381系定期運用終了。少ない記録と"酔い"そして“喧騒”に躊躇して敬遠した記憶 | たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

『縁は、連結する』鉄道など交通を中心に興味の赴くままに、日々呟き語るブログ。
※最近すっかり鉄道ルポタージュ化してますが、言いたいことを素直に言うという意味でブログタイトルは変えてません。

6月14日、381系が遂に定期運用を終了した。

中央西線に颯爽とデビューしてから延べ半世紀余、曲線区間のスピードアップという使命を負い

日本初の営業振子電車という特殊性で、最後まで第一線で走り続けてきた。

最後まで走ったのは、やはり曲線が多いJR西日本伯備線を含む岡山〜出雲市間の「やくも」。

紆余曲折波瀾万丈あった他の国鉄型と違い、生涯のほとんどを特急列車として走り抜けた。


一概に振子電車というが、381系は平成以降に導入されたJR四国2000系・8000系やJR東日本

E351系などと違って、きわめてアナログな“自然振子装置”を搭載していた。

これは後にも先にも営業用車として唯一で、カーブによる遠心力で不自然な揺れが発生するため

“乗り物酔い”が多発し、座席へのエチケット袋の常備や専務車掌が酔い止め薬を常時携帯する等

計算を超える揺れに苦心惨憺していた…というエピソードが早くから伝わってきていた。

このため列車名をもじって“げろしお”“ぐったりはくも”などと揶揄する向きも…


小生も小学生の頃、家族旅行で吐きこそしなかったが車酔いしたことがトラウマになっていた為

各所に旅行に行くようになってもなんとなく381系は敬遠していた向きがあった。

実際「しなの」後継のJR東海383系やJR東日本E351系、更にJR四国2000・8000系やJR九州

885系といった平成世代の“制御付き”自然振子車両は折々に乗車していたのだが、こと381系は

最後の最後まで、乗る計画もほとんど立てないままに終わってしまった。

もっともそれは、運用線区の物理的な遠さも影響してはいたのだが…


そして最近は、目に余る周辺の一部の過熱ぶりも気持ちを冷めさせる大きな一因になった。

これは他のところでも類似例が多々あるが、それはこの381系でも変わらなかった。

あまりに変わらない“無学ぶり”を満天下に曝け出し、寒気すら感じるファイナルであったことを

X(旧Twitter)のポストで知り、つくづく行かなくて正解だったなとすら感じたのだ。

あまりに滑稽極まる奇声・悪声の大合唱が遠く岡山でも見られたことに、頭を抱えた。


…まぁそんなこんなの複合的な要因で、記録は少なかった。

1990年代はまた折見て探し直すとして、2000年代も特に2016年頃までは折々に西日本方面へ

赴いていた機会が多々あった割には、記録数が目に見えて少なかったのである。


そもそもの遠征計画がTUBEの甲子園球場野外ライブが主目的だったこと、鉄道目的であっても

周辺私鉄や地下鉄の完乗や、JR西日本でも103系や201系が被写体になりがちだった。

それ以外でも、廃止前の寝台特急「日本海」や485系運用終了前の「雷鳥」etc...

このため、381系まではほとんど手が回らなかった、いや意図的に回してこなかったのだ。

 

2009年9月7日月曜日、野田(大阪府)にて

そんな中で、新スーパーくろしお色の381系編成を後追いでなんとなく押さえていた写真が。

2009年の晩夏、西日本方面に遠征した時のものだ。

白浜・新宮方は平成初期に流行ったパノラマグリーン車のクロ380が連結。

サロ381を先頭車化改造し、1989(平成元)年7月の天王寺駅の阪和連絡線完成時に投入。

アコモ改良により塗装デザインは一度変更されたが、華やかなイメージは終生変わらなかった。


この時も、TUBEの甲子園球場ライブを9月5日に見に行き…

翌6日は一緒に見た鉄道会社勤務の友達と、大阪→浜坂間でキハ181系「はまかぜ」に乗車。

ちなみにこの時が、最初で最後のキハ181系乗車であった。

その後は鎧駅を訪問方々架け替え前の餘部鉄橋を堪能し、山陰本線で出雲市に向かう予定に。

計画通りに進んでいれば、翌7日の出雲市からの帰路は381系「やくも」になるはずだった。


しかし浜坂あたりで、旅に出発する前から強い違和感があった腰の痛みが悪化。

慣れない土地で休むより、大阪に“帰って”定宿のホテルに帰投した方が良いと判断した。

特急利用の区間以外は青春18きっぷを所持していたことから、ルート変更が柔軟にできることも

予定変更を加速させ、結局鳥取から因美線〜芸備線〜山陽本線を乗り継ぎ帰阪したのである。

そしてなんばの定宿のホテルの大浴場で腰を癒し、長めに休養したのであった。


こうして翌7日、改めて西を目指したのだが…

なぜ野田駅に出て行ったのか、今となっては全く理由がわからない。

泊まっていたなんばから、大阪市営地下鉄谷町線(当時)を使って出て行ったようである。

しかもこの日、どこにも詳細を書き残していないが、新大阪でもまた写真を撮り残している。

今度は非パノラマ側のクハ381で、梅田貨物線を走っていく後追いのようである。

だが、なんで一度新大阪に行っていたのかも、前後の記録を見てもイマイチ釈然としない。

ただ、青春18きっぷを所持していたから動きの自由度は高かった筈だが。


…そしてこの日は、山陽本線から赤穂線を抜け、まずは岡山へ。

ここで「ゆったりやくも」色のパノラマグリーン車クロ380も初めて、かつ最後に見た。

当時は既に「スーパーやくも」はなく、「ゆったりやくも」に改造途上であった。


ここまで見ておいて、結局は381系に乗りはしなかった。

しかも、たった3分の滞在を求めて瀬戸大橋を渡り、快速マリンライナーで高松まで往復。

今冷静になって考えてみれば、もうちょっと他にもプランがあったろうに…と思うのだが。

岡山電気軌道なぞは、2005年3月に訪問済みだったことから考えにも及ばなかった。

 

そして、また岡山に戻ってきて一回、今度はクハ381側を。

以来、岡山は山陽新幹線で通過する以外は訪問できていない。

なお、この日の最終目的地は山陽本線宮島口駅で、名物あなごめしを買い込み…

あき亀山“再延伸”前の可部まで往復した後、広島駅から山陽新幹線で帰京の途についている。

 

2011年2月14日月曜日、新大阪にて

次に西日本方面を訪問したのは、およそ1年半後のこと。

2011年2月13日、前年の自分の誕生日に入籍した親友夫婦の結婚式・披露宴に出席するために

その前夜から関西を訪れていたのだが、15日まで滞在を延ばして各所記録に赴いた。

主目的は、この年3月ダイヤ改正で廃止された485系による「雷鳥」と寝台特急「日本海」。

また、特急「北近畿」が「こうのとり」に変更されると同時に置き換えが決まっていた183系。

そして、おおさか東線(放出〜久宝寺)と近鉄けいはんな線、さらに大阪市営地下鉄全線完乗。

これらの記録を、結婚式・披露宴に出席した2月13日午後以外に集中的にこなしていた。

ついでにこの時に、北大阪急行電鉄も千里中央までは乗車済みであるほか、現・京都丹後鉄道で

定期運用を離脱して久しい「タンゴエクスプローラー」も大阪駅で記録できている。


そんな流れで、新大阪駅で2009年の時と同じように381系を捉えている。

しかもこの時は、意図なくクロ380を気持ち流し気味に捉えているが…

当時のブログには一切記述がないのは、一体どうしたのか自分。


しかし天王寺から阪和線に乗り、東羽衣へ動き始めたところでまた381系に遭遇。

 

引上線で留置されていたのは「はんわライナー」に運用されていた国鉄色編成であった。

その邂逅が、当日夜に動きをもたらし…

 

19時過ぎ、天王寺駅1番線に会いに行っていた。


「はんわライナー」もこの年3月のダイヤ改正で「やまとじライナー」と共に廃止が決定。


それもあり、乗りつつ撮影、を考えていたのだが…

この日、昼頃から関西含め広い区域で降雪が。


それもあり、ダイヤは大幅に乱れ…

「はんわライナー」は全席自由席扱いでの運転に変更。


それにより混雑が増し、敢えなく乗車を断念することに。


結局乗ることなく見送り、これで完全に乗れるタイミングを失った。

加えて当日「やまとじライナー」も運休になり、稼働状態の381系とはこれでお別れとなった。


…ただ、保存展示されている381系も、一度だけ会ってはいる。


2014年11月1日土曜日、リニア・鉄道館

リニア・鉄道館に保存展示中のクハ381-1。

床下はグレーに塗られJNRマークの無い末期仕様での展示である。


初めて名古屋を訪問した1996年には、まだ現役で走っていたはず。

近く、捜索に着手してみようと思っている。

そして、また名古屋を再訪したい。


そしてこの日、最後の別れになっていたのももう1両。

JR東海初期に投入されていた、パノラマグリーン車クロ381-11であった。



残念ながらN700系の保存に絡んで、クハ117-30が収まると共に弾き出され…

西浜松に送られると、あっけなく解体されてしまった。

限られた展示スペースでの保存の難しさを感じ、非難の渦が沸き起こった出来事であった。


…そんな気難しさを感じ続けていた381系。

それを令和の今に至るまで引きずり、結局乗らず中途半端に見送ることとなったのは寂しい。


が、あの狂気じみた雰囲気の中にもし居たら、よりストレスが増幅していただろうから…

これまで距離を取っていたのを無理矢理縮めなくて良かった、と前向きに捉えておきたい。

381系が現代に残した高速化への功績は、未来永劫消えないのであるから。

僅かなりとも、身近に接する機会があっただけ良しとし、記録と記憶を締めることとしたい。