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 新聞社の海外特派員としてパリに3年間滞在した経験をもとに書かれている。ぶらぶらフランスに行く飛行機の中で読んでいた337ページのこの本。これ1冊で往復もつだろうと思ったら、面白かったので行きの飛行機の中で読み終えてしまった。ただ、後半になって政治関連の記述が多かったのは、ちょっと過剰というか退屈だった。それでもフランスに関する著作としては、興味深い内容が多く記述されている。2000年8月初版。

 

【タイトル改題】
 思い返すと私のパリ特派員生活は、正直、いつも“曇り”との闘いだった。“曇り”とは、ジクジクと暗いパリの冬の色(Gris)の空そのものでもあり、フランスになじめずにもがく私の精神状態でもあり、またある意味でフランス人たち自身の憂鬱でもある。
 けれどもパリの空は、ときどき素晴らしい“快晴”(Grand beau)もくれた。そんなとき私は、やっぱりこの国の魔力から逃れられない、と心から思うのだ。(p.10)
 このタイトルでは、フランスに関する著作であるとは分りづらい。背表紙にも「ガイドブックにないフランスの素顔」と副題が書かれているけれど、小さいから見落とす可能性がある。
 フランス関連著作4冊を立て続けに読みながら、この本を一番後回しにしてしまったのはタイトルのせい。ところが、内容とすれば4冊の中では一番秀でたものだった。明らかにネーミングのミスである。この本のタイトルが、著者自身の思い入れに依っていることは分るけれど、フランス語の分からない一般読者にとっては、単に訳の分からないタイトルというだけである。
 ところで、11月後半のフランス滞在中は、「グリ、ときどきグランボー」ではなく、「グランボー、ときどきグリ」くらいに天気に恵まれた。しかも、郊外は紅葉で、パリ市内の街路樹は落葉のタイミングだったので、O・ヘンリーの 『最後の一葉』 を描いていそうな画家さんに出会えるかも・・・と思えるような美しい秋のタイミングだったのである。この季節でないと出会えない焼き栗も路上で買って食べることが出来たし。
    《参照》   『私のパリノート』 藤野真紀子 (大和書房)

              【パリのスタンド売り】

 

 

【地底のパリ】
「麗しのパリ」「華の都パリ」と人は言う。だがここにも、もう一つの姿がある。「地底のパリ」である。
 失業と貧困は、なにも北フランスの専売特許ではない。SDF(Sans Domicile Fixe)と呼ばれるホームレスの数は、むしろパリとパリ近郊に集中しているのだ。・・・中略・・・。その数はフランス全土で73万人(1999年)、パリだけで八千人(1995年)といわれている。(p.22)
 同じ頃の東京もひどかった。新宿の地下通路や上野公園など、それこそ段ボール箱の家が軒を連ねていたものである。ところが、今の東京に、それはない。格差社会は、パリにしても東京にしても、より一層深刻化しているはずなのに何故? 
 東京に関するその解は、福島第一原発にあるらしい。放射能リスク分高額な日当であることに誘われて、皆、たちまち帰らぬ人となった、というのがもっぱらの噂である。
 パリに関しては、わずか数日間の滞在なので正確なことは分らないけれど、SDFは一人も見なかった。その理由は分らない。

 

 

【フランスのコード】
 どんな国、どんな社会にも、目に見えないルールのようなものがある。これをフランス語ではコード(Code)と呼ぶ。いわば人々の間の暗黙の約束事、暗号のようなものである。(p.47)
 仕事でおごってもらった男性に、お礼をと思い「私の方は、昼食でも夕食でも構いませんので、お時間があったらご連絡ください」と電話した。すると、
「知らないようですから、お教えしますね。実はフランスでは、異性を夕食に誘うのは特別の意味なんですよ。夕食の誘いを承諾するのも、同じ意味です。つまり夕食後はOKということですね。だから、特別の意味がないということを暗に伝えるには、コーヒーでもいかがですか、と言うか、昼食でもご一緒しませんか、というんです。ところがあなたは、秘書もいる職場のメッセージに、堂々と夕食の誘いを入れたわけです」(p.50)
 これは男と女のコードだけれど、単なる旅行者でも知っておいた方がお得なコードがある。
 観光地を巡りながら、トイレに行きたくてカフェに入ろうとする旅行者は多いだろう。チャンちゃんもそれが目的で入った時、カフェオーレ2つだけでは悪いかな・・・と思い、オムレツを1つだけ注文した。そしたら、小さなサイズのバケット(日本で言うフランスパン)1本分を切り分けた程度の量がバスケットに入って出てきたのである。伝票にその記載はない。フランスでは、食べ物を注文すると、パンは無料で提供されるのである。これも飲食店におけるフランスのコードとして知っておいた方がいい。
 コードついでに、パリ、ルーブル美術館にあるレオナルド・ダ・ダヴィンチの名画「モナ・リザ」に託されているコードをリンクしておきます。
    《参照》   『ニュートン・コード』 塚原一成 (角川学芸出版) 《前編》

              【もう一つのダ・ヴィンチ・コード】

 

 

【パリ“名物”の付き物】
 パリではデモ情報収集が不可欠である。とくに車を運転するなら、デモ情報は天気予報より大切なのだ。
 ところでこの“名物”には、面白い付き物がある。リズムと創意に溢れたシュプレヒコールである。
「ショ、ショ、ショ、ショマージュ・ラルボル!」(Cho, cho, cho, chomage ras le bol!)というのがある。ショマージュは「失業」、ラルボルは「もうたくさん」の意味だ。・・・中略・・・。フランス人がこれを叫ぶときは、腹の底から怒っている。貧困の淵からの叫びなのだ。(p.63)
 デモのピークは、毎年10月にやって来るらしい。
 11月後半のパリ滞在中、パリ名物には出会わなかたけれど、シュプレヒコールの語呂が良くて韻を踏んでいたら、覚えやすいし広がりやすい。さらに権力を風刺する内容まで含んでいたら、名作である。
 ところで、ドイツの特派員から、以下のようなメモが届いたという。
 ドイツのデモはどこへいってもなぜか無言。ただ黙ってぞろぞろ歩くだけなので、なんとなく気持ちが悪い。“シュプレッヒ”というのはドイツ語なのに、シュプレヒコールがドイツに存在しないのはなぜか、とつまらないことを考えています。 (p.66)
 チャンちゃんは安保闘争の世代じゃなく、単に中島みゆきの『世情』の歌詞を通じてシュプレヒコールのイメージを膨らませていた世代である。この歌詞は、シュプレヒコールは「変わらない夢を流れに求めて」繰り返し叫ばれ、権力者側は「時の流れを止めて、変わらない夢を見たがる者たち」であることを歌っている。
 時の流れを止めようとする所業は極限的な愚策である。とはいえ、“悠久の時の流れの中に見出せるものは、実は現実世界の中にはないのではないだろうか”、とこの歌詞に聞き入っていた学生時代、思っていたから、チャンちゃんは霊学的(スピリチュアル)な世界に興味が向かって行ったのである。だから、今でも、“そのことに気づけ”という意味で、スピリチュアルな内容の読書記録を書くことで、“シュプレッヒ”の代用としているのである。
 西洋文明が編み出した“闘争”を基本テーゼとしている限り、二元性世界の轍に捕らわれるだけである。気づいた人から、そこから出ればいい。気づくためには、高い視点(=スピリチュアルな視点)が必要である。

 

 

【コミューヌ・ド・パリ】
 パリ20区は特殊な区である。区面積の1割近くを墓地が占めるのだ。ショパンやイヴ・モンタンが眠る、ベールラシューズ墓地(Cimetiere du pere-Lachaise)である。6月1日、私はこの墓地に出かけることにした。(p.67)
 花、服、スカーフ、旗など、何かしら赤いものを身に着けた人々がこの墓地に向かって行ったという。
 これが125年前のある事件をいまなお刻み続けている、誇り高き儀式の始まりであった。
 この地球上で人類が初めて労働者階級の政権を打ち立てた事件、コミューヌ・ド・パリ(Commune de Paris)。日本でいうパリ・コミューンである。(p.68)

 武器も少ないコミューン兵たちは敗退を余儀なくされ、ついに5月28日、最後の兵士約2千人が、ここペールラシューズ墓地の壁の前に追い詰められ、「コミューン万歳!」と叫びながら次々と銃殺されていったのだった。こうして5月28日、パリ・コミューンは敗北し、72日間の革命の花が散ったのである。(p.68)
 パリには墓地が多い。セーヌ川の中州という自然の要塞地形であるシテ島を中心に発展したパリであるけれど、この島を中心に3方向のほぼ等距離に、ベールラシューズ墓地、モンマルトル墓地、モンパルナス墓地がある。
 
【意識をシフトさせよう】
 新聞社特派員という立場であれば、コミューヌ・ド・パリような近代史の経緯を踏まえることなき取材意識では、仕事にならないであろうことは容易に想像できるけれど、この本の “想い” の “重さ” は、まさにこの点にあるように思えて仕方がない。
 もっと、軽く明るい光の側に意識をシフトさせてゆかないことには、フランスに光明はもたらされない。光明を啓発した西洋オカルティズムの中心的人物である、サン・ジェルマン (サン・ジェルマン・デュプレ教会-下掲写真-はパリ文化街区カルチェ・ラタンの中核であるにも関わらず!) に関して、この本には何ら記述されていないのである。

サン・ジェルマンの英語読みは、セント・ジャーメイン

『シリウス最強の《縄文女神》 磐長姫超覚醒!』 まありん (ヒカルランド) 《前編》

【「聖ジャーメイン」と「まありん」】

 

【モンマルトルの丘】
 モンマルトルの丘は、日本人にとっては画家たちが活躍した麗しきパリの象徴だ。だがフランス人にとって、この丘はもう一つの顔を持つ。そこはベールラシューズ墓地と並んで、パリ・コミューンの際に最も勇敢な戦闘と凄惨な弾圧が行われた場所なのである。現在モンマルトルの丘の象徴として聳える白亜のサクレクール寺院は、パリ・コミューン鎮圧の後、血塗られた弾圧のイメージを消すために建てられた。このため125年を経た今も、コミューンゆかりの人々や生粋の「左翼」人はこの寺院を拒絶し、けっして中に足を踏み入れない。(p.71)
 これも、「ガイドブックにないフランスの素顔」の1つ。日本人観光客は、モンマルトルの丘に立って、パリ市内を一望し、サクレクール寺院に入り、次いで西側にあるテルトル広場のカフェのテラスで雰囲気に酔いながらカフェオーレを飲み、パリジャンないしパリジェンヌにでもなった気分になり満足するのだろう。
 だからと言ってそれが悪いわけではない。その土地の歴史に無知であったにせよ、満たされた平和な心は、平和な世界創造に寄与する。血塗られた歴史を知っているからと言って、その暗い側面だけに囚われていたら、囚われているなりの世界創造に寄与してしまうだけである。

 

 

【モンサンミシェルの歴史】
 フランスとイギリスが血で血を洗った百年戦争(1337~1453年)。このころモンサンミッシェルは文字通り要塞と化した。・・・中略・・・。まさに難攻不落の城となったのである。・・・中略・・・。やがて最後の激戦が交わされ、ついにイギリス軍は敗退する。このとき砂泥の浜は、おびただしい死骸で覆われたという。こうした戦功も「大天使聖ミッシェルの庇護を受けたモンサンミッシェル」の名を高め、強国フランスの象徴としての地位を不動のものとしたのだった。
 だが中世末期になると、修道院はすさまじい陰謀と堕落の府と化していった。・・・中略・・・。建物も崩壊寸前に。そしてついに修道院は、牢獄に使用されるようになってしまったのである。
そのころの別名は、実に「海辺のバスティーユ」。19世紀には、相次ぐ労働者の革命や反乱のたび、政治犯がここに送り込まれた。・・・中略・・・。
 が、それも今は昔。モンサンミッシェルは1863年の牢獄廃止を契機に、急速な再生を遂げた。そして現在では、72人の住民を抱えるれっきとした自治体である。(p.86)
 モンサンミッシェルの、モンは「山」、サンは「聖」、ミッシェルの英語読みは「ミカエル」、すなわち「聖ミカエルの山」。1979年に世界遺産に登録されて以来、巡礼者より観光客が多くなっているのだろう。
 モンサンミッシェルは、ミカエルの夢告によってできた修道院なので、以下のリンクをつけておきます。
    《参照》   『エンジェル・セラピー 瞑想CDブック』 ドリーン・バーチュー (ダイヤモンド社)

              【ミカエル】

 

 

《後編》 より