今年は戦後80年という節目であり、そして先月の参議院議員選挙では参政党が大躍進をした。
そして個人的には自分史の過去に対する悔恨の思いが強く、ハッキリ言えば毎日苦しんでいる。
フラッシュバックで嫌な記憶が唐突に侵入してきて、急に精神状態が変わったりもしてしまう。
複雑性PTSDで虚無感や脱力感に襲われ、何にもできなくなる日もある。
そんな巨視的な日本という単位、微視的な個人という単位、
これらが複合されてしまい最近は『人間の尊厳』ということを考えることになってしまった。
いや、考えるというよりも「尊厳のために生死を味わいたい」という想いがある。
尊厳を味わえるのならば、生きてもいいし死んでもいい。
つまりは、生きるも死ぬも手段でしかない。目的は人間としての生物の尊厳を味わうことである。
自分の気持ちを一発吐き出しておきたい。
何を書いても構わない場だからこそ、言いたいことを吐き出そうというのが本記事である。
自分は物心ついたときから自分の思いや考えを表現するのは禁じられていた。
すべての思想の良し悪しは、父親の価値判断基準に委ねられていた。
父親は正義感あり、道徳的にも厳しい(ように映った)。
それで子どもの恐怖心を煽り、支配してくる人だった。そのためか自分より年上の男性はみんな恐怖の対象となった。
しかし、その評価基準は最悪なことに父親の“機嫌”によるものだった。
だから同じ考えや行動をしても、機嫌による評価なので一貫性がない。俺は混乱した。大人の顔色を伺い生きていく素地が養われてしまった。
小学校での道徳の教科は通信簿では評価は常に『5』であった。
一般社会の大人の望んでいることなんて当然分かっていた。
文章なんてどう書けば大人ウケするかは楽勝だ。
読書感想文のコンクールみたいなやつには、いつも何らかの賞を受けていた。
当時はこれが当たり前だった。当たり前すぎた。
そのまま成長していき、、、後年人生経験を重ねていくうちに、
そんな生き方をしていたら当然ながら“詰む”。
そこには自分の意思なんて反映された言葉ではないので、自分が何をやりたいのかわからない。
それっぽく演じることはできる。それは簡単なのだ。
しかし本心というものを感じてきていないので長続きしない。「そもそも俺は“本心”というものが理解できない」。
そんなことを繰り返しているうちに、結局何をやりたいのかが分からずに、そして
「やりたいこと」という気持ち自体が感じられずに40代半ばの人生の今に至る。
昔の自分から見たら、周りの奴らはほぼ非道徳的な人間である。
「アイツらは罪悪感を持たねばならない」と。
母親はどうだったか。基本的には優しい女性であった。
しかし性=セクシャルなことに関しては、人が変わったように嫌悪感を示した。
自分が中学1年生のときハッキリと記憶していることがある。
それは「恋愛対象として好きな女性とは、絶対にセックスをしたくない」ということ。
これを友人の前に誇らしげに言っていた。
『セックス=極悪』
というイメージが固定化されていた。
エロい行為は地獄行きに等しい。
とはいえ、周りの人たちは違った。
違ったから自分も性に対する価値観を周りの他人と擬態化して、懸命に学生時代を過ごした。
とはいえ、性的なことに対しての嫌悪感は薄れているようで根幹にこびり付いており、
恋愛に支障をきたす。
俺は好きな女性と付き合ったことがない。
両想いであったであろう状況であれ、自分でそれをダメにしてしまう。
親密な関係性になる前に、自分から破綻させる行動をとってしまう。
その衝動が抑えられない。
毎回好きな人に彼氏ができて心底ホッとしたようで、内心悲しんで胸を殺していた。
好きな女性に告白する場面も何回もあったが、
それは好きな人に彼氏がいるという状況を知った上で、告白をしたものだった。
これは本当に辛かった。
バカらしいのかもしれないが、
恋愛のことで胸が掻き毟られるほどの衝動で自殺衝動に苛まれたこともある。
失恋はしていない、
ただ恋愛という状況に自分が経験できる立場ではないという圧倒的な劣等感。
世の中を見渡せば、男女が性行為をして子孫を残し、先祖代々、次世代のため・・・人類の起源・・・
やら壮大な人類史のストーリーができあがるが、それは動物たちがセックスをしてきたからだろう。
人間なんて所詮は動物に過ぎない。
生物的にも精子や卵子や健全なうちに結びついて、子を産み育てるなんてのは自然界では当然の生物の営みである。
それを母親には否定されて育ってしまった。
『生命』を否定されて生きてしまった恨みは大きすぎた。
看護師時代に好きになった女性がいた。
感覚的に「人生で最後の恋愛になるんだろうな」と思った。
いろいろあった。
でも結局、付き合えなかった。
女性側は好意を持っていてくれて、周りの人からもその女性と自分を付き合わせようとしたこともあった。
そのうちその女性には彼氏ができた。彼氏ができた状況に不思議と安心した俺はその女性に告白する。
当然フラれる。その後もずっとその女性を好きだった。
そのまま無職になった。
数年後、その女性は結婚したと知る。
そしてお子さんも産まれる。
その子を車のチャイルドシートに乗せて、運転している姿を見た。
あちらも俺に気づいた反応もあった。しかし俺は気付かないフリをした。
「なんなんだ、このクソみたいな俺の人生はっっ!!!」
その女性の車が過ぎ去った後に、思わずデカい独り言を道端で吐き捨てた。
周りの奴らは当然のように恋愛し、セックスして子孫を残していく。
今40代半ばになり、働いていた頃の身近な人たちは結婚していき、子どもを授かる。
自分にはその資格すら与えられなかった家庭環境を心底恨んでいる。
恋愛がどうのこうのいう年齢なんてとっくに過ぎた。
精子なんて劣化し、惨めなジジイへとなるだけ。
女性なんてもう医学的には35歳以上の出産は『高齢出産』とされ、
流産や障害児の生まれるリスクが高くなる。
そんな両親の教育を受けた自分は
「俺にとってはセックスとは悪の行為で、そんなことをしたら刑務所行きだ。死刑かもしれない。
マスターベーションも悪い行為。エロ本も見るのも本当はダメ。
本当は性行為をしたいけど、したら罪悪感だ」と。
これは一般感覚からしたら歪んだ危険思想になる匂いがプンプンするだろう。
無敵の人と化し、社会的な凶悪大事件を働いてしまう。恨み辛みで無関係な人たちに甚大な危害を与えてしまう。
本気でSNSでヤバい人物として拡散される予備軍だ。これは自覚している。
皮肉なことに、これらのことが心の根底にありながら、
ことごとく歪んだ人生になると冷静に客観的に俯瞰できるようになったのも無職になってから。
そして人生を諦めてから、性的なことへの執着は薄れていく。いや“諦める”という都合のよい言葉を利用して、性に対して苦悩する時間を紛らわせたいだけだ。他人に対しても、いちいち嫉妬心で接したくない。
未練はある。憎んでもいる。本当にたまに自殺もしたくなる。これは一生消えない。
この怨恨が消えるということは、人類を否定することにもつながる気がする。心底、生命自体がアホらしく、ひたすら虚無感でしかない。
だけど・・・・
社会人しているときは、気付きながらも衝動が抑えられなかったりして
そのときそのときを精一杯生きてもがき苦しむしかなかったのである。
そんな自分は毎日を『人間』として生きているフリをする。
生命の根源の尊さなんぞ感じることを禁じられてきた。性を否定することは、生命そのものを否定することになり、命の尊さなんぞ語れる気がしないのだ。
両親は人間としての道徳心や倫理観を植え付け、俺を一人前の大人になるよう教育してきたんだろう。
しかしながら、そんな人生を歩んできた自分が『人間の尊厳』なんて知ったこっちゃないのだ
(続く)