真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(2) | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

「真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(1)」のつづきです。

■「母子協助」の次は「父女協助」

『自分の親戚を中心として、従兄弟、また従兄弟を中心としてしなければならないのに、他の地に行ってしようとしたので、不信されて、追い込まれながら死んだのです。兄弟達同士でやったならば、打ち殺されることはなかったでしょう。そうではありませんか。何故イエスは死ななければならなかったのでしょうか。マリアとヨセフが過ったからです。ヨセフが夜も昼も、「これは誰の息子なのか」、と言いながらマリアと喧嘩をしたために、その噂は広がったことでしょう。イエスが私生児として追い込まれた動機は、ヨセフとマリアが過ちを犯したためです。ヨセフが秘密を守って、村でも「この子は私の息子だ」と言って、目をつぶって暮らしていたならば、イエスは村の中でもお兄さんとして、弟として愛されたことでしょう。けれども、そうすることができなかったために、私生児として追い込まれるようになったのです。氏族の中でもイエスを受け入れることができない立場に立ったために、悲惨な運命の道に立って、外地に出て定着して、外から再蕩減をして、氏族を復帰し、民族を復帰しなければならなかったことが、イエスが十字架で亡くなった動機となったのです。他の人の血を受けて生まれた私生児と、誰が一つになろうとするでしょうか。万が一、ヨセフとマリアが良くしたならば身内、親戚と姻戚の八寸までも、七〇人門徒、一二〇人門徒を立てることができたでしょう。そのようになれば、一族はすべて神側に立てられたために、イエスは何もしないで静かにいて家庭をなして子供さえ生めばいいのです。母子協助をしたので、父女協助をすることのできる基盤さえできれば、御旨は自然になされるのです。
(我が家庭のいく道(後編)1971年8月28日清平修練所)

文先生は「もしヨセフがイエスの出生の秘密を口外せず、イエスとマリアが「母子協助」できるように協力し、次はイエスとマリアから生まれた子供(娘)との「父女協助」ができさえすれば、イエスは子供さえ生んでいれば、親族8親等、70人門徒、120門徒を作るのは簡単だった」と言っています。

さらに「兄弟達同士でやったならば、打ち殺されることはなかったでしょう。」というのは「母子協助の関係でイエスとマリアとの間にできた子供(娘)だったとしても、ヨセフの娘として育てイエスと結婚(「父女協助」)させ、生まれた子供(息子)は純粋な神の血統としてサタンに完全に讒訴されることのない血統として誕生すれば、メシアの使命は果たされ、神の御旨は自然になされる」と言っています。

文先生は「サタンから始まった近親相姦」は悪だけれども、「神から始まった近親相姦」は貴いと言っています。「近親絶対理想的相対関係」はいいけれども「近親相姦関係」はあってはいけないのです。(「七・八節」の御言1997年8月9日水沢里修練所)善(神側)の近親相姦はOKと言われる文先生ですから、もし「父娘婚」だったとしても文先生なりの「原理的な意味」があるのでしょう。

このみ言葉から考えると真の家庭もこの
「(公式)「母子協助」→「父女協助」」を辿るはずです。
そしてイエスの失敗を繰り返さないために、信者や近親(家族)達は、サタンにこの関係を奪われまいと、「絶対的に秘密」にするはずだと考えられます。




■韓鶴子の出生の秘密
文先生が言っている神から始まった近親婚(父娘婚)「近親絶対理想的相対関係」の関係であるかどうかの考察です。

7.文教祖の経歴詐称する必要はあったのか?

※○印が正しい経歴、×印が虚偽の経歴

○ ~1934年3月 地元定州の書堂で学ぶ
○ 1934年4月1日 定州の私立五山普通学校3学年に編入(1年間修学)
○ 1935年4月?日 定州公立尋常小学校4学年(現在の中学校)に転入
△ 1935年4月17日 定州の猫頭山でイエスから啓示と教示
○ 1936年4月?日 京城商工実務学校電気科入学(現・中央大学)
× 1938年3月25日 定州公立普通学校卒業
× 1938年4月12日 京城商工実務学校電気科入学

○ 1939年3月?日 京城商工実務学校電気科卒業(現・中央大学)
 (※昭和15年 第三期卒業生)
○ 1939年3月~1941年 経歴・所在不明
× 1941年3月8日 京城商工実務学校電気科卒業
 1941年3月31日 急行「ひかり」で釜山へ
 1941年4月1日 「昌慶丸」に乗って日本留学

教会公式発表による文教祖の経歴と実際の経歴はあまりにも年度が異なっています。

◇定州公立普通学校(現在の中学校)
(正式経歴)1935年4月編入・1936年3月卒業
(教会発表)1935年4月編入・1938年3月卒業
※2年卒業を遅らして発表
※教会発表:1938年3月25日第29回卒業生


◇私立京城商工実務学校電気科(現・中央大学)
(正式経歴)1936年4月入学・1939年3月卒業
(教会発表)1938年4月入学・1941年3月卒業
※入学年度も、卒業年度も全く合っていない

◇経歴の空白期間が存在
1939年3月~1941年4月1日「昌慶丸」に乗るまでの2年間の所在が全く不明

◎私の推測ですが、このとき「聖主教」の金聖道ハルモニと「新イエス教会」の李浩彬氏を通して、洪順愛女史と会っていたのではと思われます。なぜ信者にも言えない「空白の期間」が存在するのでしょうか?本当に密会していたのでしょうか?
2年もあれば、充分に「血統復帰儀式」によって女性を身ごもらせることができると考えられます。



8.定州公立普通学校卒業式の日付のうそ

1938年3月25日 定州公立普通学校卒業
※この時期は京城(ソウル)で寮生活

実際は1936年4月から京城商工実務学校電気科入学で京城(ソウル)で寮生活をしています。文教祖は定州公立普通学校は1935年~1938年まで在籍したと言っていますが、全くの虚偽の経歴です。実際の経歴は京城商工実務学校を1936年~1939年3月まで在学していて、れっきとした京城商工実務学校第三期卒業生です。

1938年までを故郷定州で過ごしイエスから使命を真剣に模索していた時期のはずなのですが、なぜか実際は京城(ソウル)にいます。

そして反日思想犯として目をつけられる契機となった定州公立普通学校卒業式の日付が全く合わないのです。1938年3月25日はソウルにいましたし、在学1年間しかいなかった学校で文教祖が本当に卒業しているのかという疑問も沸きます。卒業式の日付は完全に「アウト」です。卒業式に「反日的な演説」をしたといわれる時の年齢は教会発表では満18歳ですがこれはウソですので、もし定州公立普通学校で卒業したとしても満16歳です。満16歳で「反日的な演説」をしたのでしょうか?



9.日本留学のビザが出ないと警察署長に直談判した時期

『私は小学校を卒業する時、式場で大雄弁をしました。警察署長、郡守たちを前にして、「日本人はふろしきをまとめて出ていけ」と言いながら、激しく攻撃しました。小学生の時からそうしたのです。そのために捕らわれていき、警察署長に談判した人なのです。「これこれこのようなことが正しくないのに、そのような場合に黙っていられますか」というように。その時からレッテルを貼られたのです。そのようにして、私が日本に行くために校長先生の推薦を受け、渡航証を出して手続きしなければならないために警察署長に会いに行くと、「あっ、これは要注意人物だ」と言うのです。それで争ったことがありました。署長と激しく言い争ったのです。そうでなければならないのです。そのような何かがなければなりません。』
( 真の御父母様の生涯路程より )

1938年の定州公立普通学校卒業はウソでしたが、ではこの卒業式の後に「私が日本に行くために校長先生の推薦を受け」と言っている内容もウソになるのでしょうか?

1939年3月に京城(ソウル)の学校をして、その後、地元定州の母校の校長先生を頼って「日本留学のための推薦状」を依頼しに故郷定州に帰ったというなら「空白の1939年3月~1941年3月31日」は故郷定州で過ごしていたのでしょうか?そのとき地元定州の警察署長にもお願いしたということでしょうか?

ウソの経歴では1941年3月に京城(ソウル)の学校を卒業したことになっていますが、日本出発まで数日しかないのに、それから故郷定州に戻って簡単に「留学ビザ」が出たのはオカシイなと思っていたのですが、「空白の1939年3月~1941年3月31日」の2年間に地元定州で「日本留学の準備」をしていたというのなら納得がいきます。その当時は今のようにパソコンもネットもない時代ですから、書類一つ発行・審査するのにかなりの時間を要したと考えられます。

あるいは、京城(ソウル)に残って「日本留学の準備」をしたかです。



10.文教祖の乗った汽車と連絡線の発車時刻の相違

◇京釜本線列車「ひかり号」ソウル駅より乗車
  1941年3月31日午後2時10分発

『それで、韓国を離れる時のその二十代の時の思いを今でも忘れない。ソウルのね、あの時に「ひかり」という一番速い汽車があって、それが、3月31日の2時10分の汽車に乗って釜山まで来るときのその時の先生の心情は、今だに忘れません。(僑胞への御言 1974年5月12日)』
※特急「あかつき」朝鮮半島で唯一の特急列車(走行区間は釜山―京城)
※急行「ひかり」と「のぞみ」がある

「朝鮮総督府鉄道局朝鮮列車時刻表」

   急行 急行  急行 特急 普通  普通 普通 急行 急行 普通 
定州 0525 0635 0717 ---- 1150 ---- 0806 0750 0838 0204
平壌 0731 0847 0929 ---- 0309 ---- 1157 0955 1042 0437
京城 0055 0145 0223 0350 1020 1045 0815 0235 0320 1100
釜山 ---- ---- ---- ---- 0911 0948 0814 ---- ---- 0810
桟橋 0932 1015 1035 1105 ---- ---- ---- 1035 1120 ----

 (十五年十月十日改正版より)

文教祖が「一番速い汽車に乗った」と言っていますが、実際は一番速い特急ではなく急行「ひかり」のようです。ソウルから乗ったとすると「2:23」と「2:35」があり夜の10時過ぎに釜山桟橋に到着します。しかし⑦⑧⑨の項目で述べたように「空白の1939年3月~1941年3月31日」の2年の間、故郷定州にいたとすると、定州2:04発の普通列車に乗った可能性もある。



◇関釜連絡船「昌慶丸」
  1941年4月1日午前2時40分発

『この民族のためにどれほど涙を流したかといえば、先生はどの愛国者よりももっと多くの涙を流しました。先生が日本留学に出発した一九四一年四月一日早朝二時に、釜山の埠頭で、韓国を眺めながら祈祷したことが忘れられません。(中略)早朝二時四十分に出発しましたが、その時の心情を、私は忘れることができません。』
(真の御父母様の生涯路程(1)P. 188~189より)

「釜山・下関間の連絡船の時刻表」
 1130釜山発 0715釜山着
 1145釜山発 0730下関着(1日2本のみ)
 (十五年十月十日改正版より)

連絡船はいずれも午前中(昼)に出発するのですが、なぜ文教祖は明るくなる昼を待たずして乗船したのでしょう。文教祖が真夜中乗った連絡船は一体何の船だったのでしょう。もしかして密航船だったのでしょうか?それとも別の港から乗船したのでしょうか?

「真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(3)」に続く