すみません。今日の午後、渋谷のブックファースト2階のサブカルチャーコーナーで立ち読みしながら泣いていたのは私です。
ノンフィクションの場所にもなく、小説、エッセイのところも探して無かったcotton100%・・・。サブカルのところでついに発見!と見つけたのは「鬼嫁日記」。探していたのはこれではなかったのに、と思いながらもつい笑いが抑えられずに噴出しながら立ち読み。充分楽しんだ頃に、視界に例の「cotton・・・」が入る。しかし、その隣に並んでいる「神の肉」の帯にランディさんのコメントが。「家族」の文字から目が離れなくなる。
「神の肉」を手に取り、そのまま読み始める。お父さんが急逝し、そのお父さんにもう一度会う為に、彼岸に行くために、メキシコに向かう。神の肉を体内に入れる。思考と感情が止めど無く溢れる。はじめに湧き上がるお母さんの記憶。母の母としての愛と存在と意味。「あなたを産んだことが、私が生きた意味」だと母が言うくだりで涙が抑えられなくなった。
うちの母も最近同じことを言う。しかしその後に「だからおまえも結婚して子を産みなさい。このすばらしい人生の意味がわかるから」と。それは余計なんだけど。
そして父に対して持つ、死んでからも変わらない愛憎。
この執着は人類全ての人々が逃れられないことになっているのだろうか。
高校時代、思春期。父と何を話したら良いのかも分からず、かと言って話す機会があれば衝突することを繰り返す。早く家を出たい出たい、さもなければ死にたい、間違うと彼をいつかはずみで刺しかねない、と苦しんでいた時期を思い出した。感受性が最高潮に達し、心身の発育の変化に翻弄され、盆地の中の暗い地域的閉塞感に窒息しそうだった頃。
自分の人生の足取りに重ねて見てしまう。
父に認めて欲しくて。父を越えたくて。父を悔しがらせたくて。父に注目されたくて。
結局私のこれまでの歴史は、父から逃れるため、あるいは認められるという目的だけに捧げられて、費やされてきたということか。それを改めて気づかされると呆然としてしまう。
人はそんな風に人生を刻んでいくんだろうか。
そしてそれが予想もしないような底力となり、すばらしい成長につながったりもする。
まあ、人を越える、という考え方自体が幻想なんだろうけれども。

AKIRAさん。買わないで立ち読みして、それなのに泣いてしまってごめんなさい。家で読んだら号泣できたんだけれども。

一体何日ぶりの日記か・・・。
最後の日記を書いた次の日の早朝、いつもは部屋に勝手に入ってくることのない母に突然たたき起こされる。
弟が、殴られて意識不明・・・。「東京の病院の先生から今電話があって。」
広尾のERに運ばれたのが朝5時頃。でも意識がないので、先生も何も言えないらしい。警察も来ていたとのこと。「とにかく状況が分からないから行って来る」と言い残すと、慌ただしく支度をして両親は朝一の新幹線で東京に向かう。
絶句でものも言えない私はただ「気をつけて」とつぶやくしかなかった。
連絡を待ちながら、ゆっくり考える。
なるようにしかならない。祈るしかない。
一方でこんなふうにも考えた。
でもなんか不安な感じがしてこない。身内に何か起きるときはもっと胸騒ぎがして不安になるんだけど・・・。だから大丈夫なんじゃないかなあ。
お昼前にやっと父から連絡が入る。意識は戻ったけど、脳内出血があるし、首の付け根も腫れているから絶対安静だ。ただ命には別状がないらしい・・・。
一瞬ほっとしたけど、脳の障害はいつどうでるか分からないから油断はできない。ただしばらくは様子をみるしかない、と。
三日後、病院に行くと殴られた瞼が腫れていて、顔色も悪くむくんでいる。
「バーカ」
と一言声を掛けると、痛々しさと安心で、涙が出てきて困った。
しかし。
彼は正月に帰ってきたときに既に病的な顔色をしていたのだった。
テレビの番組を作るディレクターという仕事なので、生活は不規則。今時の独身族らしく、食事は時間も内容も不規則、徹夜続きが多く、放送本番明けは浴びるほど酒を飲む。それを10年続けて健康な訳がない。今回も実は意識不明ではなくて、深酒して寝入ってしまっていたのだ。
思い出した。
正月休みが終わって東京に帰る弟の顔をみて、このままでは先は長くないだろうな、と思ったこと。でも、彼は健康のために仕事を辞めて田舎に帰ることはしないだろう。と、心配ながらもこれが運命か、と諦めていたのだった。
今回この事件があって、彼は天からの病気療養期間を得た。まあ彼自身はそうは思えないだろうが、私は神様から弟を救ってもらったと思っている。
もしこれが軽いけがで済んだとしたら・・・。彼の身体は良くならないまま早死にすることになっただろう。このまま内臓の検査もしてもらおう。今までは時間がないと全て後回しにしてきたのだ。それを精算するときだ。
今現在彼はまだ立ってトイレに行くこともできない。脳の状態は何とも言えないが、食欲はあるし、快方に向かっているように思う。
この期間で10年分休むといい。何日かして顔色は正月に会ったときよりも良くなっていた。規則正しく食事をし、たっぷり眠る毎日。きっと怪我が良くなる頃には内臓の機能も正常に戻るだろう。もともと丈夫な身体なのだ。
私は彼の顔のツヤを眺めながら、神に感謝する。

外は「冬ソナ」の世界。
彗星や昴なんて一体どこにあるの?目の前に広がるのは、果てしなく降り積もる雪と曇り空。銀世界と聞こえは良いが、実際はほとんど毎日、一日中鉛色。
環境は人を作るというが、その通り。ここの田舎は重くて閉鎖的な人で満ちている。
雪が降り、歩道がなくなり、人は外を歩かない。
もともと歩いている人は車から変な目で見られる世界なのだ。
「どうして、あの人、車にのってないんだろう」って感じ。
寒いから、言葉は少なくなり、顔の表情は凍り、運動も少なくなる。あるのは毎朝起きるたびに訪れる、「あーあ・・・。今朝も積もった、早く起きて雪かきしないと」という絶え間ない重いストレス。日頃運動不足で身体を動かすのが億劫な上に、さらに怠けた身体は、急激な負担に筋肉痛に涙することになる。気分は日に日に重くなり、他人を思いやったり、外に遊びに出かける元気は消滅していく。
沖縄や、ラテン系の人々がつい踊ってしまうのは、あの暖かい気候のせいだ。
太陽が降り注ぎ、作物が実り、日は長く、夜中まで暖かい。体中の血管はいつも膨張し、血の巡りがいいからいつでも踊る準備はできている。身体が凝らないから動きやすいし、食べてもすぐエネルギーになるから太りにくい。
多分寒い所と暑いところでは、刺激されるホルモンの種類も違ってくるんだろう。
 今度、あるクリニックで、アーユルヴェーダのセミナーをすることになった。
テーマはダイエット。まあ、痩せるための体質別手引き、みたいなもんだろうか。
アーユルヴェーダは、自然の中で、人間がシンクロしているかどうかがポイントだ。
気候も影響するが、まずはじめに各個人の体質はどうか、つまりその人の本来の自然はどうか、というのを探ることからはじめる。
大抵の現代に生きる大人は本来の自分が分からない。まあ分かったところで、それをすぐどうこう出来るもんでもないんだけど。
学校に通う時代からどんどん周りの環境、人間関係や社会的な立場に自分を合わせてここまで来ているから、今現在の自分、とかいわれても、何、それ、の状態なのだ。
食欲も性欲もすでに、本能から出ていない。
人間の脳は知性を働かせる部分と本能を司る部分があるが、ほとんどは本能部分は怠けて昼寝している状態だ。その機能が怠けている間に働かなると、普通に生きていくための普通の状態が維持できなくなる。呼吸や心臓の収縮や体温などなど。出るはずのホルモン刺激が出てこず、出なくてもいいものが過剰に放出されたりする。
全てはストレスとホルモンに支配されていて、私たちは簡単にコントロールすることができない。
自然に生きること。朝起きて、夜寝る。空腹を感じたら、食う。トイレに行きたくなったら出す。
CMを見て、話しを聞いて、匂いをかいで、空腹でもないのに食べたくなる。ドーパミンの仕業。少し食べるともっともっと出てくる。
食べ過ぎて太ると、インシュリンがたくさん出てくる。それは本来の機能を果たさず、余計に食欲をあおる。
たくさんのストレスとたくさんの欲求。
アーユルヴェーダの古典には「病気は知識の誤り」と書いてある。
感覚器官が対象に1,過剰に接触すること 2,全く接触しないこと 3,誤った接触をすることによって起こる、と。
口(の感覚器官)、でいえば 食べ過ぎ、飢餓、腐ったものや、食べ合わせの悪いものを食べるという解釈になる。そこには心理的な要素も隠されているんだけれども。
ホルモンの刺激に支配されている私たち。
本能に戻るターニングポイントはあるんだろうか。
もしかしたらこのめくるめく襲ってくる自然災害が、何かを語っているのか。
 
PS.ちなみに続けている呼吸法は興奮や欲求を抑制する作用があります。きっとセロトニンを出すんだろう。




アーユルヴェーダって言葉を聞くとカタカナだし、サンスクリット語だし、なんか変わった未知のもの、という興味で近づく人は多いと思う。インドっていうだけで何だか怪しげだし・・・?
でも本当は学べば学ぶほど、当たり前のことしか言っていないことが分かってくる。早寝、早起きしなさい。腹八分目に食べなさい。寝る前は食べるな。寒いときには生姜湯を飲め。から、嘘はつくな、目上のものは敬え、などなど。
昔から日本で受け継がれてきた儒教精神や、おばあちゃんの知恵袋や、結局新しいものなんか何もない、小さい頃から言われて反発してきたことばかりである。ただサンスクリットで書かれたものの翻訳がインドやアメリカを経由して入ってきたという経緯があるだけである。さも新しい貴重な情報の顔をして・・・。
周りを改めて見回してみれば、そんなものばかりだ。
テレビの番組も、ファッションも、一番外側の皮膚一枚がきれいに新しく見せられているだけで本当に新しいものなんかない。しかし人々は、何か知らない変わったものを与えられるものを待ち続けている。
きっと現代にはそれが必要なんだろう。
人は古代から何も変わらないのに。
生まれて、食べて、恋をして、子を産み育て、死ぬ。
でも、変化にばかり気を取られてその普遍的なことを忘れてしまった。
自分の身体の生理機能でさえ・・・。
食べる欲求はあるのに満たされた実感はない。
食欲の隣には痩せていたいという矛盾が腕を組む。
欲求のために時間とエネルギーを使う。そうして稼いだ貴重な金で食べ、それを自ら吐いたりしている。またあるものは飲み過ぎた結果収入の多くを医療費に費やす。
これでは一体なんのために生きているのかわからない。
多分そうした不安が「思いっきりテレビ」や「あるある」などの番組に向かわせ、あるものは気功やヨーガに他の世界を求めるのだろう。
みんな頭だけで生きている。
でもまだ本能は、死にかけている五感と直感力を取り戻すことを諦めてはいない。
本当はヨーガや気功の教室に通う必要なんかない。
もしも、みんなが自然の中で生活をし、美味しい水と空気と土地の米さえ食し、家族仲良く働いて、ぐっすり眠ることができれば。
それに価値を持つ者は少ない。というより、分かっていてもそれができない。自分で作った枠の中で必死に出口を探してもがいている。
そんな彼らに流行の身をまとい、近づいて行くことが少なくとも自分の出来ることだ。当たり前のことをサンスクリットを借りて語り、呼吸のテクニックを語る。
鈍くなった身体にひとつまみのスパイス(刺激)を振りかける・・・。
それで相手が、たった一回。大きく呼吸ができれば。
とりあえずはオッケーだ。


自分でアーユルヴェーダやインドに関わってだいぶ経つのに、いまだにヨーガとか瞑想とかを教えている団体を見るとつい、ウサンクサーと思ってしまう。
瞑想の前に「オーム」を唱えると身体の奥からエネルギーが立ち上ってくるのが感じられるのにも関わらず、他人がオームと言っているのを見ると、何か受け入れがたいものを感じてしまう。
もともとインドに足を踏み入れる前は、行者の映像などを見るとなんだか近寄ってはいけない、やばそうな気配があったのだ。
初めてのインド旅行ではまり、OLを辞め、一年間ヒンディ(インド語)留学していた時でさえ、ヨーガや宗教やドラッグやヒッピーやサドゥからは距離を置いていた。私はただ単にインドの土地や人々の生命力や寛容さに魅せられ、自分の居場所をどこかに求めていただけだった。本当は気がつかなかっただけで、彼らの笑顔は宗教と祈りから切り離されるものではなかったのだが・・・。
結局何か確実なものを求めて彷徨い、それは自分の中にあると教えられ、その答えを納得するためにインドに何度も通うはめになってしまった。
きっかけになったのは、5年間世界中を放浪していた日本人に惚れてしまったことだった。まあこれも運命だったと諦めよう。
あの頃は絶対的なものを探していた。それがなんだかは検討もつかなかったけれど、20代の半ばの世間知らずには、圧倒的な強さと明晰な頭脳を持つ男が自分を何とかしてくれるかもしれないという幻想をもってしまったのだ。
彼はあちこちでのいろいろな体験を語った。ゲストハウスの彼の部屋に通ってくる日本人が日に日に増えていった。やはり彼もカリスマ的吸引力をもつ一人だった。バングラデシュのモスクでムスリムになる修行をしたことや、意識を飛ばして他人の意識と出会うような方法、ドラッグの後遺症で見たフラッシュバックの映像など私には未知の話しを次から次へと語った。2週間ほどして彼は西へと去っていった。
あれからもう10年になるが、私は相変わらずインドにぶら下がっている。そして最近、赤坂プリンスで開催されたヨーガフェスティバルである呼吸法に出会うことになる。日本では宗教臭さを根っから嫌う傾向があるため、はじめからこのグル(師匠)に関しては触れないが、インドバンガロールのグル・ジーが編み出した呼吸法をスダルシャン・クリヤという。詳細を説明するのは難しい。興味があればHPをどうぞ。http://www.artoflivingjapan.org/
呼吸法は健康に効果が大きいことを科学的なデータで証明もしている。血液の循環や生理機能、細胞の再生力などをぐっと促進させるのだ。はじめてそれを体験したときはドラッグをやることと似ているなという気がした。ドラッグと違うのは自分を自分でコントロールできることである。ドラッグは効き目が切れるまでじっと我慢して待っていなければならない。そしてどんなに時間が経ってもそれは身体に残る。
呼吸法は、まだまだビギナーなので、他人に語るほどのことはない。でも時々、あれ?ということが起こったり気づいたりするようになる。
日本に帰ってきて半月経つのでだんだん鈍感になりつつあるようなのだが・・・
これから起こる不思議なことを、また紹介していきます。





AKIRAさんの日記を見るとほっとする。
彼には愛がある。
なかなかそこまで愛のある人はいない。
自分に対しても、他人に対しても。
だから人が彼の周りには集まるのだ。
カリスマの要素。
笑顔。
寛容。
包容力。
今を楽しむこと。
どんな境遇にあっても、どんな趣向を持っていても人を判断したり、区別したりしない。
インドの聖人と共通したところが・・・。
私にとっては彼岸ですねえ。などと思っていたらAKIRAさんからメッセージが!
これはすごい感動です。
私がリスペクトする人が、自分の文章を読んでくれる、ということ。
これは、すごい世の中だ。
長生きなんてしたくねえなあ・・・なんて考えていたけど、こういうことの一つ一つが、今日生きていて良かった、と思わせる贈り物であるのだ。
忘れそうになると、思い出させてくれる。
この小さな感動の集積。この出会いの繰り返しが人生であること。
保険料を滞納してても、歯が痛くて左でしかモノが噛めなくても、フリーになったけど仕事が来ないなあと不安になっても、何もしなくても、まあ、この人生は続いてゆく。
熱湯に入る修行をしていて死んだ人のニュースはおかしくて、かなしい。
でも、おかしくてかなしいことが、人生なんだと思う。
自分が選んだ道を全うしたこと、そのことを誰も責められない。
ほとんどが自分で選ぶことを避けて生きているように思えるこの国では。
私はわたしの道を行く。
ただドラッグをやっても、ドラッグに飲まれず、修行をしてもグルに飲まれないようなバランス感覚は持っていたい。
もしかしたら、そこに飲みこまれてから、また別の境地が待っているのか・・・?
考えすぎても仕方ない。
とりあえず、スマイル。
地震に津波・・・何だか自然が人間に対して逆襲しているように感じる・・・
プーケット、スリランカ、モルディブ。クリスマス休暇や新婚旅行で遊んでいた先進国の人々は何人犠牲になったのだろう。
私もあちこち出没するバックパッカーの時もあるし、今回犠牲にあったどの場所にいてもおかしくはないんだけど、不思議とこういう大きな災難には縁遠い。阪神大震災やオウムのサリンの時もインドにいたし(情報が少なくて現実感がなかった)、先日の新潟の地震の時も実家からは近いのに、なぜか八ヶ岳にいたりする。
今年の春に「SUPA!」と「情熱大陸」の仕事で、西原理恵子大先生にお供したチェンナイ。あのビーチがモロに被害に遭っている。もし、あの朝・・・四国の漁村に似てるねーとか言いながら、スラムのような漁師街を冷やかしていたその時が昨日だったら。
まあ冷静に考えて、私と西原氏が一緒にいるところでそんなことは起こりえない・・・という気もするのではあるが。
明日、何が起きるか。
次の瞬間、自分はどうなるか。
お気に入りのAKIRAさんの日記(www.akiramania.com)ではよくマヤ歴のことが出てくる。この暦は2012年までしかないんだそうだ。ってことは、つまり・・・。
行きつけの喫茶へぶんのマスターは、ドクロをよくモティーフにするジュエリーデザイナーだが、彼に何気なく聞いた。
なんで、ガイコツなの・・・?
答えは想像もしていないものだった。
「アメリカの酒場によく飾ってあったりするんだ。どうせいつかはガイコツになるんだから、生きているうちに楽しめよっていう意味なんだと。お守りでもあるんだ」
ほう。インド思想と同じじゃあないか。
死を意識して生きること。
ガイコツのどこがいいんじゃ、と思っていた私の考えは一転した。
今、を楽しめ。
たとえ一瞬後に、波にさらわれるとしても。
この今に集中すること。
そしてこれが瞑想をする意味である。
いつも、この一瞬を満足して生きることができるように。
サマーディ・・・(三昧)
インドでは生命エネルギー、日本では気と言われるものをプラーナという。これは生きている限り、生命活動に必要な動きやエネルギーとなり生物の身体に存在している。
治療ではこのプラーナを治療する事が含まれる。
気功治療はダイレクトにプラーナに働きかけるのだろうが、マッサージやオイルを使ったトリートメントも結果的にはプラーナを治療することになる。
先日ニンニクの味噌漬けで酒を飲んで酔っぱらっている父親をマッサージした。本来は飲酒後にマッサージは厳禁なのだが、頑固な父はいいからやれ、という。家族で旅館に泊まっていたのだが、私が断っても別のマッサージを呼びかねない人である。まあ筋肉質で健康タイプなのでしぶしぶ一時間ほどマッサージをする。
彼は豪快にいびきをかいて寝てしまったが・・・母の側に座るとゲップが2回出た。
!!!
すごくニンニク臭いのだ。
母も「うわー、臭いね」という。
私も母もお昼はお寿司で夜は和食だからニンニクは食べていない。
食べたのは父一人である。
「移った・・・」
翌日知り合いの気功治療師に話したら、「そういうことはあるよ」
といわれる。患者は治療中体中の毛穴から体内のガスを放出しているので、治療している方はどうしてもそれを吸ってしまうのだ、と。まあゲップやあくびで出してしまえば大丈夫、とも言われた。
それは今まで気がつかなかった。
やはり呼吸法や瞑想で体質や感覚が変化しつつあるのだ。それによって治療自体が変わりつつある。
・・・深い。
次はどんな気づきが待っているのか?
インドの伝統医学、アーユルヴェーダの治療法は浄化である。
体中の穴から、あらかじめ体内で調理した老廃物を出すのがメインだ。五つの主な治療法をパンチャカルマという。
これは体質によってどの治療をどの季節にやるかドクターが決めるのだが、本格的にやると一ヶ月以上かかる。
日本でも断食療法とか浣腸療法とかあるが、アーユルヴェーダではそれは浄化ではなく、緩和するだけとみる。浄化されれば体中の細胞が全て新しく生まれ変わるが、緩和しただけでは短期間で元の身体に戻ってしまうのだ。この浄化でダイエットすれば、食べることよりもこの身体を保ちたい、と絶対思うはず。
私はアーユルヴェーダに関わって8年くらいになるが、未だ本格的な治療を受けたことがない。入院して一ヶ月となると金銭的、時間的な余裕が必要となるためだ。
しかしその治療を受けた友人に言わせると、身体だけでなく、運命まで浄化された・・・。
これは無視できない。
インドでパンチャカルマを受けて以来、仕事や人間関係がどんどん変化して、自分自身も周りの人も変わってしまったと。帰国するやいなや色々なことが、準備されていたかの如く動きだし、自分の意志とは関係なく、どんどん進んでいったのだそうだ。彼女は来年に三度目の治療に行く。その後何が起きるか楽しみだ、と言っていた。
浄化、の意味は深い。
実は私も呼吸法のコースの後からいろいろなことが動き出した。
今はフリーで動いているので、もともと仕事も場所も変化する生活をしているのだが・・・。
仕事の中での人間関係において、いつも心の奥に潜んでいた相手への不信感が表に出てきた。それまでずいぶん相手に気にいられていたのだが、突然予定していた仕事をドタキャンされてしまったのだ。いつかはこうなるだろうとは思っていたが、タイミング的にこの呼吸を始めたのがきっかけになったような気がする。これも一つの浄化ではないかと思う。
しかし生活は苦しいが、自分に必要でないものはどんどん浄化され、離れてゆくのだ。そしてパンチャカルマしかり、呼吸と瞑想しかり、その浄化の結果が速く出る。
そんなことをしなくても、実はインドの土地に足を踏み入れただけで何らかの浄化は起こることになるのだが・・・。
そして浄化の後は必要なものがやってくる。正しいタイミングで。
これから何が起きるか。要らない物を出し、必要な物を入れる。
昔は普通に出来ていたことが、現代では出来なくなってしまった。
それに気がついた人は一度インドに関わればいいかも。
思いがけない方向に、自分の人生が動き始めてしまうよ。


とテレビに向かってつぶやいた。
「深夜特急パート2」の何回目かの再放送をやっていた。君の後ろに実は私が・・・。インドをぶらついていた私はこのロケのアシスタントをやったのだった。思えば大沢(たかお)くんがガンジス川に入る時に、「体中の穴をふさぐ」ために、耳栓とかコンドームとか買いに行かされたのだった。私まだ、年頃の嫁入り前なんですけど・・・(当時)
確かに見た目にも汚いし。私も何回か行っているけど、実は沐浴したことはない。まあ私の信仰の薄さはコンドーム並か。
もし仮に、病気になるとしたら。
どれくらい汚いか、よりはどれくらい信仰が浅いか、がポイントになると思う。
信仰が厚く、沐浴に幸せしか感じなければ免疫力は上がり、病気にはならない。逆に体中の穴に栓をしても、汚い、不幸と思うストレスが病気を作る。
最近の免疫学や遺伝子学が言っていることだ。
そんなこと、5000年前からアーユルヴェーダは言っているのに・・・。
ココロは大事だよー。