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 死後世界の探索をして非物質世界を学んでいる過程が記述されている。『死後探索1 未知への旅立ち』の続編。この手の本の内容について耳年増になっている人でも、具体的な記述は具体的に役立つのだから、その点をいくつか発見するだけでも非常に価値のある本だろう。耳年増でない人なら、どこを読んでも「宝の山」のはずである。2006年9月初版。

 

【ダイコトミーランド(逆さまの国)】
 私は周囲に向かって意識を開き、自分がどこにいるのか印象を得ようとした。フォーカスし、外に向けて意識を広げていくと、自分がいるのがどこであれ、かなり巨大な場所だという感じがしてきた。・・・中略・・・。私の「解釈者」が、記憶をつなぎ合わせて、今いる場所の概念を組み立て始めるのがわかった。
 ・・・中略・・・。
 この場所のほかの性質が明らかになってくると、実に奇妙な場所だとわかった。頭の中で、それを言い表す概念を組み立てた途端に、その概念の正反対に外観が変わってしまうのだ。この場所に最適の呼び名は「ダイコトミーランド(さかさまの国)だ、と私は考えた。ダイコトミーランドは、ある意味では 『未知への旅立ち』 で紹介した「フライング・ファジー・ゾーン」に似ている。それは私の認識とは別に、独自の存在を持つ意識レベルのようだ。とても奇妙な別世界だ。(p.17-19)
 この付近に書かれているダイコトミーランドの様子を読みながら、子どもの頃、よく夢で見ていた場面に似ているのを思い出してしまった。『不思議の国のアリス』にもこんな世界が描かれていただろう。

 

 

【ダイコトミーランドでの訓練】
 ダイコトミーランドが反対の概念を返してくるときに利用していたのは、「解釈者」が出来事を記憶の中に蓄えたり呼び出したりするときに使う連結作用なのだ。頭の中を静かで何も概念の存在しない状態に保つことは、「解釈者」と「知覚者」のバランスを取れるようになるために、とてもいい訓練になる。この領域で繰り返し経験を積めば、概念を形成するのを抑える訓練ができて、本当に「向こう」にあるものを、もっとはっきり知覚できるようになるだろう。
 この技術は、非物質という新世界のどんなレベルでも、何かやり取りをしたり情報を集めたりする際に、たとえば疑いのような、自分の心の傾向を克服するのにとても役に立つ。また、私が「無」に心を集中しようとしたことで、ダイコトミーランドが「すべて」に対して道を開いた、ということもわかった。(p.22)
 「解釈者」は、疑いや信念や基づいて見る。この点がネックである。
 記憶の中には、イメージや音やにおいと一緒に、そういうものと結びついた信念も蓄えられているのだ。「解釈者」が頭の中にイメージをもたらしたとき、それに関連する信念もついてきたというわけだ。そういう信念が、「知覚者」が意識にもたらそうとするものと相容れなかった場合に、信念が知覚をシャットダウンしてしまったのだ。(p.53-54)
 不信、あるいは疑いは、不可能だと信じられていることの知覚を妨げる。(p.50-51)
 だから、「解釈者」は「知覚者」たりえない。
 死後探索のみならず、人間の本質を掴む上で、「疑い」や「信念」は、非常に大きなウエイトを持っていることに気づくことが重要。この点に関しては、《後編》にも書き出しておいた。

 

 

【信念体系に沿った救出】
 フォーカス23は、死の事実を認識できず受け入れられないまま孤立している存在たちの世界。ここにいたクリスチャンであるシルビアの救出にイエスが登場した。
 私がこの話をある人たちにしたとき、シルヴィアを迎えに来たのは本当にイエスだったのか、という強い疑問を投げかけられた。・・・中略・・・。
 私の知るかぎり、それはイエスだったかもしれないし、あるいは単に、シルヴィアの信念や期待に沿うためにイエスの姿を取ったヘルパーだったのかもしれない。ヘルパーは、その人が認識できるような誰かの姿を取ることくらい、簡単にできるのだ。(p.191-192)
 フォーカス23の迷宮に囚われている人々を救出するには、それぞれの信念体系に相応しい姿・形をしたものを使って救出するのがもっともスムーズ。イエスが本物かどうかは問題ではない。
 フォーカス23の存在たちは、死んだことに気付いていないから、何らかのかたちで物質界とのつながりを維持しているために、死後の世界から助けにやって来る者(ヘルパー)たちを知覚する能力が制限されてしまっている。ヘルパーたちはこの点を乗り越えるためにも、救出される側それぞれの信念体系をフルに活用することになるのだろう。

 

 

【感覚という言語(ハートで知る)】
 ハートというものは、合理的と言えるような知性ではない。論理や理屈で学んでいくものではない。そうではなく、純粋に感覚を通して働く知性なのだ。どうしてわかるのかを説明したり正統化したりするために、理屈や論理を必要とはしない。知識はただ、ハートを通してわかったときにやってくるのだ。(p.203)
 ハートを通して知るのには、理屈は必要ない。実のところ、私たちはしばしば、ハートを通して得られる知識を割り引いたり、帳消しにするために、理屈を使ってしまう。
 このプロセスが始まってから一年と少しで、私は「ハートで知ること」を信じられるようになってきた。様々なことを感じ続けるうちに、「ハートで知ること」と、それがもたらす向上した知覚が、私の疑いを徐々に解消してくれるのだ。(p.204)
 普通に右脳的に生きている女性は「ハートで知るなんて当然よ」と思う人が多いのだろうけれど、一般社会生活で仕事柄左脳的に生きている男性は、この本の著者のように、この過程を学ぶのに時間がかかってしまうだろう。
 しかし日本語は他国の言語に比べたら、もともと感性言語としての傾向を非常に強く持っている。仕事上で舶来のコンピューターのプログラミングのようなロジカル思考にかまけていても、生粋の日本人男性なら「ハートで知ること」にさしたる疑いももたずに理解し受け入れることができるだろう。

 

 

【ハート(胸の中心)に意識を置く】
「シー・アンが教えてくれたことを憶えているかい?」
「ああ。胸の真ん中にある点にフォーカスして、それを通して死後の世界を見る、というようなことを教えてもらったよ。・・・中略・・・。わかったぞ! シー・アン・スポットからものを見ることと、ハート・チャクラを開くことは関係あるんだな!」
「そう言ってもいいよ、そのとおりだ」とコーチは答えた。・・・中略・・・。
 私が意識を頭ではなくハートの真ん中を通るように集中させていると、かすかに、ぼんやりとしたブーンといような感覚が、ある場所と別の場所との間を行ったり来たりするのが感じられた。やがてその感覚は、私の胸の真ん中に留まった。(p.207-208)
 頭に意識を置かないで(頭で考えないで)、胸の中心に意識を置く。
 このような意識の使い方は、決して空想じみたお遊びではない。下記リンクに確たる根拠が示されている。
   《参照》   『すでにアセンションしている人たち』 櫻庭雅文 (徳間書店) 《後編》
             【心臓にも脳細胞】

 この手法は死後探索には効果覿面なのだろう。現実界で生活しながらであっても十分に実践可能である。

 

 

【怖れではなく愛】
 愛と恐怖は同じ場所に同時に存在することはできないんだ。私が思うに、きみが見ているものの一部は、きみ自身の恐怖が形をとったものなんじゃないかな。・・・中略・・・。きみは怖いものに向かって、胸の真ん中から愛を投げかけてみればいい。もしそれがきみの恐怖から生まれたものだったら、消えてしまうだろうから。(p.271)
 心に怖れを抱いている人は、夢の中でも頻繁に怖いものに出会うことになる。
 怖いもの見たさで死後探索(霊的世界)に興味を持つのであるなら、その興味は学びをもたらさない。霊的世界の救済を志すのであるなら、愛念に帰一していることが必須の前提。
 愛念を出す(胸の真ん中から愛を投げかける)訓練は、ハートのチャクラ(アナハタ・チャクラ)を活性化する訓練。
    《参照》   『チャクラ・クリアリング』 ドリーン・バーチュー (JMA)
              【ハート・チャクラの浄化と開花が必要な時代】

 

 

【最良の防御法】
 非物質界へ旅するときに感情エネルギーから自分を防御する一番の方法は、実はまったく「防御」ではないということを学んだ。・・・中略・・・。そうしたエネルギーについては、私の中を影響なく自由に通り抜けさせておくというのが、最良の対処法だとわかった。それで、このアファメーションを言ったわけだ。(p.256)
 巨大な感情の津波に対して、どんなに高い防波堤を築いても無駄。要は、波に浮かぶブイのようになることが一番だと理解することができる。
 最後にある“このアファメーション(肯定的な宣言)”とは、「もう充分リラックスした」という言葉のこと。
 リラックスして、「自分は純粋で繊細で透明な導体である」かのようなイメージ的確信をして「愛念に帰一する」のが最良かもしれない。

 

 

【霊界技】
 そこで突然、彼女の外見が変化した。私はもっと離れたところに立っていたが、この同じ若い女性が、私の前で硬く凍りついているのが見えた。身体全体が、硬化した真黒なタールのような、分厚い恐怖の層に覆われていたのだ。
 ほとんど本能的に、私は両手を彼女の前の空中にかざして上下させ始め、エネルギー的にその恐怖を緩めようとした。その黒いものがかすかにゆらめき始めたのがわかると、私は「それはそこにはないと見る(seeing it not there)」テクニックを使った。
 しばらくすると、黒い恐怖の層は完全に見えなくなった。それから私は引き続き、彼女のフィールドをエネルギー的にマッサージし、緩め、軽くしていった。一分もしないうちに、彼女はまた幸せそうに微笑んでダンスをしていた。(p.257)
    《参照》   『死後体験』 坂本政道 (ハート出版)
              【See it not there Technique】