真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(8) | ちゃぬの裏韓国日記

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(統一教会=世界平和統一家庭連合)

文鮮明教祖と韓鶴子夫人が神から始まった近親婚(父娘婚)「近親絶対理想的相対関係」の関係であるかどうかの考察です。(あくまで文教祖の聖書解釈であり理論ですが・・・)

「真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(7)」の続きです。

■人妻(または婚約中の女性)を奪ってこそ、アダム・エバ・ルーシェルの関係を蕩減復帰できる

説明の続きをする前に、こちらをお読みください。

『まず六マリアの復帰問題から考えてみよう。サタンによってエバを奪い取られたことで、神様は六千年間怒り続けてきたという。神様はエバを取り返すため、第二のアダムであるイエスをこの世に送ったが、イエスの生みの母であるマリアは、イエスを自分の息子としてしか考えず、自分の息子がまず母親とセックスするために生まれてきたことに気がつかなくて、イエスとセックスをしなかった(注=このように母親が息子とセックスすることを、原理では母子協助と言っている)。そのためにイエスは十字架の上で死んでいくしかなかったと原理では説明している。また原理原本には、「イスカリオテのユダの恋人であったマグダラ・マリアをイエスが奪い、復帰させることによって、神様の恨みを払うことになっていたが、ユダがこれに服従せず銀貨三十枚をもらってイエスを売り払ったため、イエスが十字架の上で死んでいくことになった」と説明されている。
イエスが復帰しようとした六人のマリアを復帰させれば、原理通り実践されることになると私も理解していた。ところが、六人のマリアを復帰させたあとでも、文鮮明は手当たり次第何十人もの女を復帰させていった。』

(「六マリアの悲劇 真のサタンは文選明だ!!」朴正華著 P.191より)

上記は、朴正華氏の「六マリアの悲劇」という本の中からの抜粋ですが、この中に2つの内容が入っています。

1つ目:イエスとマリアが性関係をもつ(母子協助)
2つ目:イスカリオテのユダの恋人であったマグダラ・マリアをイエスが奪い、復帰させることによって、神様の恨みを払うこと


(上記の内容を説明している文教祖のみ言葉で詳しく読みたい方は下記を参照ください)
<母子協助・父女協助について>
母子協助の年齢は第1子の長男が15歳になった時
六マリアと真の家庭(5)
真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(2)
<夫がメシアに妻をささげる内容>
文先生のいうイスカリオテのユダの恋人(1)
文先生のいうイスカリオテのユダの恋人(2)


もし文鮮明教祖と洪順愛大母様が関係を持って、二人の間にできた娘と文教祖がまた関係したのなら、上記の2つの内容は成就したことになります。

まず、一つ目の内容は間接的(象徴的?)ではあるが、文教祖と洪順愛大母様は親子の関係であるため、母と息子の性関係は成立します。あくまで条件的ではありますが、一応、クリアしたとしたのでそう。文教祖は、間接的にイエスの立場と同じです。

二つ目の内容は、人妻を寝取ることですから、これはクリアです。しかし、奪われたほうの夫の韓承運氏(または婚約者や恋人)が、文教祖に感謝していませんのでこれも条件的クリアです。文教祖は、いわゆるザカリアの立場と同じです。

この内容は1970年以前のみ言葉にもありますし、広講師も1991年(※92年という話しもある)宮崎台研修センターで講義しました。(下記プリントは1991年となっている)



このようなみ言葉もあります。

『復帰摂理歴史は母子協助から始まる。しかし母子協助がある前に夫婦の協助がなければならないし、夫婦の協助がある前に父娘の協助がなければならない。』
(祝福家庭と理想天国)

二つとも文教祖の理論(理想?)通り完璧な内容でクリアしたわけではありません。
しかし、あくまでも条件的・象徴的だったので、後で辻褄を合わせるため、信者に妻を貢がせたり、息子(長男の孝進)と妻(韓鶴子)と関係を結ばせようとしたりするわけです。
(でも、そうなると文教祖は再臨主ではないのですが)
実体母子協助は長男の孝進が母と関係を持たなければいけない重圧でグレルことによって、成就しなかったようですが・・・。

それは、文教祖は実の母親と性関係を結ぼうと北に行ったのに、母親は自分のやっていること(血分け)を理解していなかったため、結局文教祖は実の母親とは関係が持てなったのです。
つまり、文教祖はその時点で失敗していることになります。

その実母の代わりに母子協助する女性を探して、北に行ったと777の信者は証言しています。
<2ちゃんねる掲示板『統一教会の何が悪い!!!!! 【Part8】』より(※呼称一部修正)>
355 名前: 50代 投稿日: 02/10/30 08:52
摂理とはといってもしょうがないんで、文先生がなんかのきっかけでご自分がソロモンの直系だと誤認して、またなんかのきっかけで原理の摂理に自分をあてはめてしまった。「そうだ、俺はこれから実の母親とセックスをしなければいけない摂理があるんだ」と勘違いして、北に行ったところ、母に会えなかったのか、近くにそれ相応の、女性がいた。「まあ、いいか、これで間に合わせよう」と、そのかたとセックスをして母子協助の摂理に勝利したことにした。

356 名前: 50代 投稿日: 02/10/30 09:00
その北で原理を良く紐解いたらほどけてしまったんではなくカインの家庭を復帰せんといかんと気がついた。そこで、なるべく幸せそうな新婚夫婦の奥さんをセックスに誘って、その家庭に乗り込んで「私がこの女をいただく、布団をしけここでやるから」とやっていた。これで、カイン復帰の摂理が勝利したとおもいこんだ。

358 名前: 50代 投稿日: 02/10/30 09:10
355の勝利を良く考えたらまだ不十分だった。自分の母親も、このちょっとお年の恋人も、エヴァを生む能力がないことに気がついたあがってしまっていたわけだ(w そこで、またこんどは若い女を物色し始めた。一人じゃ、女が生まれるか、男が生まれるか、わからんので、複数のおんなと一室で楽しくやっていたところ、その中の誰かが共産党員のむすめであった。こっから勝共の論理がでてくる。当然、かれはあらゆる手立てで文先生を告訴した。その結果、興南招待所(興南刑務所)での優雅なくらしが待っていた。こんなことから摂理がはじまる。



文教祖の理論でおかしいのは、文教祖が失敗しても、神ではなく文教祖が勝手に決めてその場ですぐ代理をたてて、摂理のやり直しをすることです。
この話は長くなるのでこちらもまた後ほど説明することにします。

さて話を元に戻します。
これからは、上記の内容を頭に置きながら、読み進めてください。



■大母様(洪順愛)と関係があった三人の男性について

一人目:「私は三年後にまた帰ってくるから、あなたは三年間、心を変えず待っていなさい」と大母様(洪順愛)に言い残し、大母様が一生、「この人のために心変わりはしない」と決意させた男性
二人目:韓鶴子夫人の父親と言われている韓承運氏
三人目:済州島に一緒に避難してきた夫(韓承運氏ではない)

教師である韓承運氏は洪順愛大母様が妊娠した当時は、平安北道安州からはるか遠く離れた黄海道延白郡で単身赴任していました。

洪順愛大母様の証で娘の鶴子を妊娠した日付をこのように述べています。

『お母様の父は李龍道牧師の弟子で啓示を受け「洪唯一という人の娘を嫁にもらえ。その子供が男なら天宙の王になる。女の子なら天宙の女王になる」というのです。そして私と二月の終わりに出会って三月の終わりにお母様をはらんだのです。
(洪順愛大母様の証1973年12月21日 東京教会)


まるで、結婚してすぐに妊娠したような言い回しです。しかも、神霊集団の李龍道の弟子とありますが、前回でも説明したように韓承運氏は生涯「篤実なキリスト教徒」でした。1930年代から、南に下る1946年当時まで、異端にどっぷり漬かっていたとしたら、親戚も韓承運氏の息子の韓偉一氏に、少なからず、話をしたでしょう。

1933年ごろに結婚して10年も子供がいなかったのに、2月の終わりにふっと来て、一発で妊娠するとはすごいことです。このような事例がないわけではないですが、2月の終わりは、当時日本統治下にあった朝鮮は、学校の教師は2月は卒業式前で忙しくて休暇など取る暇などないように思うのですが・・・。帰省するなら春休みとか、夏休みではないかと思います。

実は、洪順愛大母様の父の「洪唯一氏」は文鮮明教祖の生まれ故郷の平安南道定州では、知らない人がいないくらい有名人であり、金持ち(資産家)でした。

それは、洪順愛大母様の母の祖先に、平安南道定州で有名な人物がいたためです。
もともと、洪順愛大母様は出身は文教祖と同じ平安南道定州です。途中で引っ越して平安北道安州に行ったとしています。しかし、引っ越したと言っても、川を挟んだ向かい側に引っ越しただけなので、行き来は可能です。

もし、啓示で「「洪唯一という人の娘を嫁にもらえ」と言われたとしても、文教祖にとっては、探すのは難しくなかったでしょう。洪唯一は定州では有名人でしたから。

もちろん、文教祖も知っていたでしょう。

文教祖と洪順愛大母様が接触がなかったかを箇条書きにしてみました。
(すべて、教会出版物からの資料を根拠にしています)

<二人の接触の可能性>

(1)文教祖と洪順愛(大母様)の生まれ故郷は二人とも平安北道定州(家は数キロの距離)

(2)洪順愛の母方(母は趙元模)の趙氏家門は昔、定州で名の知れた富豪であった

(3)洪順愛の母方の先祖の趙漢俊の話は伝説として定州で知らない者はいないほど有名

(4)洪順愛の母方の先祖の趙漢俊の架けた橋は定州で名所になっている

(5)文教祖は趙漢俊の架けた橋を少年時代毎日自転車で渡っていた

(6)文教祖は定州は行かないところがなかったと証言している→趙漢俊の家(洪順愛の家)にも文教祖は見物に行っている時に洪順愛も見ている可能性あり

(7)洪順愛の母(趙元模)の実家は、定州で富豪であり伝説で有名な家柄

(8)洪順愛の母(趙元模)が結婚するときは定州で話題になるはず→結婚相手にも話題の関心が行く

(9)洪順愛の母(趙元模)が異端の血分け教団を信仰していれば定州で噂になるはず

(10)文教祖は解放3年前から(満22歳)から地下教会(血分け教団=混淫派)と再建教会(崔先吉の母の教会)との一体化を考えていた

(11)洪順愛は統一教会入教前から文教祖の顔を知っている(証では夢で2度出会ったと言っている)

(12)洪順愛は李龍道の司会(主礼)で結婚したと韓鶴子に聞かせていたが、李龍道は洪順愛が結婚した日付(教会発表)の前に死亡している(娘に嘘を教える)

(13)洪順愛は教会発表では1934年に結婚しているはずなのに洪順愛の証では「2月に出会って、3月に身ごもった」という表現を使用しているのはおかしい

(14)韓鶴子の父親といわれている韓承運氏は熱狂的な混淫派の信者であり、李龍道の弟子のはずだが、洪順愛が妊娠している途中で生まれる子供が男か女の確認もせず去るのはおかしい

(15)洪順愛が統一教会に入教したとき文教祖は洪順愛だけ無視した(知り合いということを隠すため?)

※統一教会の趙漢俊の話は「ミロク信仰の研究[改定版]宮田登著(1975年・未来社発行)」が元になっています。教会公表の伝説にまつわる韓鶴子夫人の話はかなり脚色して信者に伝えています。



1995年8月23日に韓承運氏と洪順愛大母様は文教祖により霊界祝福されています。しかし、その直後、長男の韓偉一氏を統一教会系の会社役員(一成レジャー産業株式会社会長、一信石材株式会社会長)として優遇し、統一教会に引き入れて信者にしています。
さらに1999年2月7日には、長男の韓偉一氏に実母を他の男性(仏教僧の性徹氏)と霊界祝福しています。
あくまで、韓承運氏と洪順愛大母様は韓鶴子夫人の両親であるとしたいようです。

この話には、まだまだ続きがありますが、それは少し後に説明します。


文教祖と洪順愛大母様の接点ですが、統一教会の1954年入教で36家庭の姜義弘女史は韓鶴子夫人の出生について、下記のように証しています。

『二〇〇二年十一月十二日朝、池生蓮女史からファックスが届きました。真のご父母様のご聖誕祝賀と真のお母様の還暦祝賀記念集を発刊して、歴史に貴いものとして残そうというので、真のお母様についての証言を書いてほしいという公文でした。私にとってあまりにも衝撃的な内容でした。このファックスを送られた池生蓮女史は、私とは縦的な三位基台です。歳月が流れて、三十六家庭の姉妹たちも皆散在して暮らすようになり、お互いに会うのが難しいです。しかし、池生蓮女史とはアメリカでも近い所で暮らしています。
 私にとっては途方もない内容のファックスを受け取って、数日間、ためらっていました。しかし、真のお母様の還暦を迎え、またこの日を歴史に永遠に残して、真のお母様の尊厳さと真の愛のお母様であられることを証しする文を書くという勇気をもって、直接に見て聞いて感じたことを事実的な証拠をもとに書こうと決心しました。(この証言において、もし天道に外れた表現や不敬な語句があれば理解して許してください)』

(著書「真の愛の勝利者」姜義弘の証より)

1954年当時からの入教であれば、血分けも六マリアも祝福家庭の夫が妻を差し出すことも、すべて知っているのに、「衝撃的な内容。途方もない内容。数日間ためらった」と何故言っているのでしょうか?

もう何が出てきても、微動だにしないような信者でさえ驚くような「驚愕の内容」は文教祖と韓鶴子夫人が親子くらいしか残っていないでしょう。


洪順愛大母様の関係のあった一人目の男性について話していきたいと思います。

一人目:「私は三年後にまた帰ってくるから、あなたは三年間、心を変えず待っていなさい」と大母様(洪順愛)に言い残し、大母様が一生、「この人のために心変わりはしない」と決意させた男性

実は、これは洪順愛大母様が証では「夢の中で出会った」としている男性です。一人目の男性から、説明をしなかったのは、多分この話だけ聞いても、基礎知識がないと文教祖とのつながりが見えないと思ったので、あえて二人目の韓承運氏の説明を文教祖の話とからめてしていたのです。

今までの説明を読まれた方は、これから洪順愛大母様の「夢で見た」という話を聞いても、あのことなのかと「ピン」と来る方もいることでしょう。そして、なぜ文教祖が洪順愛大母様が統一教会に入教してきたときに、他の女性信者とは異なり、洪順愛大母様だけに冷たい態度を取ったのかも分かるはずです。(しかしこれもあくまで私の推測ですが)

では、夢の中の男性(思われる)と洪順愛大母様の初めての出会いであろう内容はこのようになっています。

出会った時期は終戦前(解放前)ではなく、終戦後(解放後)になっていますが、いままで説明したことを加味しながら読んでみてください。

『多くの食口たちは、お父様とお母様がどのようにしてお会いしたか気になるでしょうね? (「はい」)お母様も、偶然にお父様とお会いになったのではありません。天がお母様を送られるまでは、母の実家三代が精誠の限りを尽くした土台の上に来られたのです。それに、一人娘でなければなりません。そして、三代の新しい集団を経て出てこなければなりません。金聖道集団、許孝彬集団、統一教会まで三代です。そのような精誠と条件と摂理がなくては、再臨主に会って配偶者となることはできません。
私が真のお母様にお仕えして三八度線を越えてくるとき、見知らぬ霊通人が私に関する話をしたのを聞きました。以北では、共産党が占領していたので白い服を着る人は一人もいないのに、見慣れぬ白い服の二十歳あまりの青年が私に、「おばさんは、天から娘一人を生むためにこの世に来たのですが、今、夫婦生活をしていますか? 独身で過ごしていますか?」と質問するのです。それは何の話かというと、「今、修道生活をしているのか、家庭生活をしているのか?」と聞いてきたのです。それで私は、「イエス様を信じている」と言うと、「それは良かった」と言うのです。「なぜ良いのですか?」と聞いてみました。すると、「おばさんは、世の中で夫婦生活をしても素敵にうまくできたのですが、この地上で夫婦生活をし、幸福を享受しながら暮らせば、天に対して逆賊になる」と言うのです。そして、「修道の道は、寂しい道であり、孤独な道であり、苦難の道であるが、三、四年以内に修道の道でとても大きな成功をする」と言うのです。
 私は韓氏に会ってから、二十九歳(数え年)でお母様を生みました。平安南道の安州でお母様が誕生されましたが、私はその韓氏と一緒に住まずに実家にいたのです。南下してから七年後に、統一教会に入ってお父様にお目にかかってみると、再臨主がどのような顔と姿であられるかは、以北で二回も天から教えていただいたので、すぐに分かりました。それで私は、お母様にも証しをしたのです。
 娘が真のお母様となるであろうということは、すべての役事を通じて教えてくださったのですが、確信は持てませんでした。真のお父様を登場させるまで、どれほど多くの天の苦労と、多くの摂理と役事があったのかを、娘が真のお母様となることによって多く知ることができました。』

(「侍義と精誠の生涯」洪順愛大母様の証 1975年8月10日米国・ベルベディア)

証の中に「見慣れぬ白い服の二十歳あまりの青年」と出てきますが、1942年であれば文教祖は22歳です。

夢の男性との恋愛関係と別れについては

『来られる再臨主は、許孝彬氏には霊的に現れて見えるのですが、精誠を尽くしている私たち食口には見えないのです。「どうして見えないのですか?」と聞いてみると、「そのときは一人の人間を通して教え、摂理しなければならないからだ」と言うのです。それを聞いて私は、どれほど許孝彬氏をうらやましく思ったかしれません。天のお父様に、「再び来られる再臨主を、夢の中ででも一度見せてください」と祈りました。するとその夜、神様は私の祈りを聞いてくださったのです。
 夢の中で、韓国式の新しく建てた南向きの小さな藁屋が一軒現れました。私が、「あら、新しく立った小さな藁屋があるわ」と言いながら入ろうとすると、戸の外で門番が入らせないようにするのです。その人は、私を生んだ実家の母でした。それで母親に、「ここには、どなたがいらっしゃるのですか?」と尋ねると、「この部屋は、絶対にだれも入れない部屋だ」と言うのです。そのように言われたにもかかわらず、命を懸けて戸を開けて静かに入りました。
 入ると南側に机をおいて、頭を縛った壮健なかたが座って勉強をしておられました。それで私は、おとなしく頭を下げて座っていると、そのかたが振り向かれ、「私が六千年間おまえ一人を捜すため、このように勉強しているのだ」と言われたのです。その恩賜にあまりにも感激して、泣き続けました。
 それで私は、心から自信を持ったのです。「私は再臨主の顔をはっきりと見たので、これから再臨主が現れれば、そのかたを見誤ることなく侍ることができる」

 それから三週間後に、また夢を見ました。そのかたが私に現れて、次のように言われたのです。「おまえが一番愛し大切にする敷き布団と、うすい灰色の洋服一着、新しいリュックサック、新しいハンカチを用意しておくれ」
 それで、夢の中で私は急いで家に走ってきて戻ると、だれが用意しておいたのか、きれいな敷き布団と、うすい灰色の洋服、新しいリュックサック、新しいハンカチが全部用意されていたのを見ました。
 それで全部準備していると、「全部準備したか?」と聞かれるのです。「はい、すべて準備しました。これをお持ちになってどこへいらっしゃいますか?」とお尋ねすると、「北の方にもっと勉強をするために行く」と言われました。
 ですから、勉強されるというのは、全世界に知らせるための原理を研究されることを意味するのではないかと思います。』

(「侍義と精誠の生涯」洪順愛大母様の証 1975年8月10日米国・ベルベディア)


別の証集では洪順愛大母様はこの青年と別れるとき、あまりの辛さに号泣したとあります。

『そのように精誠を尽くしていくと、あるとき許孝彬氏が本当にうらやましく思えました。昼夜再臨主に侍っているのですから、どれほどよいでしょうか。それで私も夢の中でもいいから再臨主に一度お会いできたら死んでも恨みはないという思いがしました。すると、夢でお告げを受けたのです。
 きれいなわらぶきの小さな家が夢に現れました。私は上下白い服を着て、台所で食事の準備をしていました。仕事をすべて終え、水でぬれた手を前掛けでふきながら台所から出てくると、母が「この部屋はだれも入れない部屋です」と言いました。その言葉に返事もせず、戸をていねいにそっと開け、入って座りました。新妻のようにおとなしく座っていると、壮健なかたが東側で机を一つ置いて鉢巻をして勉強しておられたのです。さっと振り向きながら、「私はあなた一人を探そうとして、このように勉強しているのだ」と言われました。その言葉がどれほど感謝でおそれ多かったでしょうか。涙が自然に流れ、何とも表現することができませんでした。そしてそのかたの手をつかんで静かに泣いているところで、目が覚めました。
 目を覚まして、「これは本当に不思議だ。あのかたはもしかしたら再臨主かもしれない」と思いました。今ならどんなことをしても捜そうとしたでしょうが、その当時は許孝彬氏が「このかたが再臨主である」と言われる以外には、自分から捜そうとは思いませんでした。
(中略)
その後、一か月くらいたったとき、夢でまた主にお会いました。私はそのとき夢のお告げをとてもはっきりと見ることができたのです。一か月前に見たかたが私に近づきながら、「やあ、順愛や、私は北に行ってもっと勉強しなければならないので、あなたが一番大切にしている掛け布団と敷き布団と洋服一着をリュックサックに入れてくれないか」と言われました。そこで「はい」と答えて家に帰ると、すでにだれが準備したのか、掛け布団と敷き布団がきちんと準備されていたのです。洋服も淡い色でしたが、生地がよいもので作られていました。私は本当に感謝し、すごいことだなと思いながら、精誠を込めてリュックサックに入れてさしあげました。すると、そのかたはそれを担いで「私は三年後にまた帰ってくるから、あなたは三年間心を変えず待っていなさい」と言われ、北の方に向かって口笛を吹きながら一人寂しく行かれるのでした。その後ろ姿を眺めながら、私はとめどもなく涙を流しました。お一人で勉強しに行かれるその姿が、これほど寂しく見えたことはありませんでした。また何のとりえもない私を見て「三年間心変わりしないでいなさい」と言われました(私はもちろん心変わりはしませんでしたが)。おそれ多いことを言って行かれると思って泣いているところで夢から覚めたのです。』

(「夢に描いた主にお会いして」洪順愛大母様の証(1997年ファミリー掲載・1973年に証した内容と思われる))

そして、この夢の男性は文教祖そっくりで、統一教会に入教したときも「北韓にいるときに二度夢のお告げでお会いした正にそのかただったのです」とか「北で夢に見たそのかたに間違いないのに」などという内容が出てきます。

そして、文教祖は入教したての洪順愛大母様を知っているのか、冷たい態度を取るのです。

「真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(9)」へ続く

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