 
 1月19日の記事。「こんなだから」の先の記事は、めずらしくYahooでコメントがつかなかったのですが、それはわかりにくいからだということがわかりました。動作を文章にするとわかりにくいみたいですね。私はいつも文章にしているのですが。私の感覚だと多少漠然と言った方がよいようです。
 内省型の人ほど議論中に
「自分はどうなのか」
のグルグルに陥ります。これは困ったことです。
 まったく、そろいもそろって内省し始めてくれまして。私も書けない時期を経験したからわからぬではありませんが。
 
 敵が自分の内側か外側かの違いはありますが、書けない頃の自分を振り返ると、
「これはこう言われるんじゃないか」
書き直すと
「今度はこう言われるんじゃないか」
と何を書いても何かしら文句言われそうで、コメントが入る度に震え上がったものです。絶対文句言われない文章の書き方も模索しましたが、そんな文章はあったとしても面白みがありません。
「空が青い」
と書いても
「曇りの日は白いですよ」
と言う人はいます。(いるのか?)
 
 これはもう、自分を否定するものは、誰が何と言おうとそいつが全面的に悪いでねじ伏せるしかないのだな。これ自体に説教が殺到しそうなんですが、読んだ人がどう受け取るかを書く側は100%コントロールできません。それは受け取った人のものですから、私にできるのは、私を馬鹿だと思っても馬鹿と言うな、というところまでです。
 これだけ思いこんでもまだ内省はあふれ出ます。グラグラになりそうな信念を立て直しても、自分は一点の曇りもない、正しい人だと思える日は来ないでしょう。
 
 だから、みんな(できれば)早く帰って来てね。いつかは終息するとしても、この時期、こんなに楽しい幸福なフォーラム(トンコさんの記事 の阿檀さんのコメント)があったことを忘れません。ありがとう。
 
 
 1月18日の記事、本日(2月21日)、Yahoo様の転載(表示されているボタンを押すだけで、その記事を自分のブログに複製してアップできる)機能の仕様変更が発表されました。この議論は、私は参加していませんでしたが一通りは追っていました。仕様変更もしくは撤廃を求める人々の執念が実ったことに、感動しております。