京城商工実務学校時代の文教祖 | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

■何故入学時期をずらして公表しているのか?

◇私立京城商工実務学校電気科(現・中央大学)
(正式経歴)1936年4月入学・1939年3月卒業
(教会発表)1938年4月入学・1941年3月卒業
※入学年度も、卒業年度も全く合っていない

◇経歴の空白期間が存在
1939年3月~1941年4月1日「昌慶丸」に乗るまでの2年間の所在が全く不明


■京城商工実務学校在学中の文教祖を知っている方の証言です。
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◇中央大学校師範大学付属高等学校の公式HP(韓国語)
http://www1.encyber.com/search_w/ctdetail.php?masterno=720219&contentno=720219



「山口浩著 原理運動の素顔」から

「統一協会の歴史と教祖・文鮮明の生い立ち」

 ■5章 教祖・文鮮明の素顔

(131P) 

 この柳スポークスマンから貰った資料の中に『統一教会史 試草=文化部編史課』というザラ紙にタイプしたものがある。
 これによると、一九三八年、彼が十八歳のころ、ソウルに出て来て、中学校(旧制)に入り、黒石洞に下宿し、信仰生活を主とし、日曜学校にも通った、と抽象的な表現で、四一年日本へ発つまでのことが述べられているが、丁度この時代の彼を知っている証人を紹介しよう。
 統一協会側は、何故かひた隠しにしているが、文鮮明は一九三六年から三九年まで、私立京城商工実務学校(現中央大学)に在学していたのだ。これは事実である。ひた隠しにするはずである。丁度この時期に文鮮明は、十六歳、神の啓示を受けたのだから。
 この私立京城商工実務学校は、ソウルの漢江のほとりにあり、土居山洋氏(現九州電気学校校長代理)が設立した日本人経営の学校だった。日本占領時の当時としては珍しく、韓国人にも実務教育を、と、電気、建築、商業などを主体とし、全国から韓国人の子弟を集めた。
 はじめはホンのバラック小舎の校舎だったが、学校の周辺に下宿屋なども出来て、しだいに学校らしくなって来た。
 設立者土居山洋氏がクリスチャンで、その博愛精神から、当時激しかった韓国人蔑視や虐待を排除し、彼らに実務教育をと努力したので、子弟は全国から続々と集まって来た。校舎もそうした先生や生徒たちの手作りで大きくなって行く。

(132P)

この学校に赴任し、日本語と英語を教えた園部治夫氏(現明治学院大学教授)の、文鮮明の印象は次のようなものである。
「当時は文龍明といっていました。日本名を付けなければならなかった時代でしたから、彼は江本といっていました。うちの誰か先生が付けてやったのでしょう。江本龍明は、活達で教室でも人をリードしていくいい生徒でした。勉強も出来たほうです。彼は三九年(昭和十五年)卒の第三期卒業生です」


◇文の隠された秘密-十六歳啓示説はウソだった?!

 ソウルで取材を続けていたある日、この学校の名前をチラッと聞き込んだ。ツテを頼って、ようやくにして江本龍明と同級生だった人に会えた。そして借用して来たのが、卒業記念写真である。坊主頭こそしているが、十八歳の江本龍明は、現在の文鮮明とまったく変わりがない。本人であることは一目瞭然である。
 現在は中央大学になっているが、こうした手作りの学校で教育を受けた卒業生たちは、なんとかして土居先生、園部先生を韓国へ招待したいと奔走した。さらに卒業生たちは、現在の中央大学に対し、自分たち旧京城商工実務学校時代の者たちも、初期の卒業生としてその居住権を認めるよう交渉して、現在の学校長から許可を得た。

(133P)

 やがて、在日の卒業生の努力などによって、土居先生、園部先生の居所も分り、五年程前から二人の先生は韓国へ招待され、卒業生たち数百人が集まり、熱烈な歓迎をした。その中には陸軍の将校もいれば会社の社長もいる。彼らの案内で、土居先生たちは、いまはもうあの手作りの小さな校舎ではなく、立派な大学になっているかつての学校へも訪問し、記念の植樹をした。
 このような熱烈歓迎の中に、当然いるべきはずの江本龍明がいないのだ。そして、五年間に数度の先生たちの渡韓に、その都度の歓迎会にただの一度も彼は出席せず、憤慨した同窓生たちは

(134P)

彼を同窓名簿からオミットしたのである。
 園部氏は昨年、文鮮明の所へ手紙を出した。
"貴君は江本龍明君ではないかネ。最近、君は世の中を騒がしているらしいが止めたまえ、久しぶりに会って話でもしょうではないか"といった意味のものだが、ついに返事は来なかった。
 十六歳で神の啓示を受けた江本龍明は『統一教会史』にもある如く、さぞや京城商工時代に、信仰生活を過ごしていた、と思いきや、土居先生も園部先生も、"それは気がつかなかった"と述べている。
 クリスチャンである両先生は、日曜学校へ通われたが、そこでもついぞ、イガグリ坊主頭の教え子江本龍明に会った記憶がない、という。
 写真提供者の同級生は、さらにハッキリと、文鮮明が信仰者でなかったことを断言している。むしろその同級生は、両先生からキリスト教の影響を受けて、現在の彼になったのではないか、という。神ならず、恩師の啓示によって億万長者になったのだから、人生とは分らないものである。
 一九三九年、京城商工を卒業してから、四一年に日本に渡るまでの間が不明である。
「以来、一九四五年韓国が日本から解放されるまで、真理の探究に全てを献げ、内省的な静かな時を過ごしました。この時、宗教精神や霊的感覚が養されたようです」とはRev.Moonのプロ

(135P)

フィールだが、そんなナマやさしいことをいっていたのでは、血と汗と涙にまみれた苦難の道は進めまい。
 事実、一九四一年から、四四年まで、日本へ行き、抗日活動をやっている。つまり、日本に対して刃向ったわけだ。
 韓国における日本軍の横暴は、目に余るものがあったろうし、若き日の文鮮明が、これに抵抗し、人民のために戦おうとしたことは事実かもしれない。だから、三九年から四一年までの間、彼がソウル周辺で、働きながら抗日運動をやったとして、なんの不思議もないのだ。それでなくては、日本行きが、まったく突然のこととなってしまう。


原理運動の素顔 何をする集団なのか、その不気味さの実態を衝く
$ちゃぬの韓国日記
著者 ルポライター 山口浩
昭和50年8月15日 第1刷発行
エール出版社

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http://www.geocities.jp/bonnppu/page009.html