《前編》 より
 

 

【英語教育に関して】
 現在小学校から英語を必須科目にしようという動きが、本格化しています。 ・・・(中略)・・・ 。
 小学校から中学にかけて “コミュニケーション・ツールとしての英語” を学び、いつ英語圏の国に行っても普通に会話できる力をつけるのは、悪いことではありません。
 しかし、現実は小学校で習うのは “コミュニケーション・ツールとしての英語” かもしれませんが、それも結局は中学校になると突然 “受験のための英語”に切り替わってしまうのです。(p.135)

 この(高校英語)段階ではもう受験のための英語になってしまっています。これらを全員に押し付けるから弊害が生じるのです。このような高度な英語は、「英語の勉強をしたい」という人だけが学べばいいではありませんか。
 そして、大学入試や就職試験では、高度な英語力が前提になっている学科や職種を除いて、英語を受験の必須科目に入れるべきではありません。
 私たちは、若者の貴重な時間と労力を、そんな受験のための英語に割いていることの方を心配すべきでしょう。
 むしろ国語や数学にその時間や労力をまわした方が、長い目で見れば本人たちのためになるのではないかと思います。
「英語は受験から外せば、かえって日本人の英語力は上がる」
 そうすれば、英語はもっと「コミュニケーションのための道具」として自由なものになり、日本人は英語コンプレックスから解放されるのではないでしょうか。
 私は、そんなふうに考えます。(p.136-137)
 「高度な英語力が前提になっている学科や職種を除いて、英語を受験の必須科目に入れるべきではありません」という見解に関して、これをバックアップする根拠が以下のリンクに書かれている。
   《参照》   『記憶がウソをつく!』 養老孟司・古館伊知郎 (扶桑社) 《前編》
             【男と女の脳の性差】

 個人的には英語教育なんて不要と思っている。国際社会で日本と世界の仲介をする意志のある人々だけが選択的に英語を学べばいいことだろう。国がわざわざ推進しなくたって英語を希望する人は少なくないはずだから、選択制にして放っておけばいいのである。
   《参照》   『僕らはそう考えない』 竹村健一・日下公人・渡部昇一 (太陽企画出版)
             【日本人すべてに英語は必要か?】

 これからは間違いなく日本が世界の中心となってゆく。世界に対して日本が果たす役割は大きくなってゆくはずである。日本人を特長づける日本語は、徐々に世界の共通語となってゆくのだから、むしろ日本人は日本語文化の中に回帰して、日本人としての教養を深めることに時間を割いたほうが、世界からより深く尊敬されるはずである。その根拠は下記のリンクに示されている。
   《参照》   『ガイアの法則』 千賀一生 (徳間書店) 《前編》
             【経度0度と経度135度の文明的特徴】
   《参照》   『堕落論』 坂口安吾 (角川文庫クラシック) 《後編》
             【日本語の多様性は・・】
   《参照》   “日本語”に関する引用一覧

 

 

【日本人として、国際社会で活躍するために】
 いまはもう ・・・(中略)・・・ 多くの国で寿司が食べられていますし、日本料理の器や盛りつけ、そして工芸の美しさも多くの国の人たちが知っています。
「日本から来ました」と言って、どこの国か分からず首を傾げられる時代でもなく、「生きた魚を食べる野蛮な国」と言って顔をしかめられる時代でもなく、高度経済成長期のように「エコノミックアニマル」といって蔑まれた時代ではありません。
 むしろ、顔を輝かせて日本のことを聞いて来ることの方が、いまの時代は多いと言えます。
 そのとき、外国人にどのくらいあなたは「日本の魅力」を伝えることができるでしょうか。彼らが聞きたがる歌舞伎や能などの古典芸能について、日本の歴史について、日本の文化について、あるいはオタク・カルチャーについて、日本料理のすばらしさについて、どれだけ語ることができるでしょうか。
 同時に、第二次世界大戦などに関しても日本人に色々と聞いてみたいと思っている人は多いものです。とくに昨今はアジアからも、若者が多くアメリカなどへ留学するようになりました。彼らと会ったとき、旧日本軍の占領政策について、靖国神社について、厳しい質問をされることもあるでしょう。
 そのときにどのような返事をするにしても、最もよくない答えが「分かりません」「よく知りません」であることは明らかです。
 もし、これらの質問に対して「よく分からない」としか答えられなかったら、どうでしょう。どんなに流暢に英語を操っていたとしても、英米人並みの発音だったとしても、その人は「国際社会」で活躍するのは難しいと私は考えます。(p.145-147)
 国際社会で活躍すると言っても、海外で生活する人だけがそれに該当するのではない。日本国内に住んでいたって外国人に接する機会はいくらでもあるのだから、日本国内だって勿論、国際社会である。
 チャンちゃんは、仕事でもそれ以外でも、比較的多く外国人に接する機会があった。始めの頃は、彼らから質問されることに答えられないことが多かった。だから、それらに答えるために読む本のジャンルを広げつつ書いてきたのがこの読書記録のブログである。
 時々気晴らしにアホみたいなことも書いているけれど8割方真面目に書いているのは、たまたまこのブログを見つけた人に、日本人であることに誇りを持って欲しいし、誰であれ外国人に接する時に役立つことがあればと思うから、チャンちゃん自身の思いはそこそこにして、できるだけそれぞれの著作からの引用を多く書き出すようにしているのである。

 

 

【外国人と交流を持ったことのある人なら】
 国際人とは、まず自国民としてのアイデンティティーをしっかりと持っていることだと私は述べました。
 自国民としのアイデンティティーを持つということは、まず自分の生まれ育った国を知ること、愛すること、そして誇りを持つことです。
 外国人と交流を持ったことのある人なら、一度ならずとも彼らの愛国心に触れたことがあるはずです。(p.147)
   《参照》   『キヤノン現場主義』 御手洗冨士夫 東洋経済新報社
             【 「国際人」 とは 】
   《参照》   『LOVE&FREE』 高橋歩 (サンクチュアリ出版)
             【プライド】

 先にその根拠をリンクで示したけれど、これから日本が世界の中心となってゆくことを、まず第一に、日本中の若者に知ってほしい。その上で、さらに、この読書記録のブログが何らかの形で役立つなら幸いである。

 

 

<了>