ASDの中年男性の人生の生き方。ときどき投資。

ASDの中年男性の人生の生き方。ときどき投資。

シェアハウスで社会不適合者たちと暮らしています。発達障害(ASD)だから社会に適応できません。どうやら唯一トレードが好きだから、ひたすらトレードしてるかなぁ。

最近は大自然の中で農作業が主です。生きることは難しい。

たまにはトレード日記を書こうかな。


去年に資産100万円からとりあえず1000万円まで資産を増やすゲームをやりはじめました。(去年の利益は8万円でした)


今年途中で追加で100万円を投入して、事実上約200万円から今年はゲームしていました。つい先日まで今年の利益は40万円(20%増)でしたが、それが一気に吹っ飛び±0円になりました。


キッカケは完全に自分の精神状態です。


破滅衝動が起こり「うらあぁぁぁっっ!!!」みたいな勢いで本気で人生がどうでもよくなってしまい、何でもないとこでエントリーやエグジットの繰り返しでハマってしまいました。


通常なら1回あたりのトレードの損失許容額は口座資金の2%までとルールを敷いてますが、そのときは5%くらい損失確定したり、その後も無茶苦茶なエントリーしたり…と気付いたら昨年末と同じ残高水準になっていました。


というわけで、一気に損を出すときは出すので、逆に言えばエントリーチャンスを逃してしまったり、利益確定した後にもさらに相場が伸びてしまったりしても、長いトレード人生の一部すぎるくらい一部ですので、いちいち気にしなくても良いかと思います。


私みたいに精神疾患ありきのトレーダーは不利かもしれません。淡々と地道に丁寧に、毎回トレードして資産が雪ダルマ式に増えていくのがトレードで儲けるということなので、一回一回のトレードのリスク管理は徹底的に!!!



…みたいに、こんな感じでトレードでは一気に資産が激減するってのはあるあるですが、今回の私のような例とか、ロスカット注文を忘れてただとか、クリスマスや年末年始の流動性が著しく低下する時期にトレードしてたらフラッシュクラッシュ(チョッパー)に出会ってしまい強制ロスカに遭い退場したり、、、とか。


いくら稼いでいるかはどうでもよいので、資金の何%が増減しているのかを考えまっしょい😀

私は今までの人生で他人をイジメたことがありません。むしろイジメられる側でした。


そんな人生を歩んできたので、加害者側が「イジメられるほうが悪い」と理屈を述べている姿を見ると、激しい憤りを感じました。




もはやイジメは犯罪だろ!


イジメられた側は引きこもりになったりして、人生棒に振ったりしてんだぞ!一生心の傷は消えないからなっ!なのにアイツらは数年後には忘れて、未来では「あのときは悪かった」みたいに言ってくる奴もいてふざけるな!


教師もクラスにイジメ問題があったら「イジメられても許しなさい」とかバカなこと言うし、そもそも『許す=イジメやりたい放題』という意味になるだろ!!




とか、思ってました。


実際にイジメられた人は、PTSDになったり自死したりしてますから許されるべきじゃない。


…しかし40代半ばにして「あ、こりゃイジメられるほうが悪いわ」と腑に落ちた出来事がありました。


ビックリしましたね、人生ではじめて私の心にイジメ心を発現させてくれた人がいるんです。


「あ〜なるほど…「なんかムカつく」という無茶苦茶な理由でイジメる人がいるけど、それが分かったわ。俺にもそういう心がちゃんと存在してたんだな」と発見もあったので、むしろ一人前の人間になれたようで嬉しかったし、ちゃんと私にも加虐性があることで、生物として存在していていいんだと認識する機会になりました。


もちろん実際にイジメはしませんが、加虐性がザワつくのでその人とは距離を置くようにして接触を断つように生活しています。


同一空間に居たら無視←これが最適解



これって私にとっては凄く重要なことでした。

残虐心の感覚がないことは、人間という生物をやっていて欠落している気がしていたからです。


生物としての生存本能というか、自我の境界線というか、、、そういうものを感じられずに生きてきましたからね。昔は『失感情症(ざっくりと言えば「自分の感情を認識できない」)』と言われたこともあったし。


なんか人間として成長した気がするぞ!

(あと自尊心も育っている実感もあるためかと自己分析している)

今日、村をバイクで走っていたら対向車線で車を停めて歩道に横たわっているお婆さんがいました。

 

一瞬「あれ?車に轢かれてるのかな?」と思いましたが、

 

車内に誰もいない様子だったので、そのお婆さんが自主的に横たわっているものだと思いました。

 

最初は人道的な心など無視して素通りしましたが、

 

「そういえば対向車線ですれ違った車がいなかったな・・・・」ということで

 

孤立させてしまうかもしれない心配が芽生えてしまったので

 

300mほど過ぎ去った後にお婆さんのところへ引き返しました。

 

ま、これでも元看護師ですからこういうのは慣れてるっちゃ慣れてますし、

 

医療施設でもない場所でやれることなんてたかが知れてますし、

 

もし心肺停止になっていて胸骨圧迫(心臓マッサージ)して死んでしまっても

 

別に私が法的に裁かれることはないので救護に当たっても全く何の問題もない。

 

ただ軽度の熱中症とかで脱水状態だったらOS‐1とかポカリスエットを飲ませたいから

 

何も飲み物持ってないよな、そのときにはどうしようか・・・という心配はありました。

 

婆さんに近づいてみると、運転中に悪心あり、吐瀉物少量あり、意識清明の意思疎通可、

 

問診や触診や視診してもバイタルサインはそんな異常ってことでもなさそうだと分かり、

 

まぁ救急車呼ぶほどでもなかろう。

 

既往歴や現病歴はよう知らんけど、もともと低血圧だと仰ってたこともあり、

 

まぁ高齢ですしもともと脱水状態になりやすいし・・・気を付けなはれ。

 

婆さんの要望で車内からスマホを取り出して渡し、家族に連絡を取り迎えにきていただくことに。

 

う~ん、どうやらご家族が到着するまで30分ぐらいかかりそうだ・・・

 

その間離れるワケにもいかんしなぁ・・・

 

通りすがりの村人さんたちが心配して声を掛けてくださって、

 

でもとりあえずやることやったし、これ以上手助けしてもらうことも何もないから

 

「私看護師なんで大丈夫です(`・ω・´)」とかって少しだけ嘘ついて、帰ってもらった。

 

あ、「水恵んでくれませんか?」とだけ言えば良かったなぁ・・・

 

思ったより早く家族がきてくださって難なく連行されていきましたとさ。

 

めでたしめでたし。

 

事実上、私が役に立ったのはスマホを婆さんに渡したくらいでした。

 

 

 

・・・で、ここからが本記事での書きたいことなんですが、

 

「こんなことができたところで、もう看護師としてはやっていける気がしないんだよな。

 

その適正もないし。」と言うことです。

 

これは卑下しているわけでもなく、事実そうなんです。

 

ASDという障害は他人とのコミュニケーションが困難ですし、

 

チーム医療という現場にいたら私なんてやるべき内容は熟知していても、

 

瞬時に役割分担を察して動くなんて無理ですね。

 

(現場リーダーが明確に指示してくれるならまだしも・・・)

 

まぁ、ぶっちゃけ医療現場にいたら薬剤や器械やらの道具の把握からしますが、

 

そこで機敏に状況を察知して瞬発的に行動するなんて、集団にいたら絶対に無理。

 

逆に一人でいたら、もしくは自分がリーダー権を握り現場を捌けるんだったら話は別ですけどね。

 

ASD人は鈍臭いと思われがちですが、逆に複数人でやる仕事も自分一人ならば、

 

自分の裁量範囲でやれてしまうと思っているASD人はいるんじゃないでしょうか?

 

ここらへんはあまりASD界隈で語られないけれど、感覚的に分かっている同胞はいるかと思います。

 

まず他人と調和しないところでハードルが高い。

 

だから知識とか技術とか、そういう問題じゃない。

 

環境の問題。←環境に適応するまで時間かかるけど。

 

 

 

 

「あぁ・・・看護師免許の持ち腐れだな、まともに“働く”こともできない人間なのにな」

 

そういうことを思いながら、婆さんを見届けた後にバイクを走らせました。

 

と同時に、看護師時代に患者さんから「ありがとうね」と言われたことを思い出しました。

前回記事の続きです

 

 

 

↑の記事で綴った両親のもとで生きてきた自分です。

 

 

 

ヘンリー・デイヴィット・ソローという19世紀に生きたアメリカ人が言っていました。

 

「あまり道徳的になるな。自分を欺いて人生の多くを失うことになるぞ」

 

この言葉はとても痛切に感じます。

 

 

 

40歳になる直前まで社会人をしていた頃、私は他人の悪口を決して言わない人でした。

 

職場の人からは「人の悪口とか言わないよね」と評価されてもいました。

 

しかしそれは、発言しないというだけで、心では不満を言っています。

 

無職になって人と関わらなくなってから、非人道的なことをバンバン言うようになりました。

 

シェアハウスの親しい人と会話するとき、思いっきり共通の嫌いな奴の悪口を言い合えます。

 

これが非常に気持ちいいいっっ!!!

 

「魂の霊格が下がろうが知ったこっちゃねぇ!

 

というか、こっちのほうが自分の感情を素直に認められて、

 

頭も冷静になれて次回以降の建設的な対応ができる。

 

自分の中でモヤモヤやイラつきもなくなって、吐き出したほうが良くね?」

 

著名人の不祥事とか、どんどん報じられたら「ザマァッ!!」と言える喜び。

 

「コイツらを許すな!もっと報道陣は追い詰めろっ!!」とか思っちゃうし、それが自分にとって健全な表現かと思う。

 

ってか、そういう奴らが得して調子こいて生きていて、蹴落とされた屍の中には沢山の犠牲者たちの阿鼻叫喚があるわけだし、コイツも報いを受けて然るべきだし。

 

という、平気で下衆なことを言わしめる心の自由。

 

これだけはホントに嬉しい。

 

40歳になるまで、こんな感情は自分の中に閉じ込めて生きてきた。

 

 

 

・・・と、かなりライトな表現のつもりで書きましたが、

 

こんな風に人間の喜怒哀楽のドロドロの感情をキチンと持っていて認めることは自分にとって大切なこと。

 

生命の尊さなんて根幹は味わえない人生ならば、せめて悪あがきしてやる。

 

聖人君主のような仏陀やキリストの精神なんてクソくらえ。

 

境遇は変えられない。若い頃は戻ってこない。

 

だったらせめて自分の中で復讐しなくちゃ。

 

ときどき精神疾患に悩まされて気が狂いながらも、それをやらなきゃな。

 

とりあえず、自分が生きている目的は一族の滅亡の後処理のため。

 

我が家系を断絶させ、その処理をしてケジメをつけなくちゃ。

 

これは兄貴と決めた約束事である。

 

両親も後期高齢者になっている。そろそろ死のことを考えているだろう。

 

それをキチンと片付けてから俺は死にたい。

 

それまでは死にたくなることもあるけど、これを成してから俺が死ぬのが我が先祖に対する礼儀である。

 

 

 

機能不全家族は連鎖する。

 

自分は恋愛もしたかったし、結婚もしたかった。子どもも欲しかった。

 

しかし合理的に考えたら、結婚しなくて正解だとも思っている。

 

俺が親になったら、無意識にも毒親になっていたと思う。

 

ASDという発達障害も遺伝していただろうし。

 

ぶっちゃけ機能不全家族で育った人は、子を作るべきではないと思っている。

 

こんな苦難過ぎる人生を子どもに歩ませることはハードすぎる。

 

人類のためにも、機能不全家族は滅んでもいいかと思っている。

 

ただ、自分が直接手を下したら犯罪になるので、自然発生的な消滅を願うのみ。

 

これが根底にあるので、俺には優生思想の気はある。

 

だから・・・正直、相模原障害者施設殺傷事件「やまゆり園」の

 

植松聖死刑囚の気持ちも少なからず共感できてしまうのだ。

 

おそらく植松聖の気持ちを酌める人は、日本に一定数はいると思う。

 

でも俺も含めそこまでの犯罪行為はとても実行できないが、気持ちは理解できたりもする。

 

テレビのコメンテイターなんて、絶対に植松聖に寄り添う心情をコメントするわけがなかろう。

 

みんな“社会的”にどう振舞って生きていけば無難であり、いかに自分が“まとも”であるように魅せるかは心得ている。

 

 

 

昔の俺は、他人が困っていたら一番に駆け寄って助けてあげたり、社会奉仕活動もしていた。進んで他人にバスや電車の席を譲ってあげていたし、、、

要は善行をしていた。


幼稚園の保母さん、小中学生の教師からは「優しい。誠実で真面目である。」との評価。

 

だけど、それはすべて自分の気持ちは二の次とした犠牲精神でやってきたこと。「こうあるべき」という倫理観の牢獄に閉じ込められた強制された行為である。

 

皮肉なことに結局は破綻した今を過ごしている。


「結局は汚いことをマスコミは報じないし、綺麗事を報じる」という簡単に洗脳もされてもいた。

 

一人の障害者としても冷遇を受けてきたし、社会なんてキレイごとばっかりで辟易している。

 

だったら堂々と「障害者は社会に出るな!!オマエら要らねーよ!!」と

 

差別してくる人に対しては逆に好感が持てる。

 

ここで“社会的”に振舞う自分がいるようなものなら、

 

「差別は良くない!!」とか言って人権がどうのこうのと叫ぶ材料に使うんだろうけど、

 

「実際、この社会で障害者って必要か?要らなくね笑」と本気で思っている自分もいるから、何も言えない。


(スピリチュアルの世界では人類の意識向上のため、スターシードは障害を選んで生まれてくる…だの言うけど、障害に振り回されてギリギリ死ぬ綱渡りの人生の連続でキレイ事を建前に生きるのもさすがに精神が保てない。バカなこと言うなや。)

 

 

 

フツーに考えて、この資本主義社会では生産性が高い人や能率性の高い人材を欲するのは当然であって、だから適性検査とかスキルテストやら面接して採用するか決めるわけじゃん。

 

わざわざそれに劣る障害者なんて欲するワケないやんけ(笑)

 

しかも離職率も高いような人材ばっかだしさ


至極社会が当たり前の反応をしているだけだよなと思う。

 

それでも企業側が障害者を採用するのは国からの助成金とかもらって、

 

それで収支がプラスになる見込みがあるから採用するとか考えているからでしょうよ。

 

厚生労働省だって、障碍者雇用率をわざわざ水増しして公表してたってことは、

 

民間企業は「障害者はイラね」ってことだし。


障害者でそこを差別だとか、むやみやたらに叫ぶ奴らってそもそも資本主義ってことを理解してんのかな?とすら思う。一人の障害者としての俺ですら思うんだからさ。

 

 

 

障害者は社会から求められていない。


世間はもっと堂々と「障害者は不要だ!!」と主張したまえ。

 

24時間テレビみたいな『感動ポルノ』ものは反吐が出るのだ。

 

もっとドロドロした汚い世界観で生きたい。

 

いや、人間ってそういう生き物であり、

 

そんな世界でないと生きる価値を自分の中に感じられないのである。

 

(終)

今年は戦後80年という節目であり、そして先月の参議院議員選挙では参政党が大躍進をした。

 

そして個人的には自分史の過去に対する悔恨の思いが強く、ハッキリ言えば毎日苦しんでいる。

 

フラッシュバックで嫌な記憶が唐突に侵入してきて、急に精神状態が変わったりもしてしまう。

 

複雑性PTSDで虚無感や脱力感に襲われ、何にもできなくなる日もある。

 

そんな巨視的な日本という単位、微視的な個人という単位、

 

これらが複合されてしまい最近は『人間の尊厳』ということを考えることになってしまった。

 

いや、考えるというよりも「尊厳のために生死を味わいたい」という想いがある。

 

尊厳を味わえるのならば、生きてもいいし死んでもいい。

 

つまりは、生きるも死ぬも手段でしかない。目的は人間としての生物の尊厳を味わうことである。

 

自分の気持ちを一発吐き出しておきたい。

 

何を書いても構わない場だからこそ、言いたいことを吐き出そうというのが本記事である。

 

 

 

 

自分は物心ついたときから自分の思いや考えを表現するのは禁じられていた。

 

すべての思想の良し悪しは、父親の価値判断基準に委ねられていた。

 

父親は正義感あり、道徳的にも厳しい(ように映った)。


それで子どもの恐怖心を煽り、支配してくる人だった。そのためか自分より年上の男性はみんな恐怖の対象となった。


しかし、その評価基準は最悪なことに父親の“機嫌”によるものだった。


だから同じ考えや行動をしても、機嫌による評価なので一貫性がない。俺は混乱した。大人の顔色を伺い生きていく素地が養われてしまった。

 

小学校での道徳の教科は通信簿では評価は常に『5』であった。

 

一般社会の大人の望んでいることなんて当然分かっていた。

 

文章なんてどう書けば大人ウケするかは楽勝だ。

 

読書感想文のコンクールみたいなやつには、いつも何らかの賞を受けていた。

 

当時はこれが当たり前だった。当たり前すぎた。

 

そのまま成長していき、、、後年人生経験を重ねていくうちに、

 

そんな生き方をしていたら当然ながら“詰む”。

 

そこには自分の意思なんて反映された言葉ではないので、自分が何をやりたいのかわからない。

 

それっぽく演じることはできる。それは簡単なのだ。

 

しかし本心というものを感じてきていないので長続きしない。「そもそも俺は“本心”というものが理解できない」。

 

そんなことを繰り返しているうちに、結局何をやりたいのかが分からずに、そして

 

「やりたいこと」という気持ち自体が感じられずに40代半ばの人生の今に至る。

 

昔の自分から見たら、周りの奴らはほぼ非道徳的な人間である。

 

「アイツらは罪悪感を持たねばならない」と。

 



母親はどうだったか。基本的には優しい女性であった。

 

しかし性=セクシャルなことに関しては、人が変わったように嫌悪感を示した。

 

自分が中学1年生のときハッキリと記憶していることがある。

 

それは「恋愛対象として好きな女性とは、絶対にセックスをしたくない」ということ。


これを友人の前に誇らしげに言っていた。

 

『セックス=極悪』

 

というイメージが固定化されていた。


エロい行為は地獄行きに等しい。

 

とはいえ、周りの人たちは違った。

 

違ったから自分も性に対する価値観を周りの他人と擬態化して、懸命に学生時代を過ごした。

 

とはいえ、性的なことに対しての嫌悪感は薄れているようで根幹にこびり付いており、

 

恋愛に支障をきたす。

 

俺は好きな女性と付き合ったことがない。

 

両想いであったであろう状況であれ、自分でそれをダメにしてしまう。

 

親密な関係性になる前に、自分から破綻させる行動をとってしまう。

 

その衝動が抑えられない。

 

毎回好きな人に彼氏ができて心底ホッとしたようで、内心悲しんで胸を殺していた。

 

好きな女性に告白する場面も何回もあったが、

 

それは好きな人に彼氏がいるという状況を知った上で、告白をしたものだった。

 

これは本当に辛かった。

 

バカらしいのかもしれないが、

 

恋愛のことで胸が掻き毟られるほどの衝動で自殺衝動に苛まれたこともある。

 

失恋はしていない、

 

ただ恋愛という状況に自分が経験できる立場ではないという圧倒的な劣等感。

 

世の中を見渡せば、男女が性行為をして子孫を残し、先祖代々、次世代のため・・・人類の起源・・・

 

やら壮大な人類史のストーリーができあがるが、それは動物たちがセックスをしてきたからだろう。

 

人間なんて所詮は動物に過ぎない。

 

生物的にも精子や卵子や健全なうちに結びついて、子を産み育てるなんてのは自然界では当然の生物の営みである。

 

それを母親には否定されて育ってしまった。

 

『生命』を否定されて生きてしまった恨みは大きすぎた。

 

 

看護師時代に好きになった女性がいた。

感覚的に「人生で最後の恋愛になるんだろうな」と思った。


いろいろあった。

 

でも結局、付き合えなかった。

 

女性側は好意を持っていてくれて、周りの人からもその女性と自分を付き合わせようとしたこともあった。

 

そのうちその女性には彼氏ができた。彼氏ができた状況に不思議と安心した俺はその女性に告白する。

 

当然フラれる。その後もずっとその女性を好きだった。

 

そのまま無職になった。

 

数年後、その女性は結婚したと知る。

 

そしてお子さんも産まれる。

 

その子を車のチャイルドシートに乗せて、運転している姿を見た。

 

あちらも俺に気づいた反応もあった。しかし俺は気付かないフリをした。

 

「なんなんだ、このクソみたいな俺の人生はっっ!!!」

 

その女性の車が過ぎ去った後に、思わずデカい独り言を道端で吐き捨てた。

 

 

 

周りの奴らは当然のように恋愛し、セックスして子孫を残していく。

 

今40代半ばになり、働いていた頃の身近な人たちは結婚していき、子どもを授かる。

 

自分にはその資格すら与えられなかった家庭環境を心底恨んでいる。

 

恋愛がどうのこうのいう年齢なんてとっくに過ぎた。

 

精子なんて劣化し、惨めなジジイへとなるだけ。

 

女性なんてもう医学的には35歳以上の出産は『高齢出産』とされ、

 

流産や障害児の生まれるリスクが高くなる。

 

 

 

そんな両親の教育を受けた自分は

 

「俺にとってはセックスとは悪の行為で、そんなことをしたら刑務所行きだ。死刑かもしれない。

 

 マスターベーションも悪い行為。エロ本も見るのも本当はダメ。

 

 本当は性行為をしたいけど、したら罪悪感だ」と。

 

これは一般感覚からしたら歪んだ危険思想になる匂いがプンプンするだろう。

 

無敵の人と化し、社会的な凶悪大事件を働いてしまう。恨み辛みで無関係な人たちに甚大な危害を与えてしまう。

 

本気でSNSでヤバい人物として拡散される予備軍だ。これは自覚している。

 

 

 

皮肉なことに、これらのことが心の根底にありながら、

 

ことごとく歪んだ人生になると冷静に客観的に俯瞰できるようになったのも無職になってから。

 

そして人生を諦めてから、性的なことへの執着は薄れていく。いや“諦める”という都合のよい言葉を利用して、性に対して苦悩する時間を紛らわせたいだけだ。他人に対しても、いちいち嫉妬心で接したくない。

 

未練はある。憎んでもいる。本当にたまに自殺もしたくなる。これは一生消えない。

 

この怨恨が消えるということは、人類を否定することにもつながる気がする。心底、生命自体がアホらしく、ひたすら虚無感でしかない。

 

だけど・・・・

 

社会人しているときは、気付きながらも衝動が抑えられなかったりして

 

そのときそのときを精一杯生きてもがき苦しむしかなかったのである。

 

そんな自分は毎日を『人間』として生きているフリをする。

 

生命の根源の尊さなんぞ感じることを禁じられてきた。性を否定することは、生命そのものを否定することになり、命の尊さなんぞ語れる気がしないのだ。


両親は人間としての道徳心や倫理観を植え付け、俺を一人前の大人になるよう教育してきたんだろう。

 

しかしながら、そんな人生を歩んできた自分が『人間の尊厳』なんて知ったこっちゃないのだ

 

(続く)