Livin' On The Edge -2ページ目

Livin' On The Edge

日々の考察と観察。

まさに崖っぷちの人生なり。

漫画家赤塚不二夫さんが死去  バカボン、おそ松くん…
http://www.iwate-np.co.jp/newspack/cgi-bin/newspack_s.cgi?s_main+CN2008080201000716_3


僕の知る限り、根源的な笑いを展開する人だった。そして、子供の事を良く考えている人だった。
後年は、時代に追いついていないところもあったけども、あるマンガのテーマを知ったとき、この人の考えはすばらしいと思った。打ち切りになってしまったけど。
一度お会いしたかったなあ、同じ時代を生きたかったなあ、と本気で思う人でした。


これでいいのだ。


ここにきて、なんて素晴らしい言葉なのだろうと思う。


ご遺徳を偲び、哀悼の意を表します。

ブログネタ:『崖の上のポニョ』の歌が耳から離れない人、いる? 参加中
本文はここから



うううん。なんというか。

 覚悟があったので、結構すんなり受け入れられた。

という感じですね。


ネット上の記事をみますと、ストーリーについては、賛否両論です。
しかし私は言いたい。


この物語について、ストーリーを語る事そのものがナンセンスだと。



宮崎駿自身が描きたいシーンを羅列したもの、と思っても問題が無いくらいのものです。ですので、これが映画というエンターテインメントかどうかと問われれば非常に疑問です。「アニメーターが画集を作ると、こういう事をするしかないよね」というものですので、少なくともストーリーテイリングという意味では、完全に破綻しています。例えば、アイドル写真集を持ち出して「5枚目と13枚目の写真に関連する意味づけはなんであろうか?」という議論をすると同じくらいのものになります。

ただ、やっぱり美しいものですし、迫力もありますし、そういう観点で見ればよい作品であるというか、私が口を挟むのがおこがましいほど良作であると思います。
しかし、超映画批評にあるように世の中がジブリに期待しているのはこういうものではないという意見については、全面的に賛成です。

この映画の特徴は、すべての存在がが理屈抜きに存在している、という事です。
これらのものの存在価値や理屈を考えるのは「重力はなぜ存在しているのか。その意味は何か」を論じるのに非常に近い議論になりほとんど形而上学みたいなものになってしまいます。
山岳の風景を眺める際に「これはどうやって出来たのか」を論ずることは構いませんが、「この山はなぜ存在するのか」を論ずることは非常に難しい話になります。ポニョを見るときにも、同じ気持ちを持って望むと良いと思います。「それはそこに存在するから、そこに存在するんだ。美しければいいじゃないか」くらいの勢いを持ってみれば、特に混乱してしまうことも無いでしょう。

この映画のすばらしいところは、カット毎のアニメーションはすべての理屈を踏襲している一方で、ストーリーだの展開だのメッセージ性だのといった、総合芸術としての映画の呪縛から開放されていることでしょう。こんなの、実績のあるジブリにしか作る事はできませんねえ。
そしてこの映画の罪な部分をあげるとすれば、「これでもいいんだ」とカンチガイした若手クリエイターがこうした映画を作ってしまうこと、もしくはその可能性があることですね。そういうポカ映画が生まれないことを、祈るばかりでございます。


さて、最後にネタに投稿しているので。
そういうわけで、この歌の存在意義について論じる事はできません。つまりは「美しささえ追求すれば、その他の一切の呪縛から解き放たれる」というモチーフであるがゆえ、この楽曲はうまれたのです。私の中で藤岡藤巻といえば、やっぱりまりちゃんズですし、衝撃の「娘よ」であったりするわけで、彼らがこれを歌っていると知ったときは、お茶を噴出しそうになりました。実際にはお茶など飲んでなかったので、これは言い回しでしかありませんが。
まあ、頭からはなれませんがな。

昨日友人のMと「喫茶さくら」で、いつもの「なんでも談義」をしていたわけですよ。


 ひげ「なんかよ、ぽにょがさ、ひでえらしんだ」


 えむ「記事読んだ感じだと、ひどいみたいだなあ」

 ひげ「まあ、つげ義春だっていわれてたりするからさ、想像はつくわな」

 えむ「だれそれ?」

 ひげ「しらんのか?まじで?」

 えむ「小説よまねえってしってんじゃん」

 ひげ「つげ義春は、マンガだし!」

 えむ「ううむ。他に例えるとなんだ?」

 ひげ「そうだなあ、キューブリック?」

 えむ「キューブリックはシャイニング以外は認めん!あとは駄目だ!」

 ひげ「ハートマン軍曹を忘れるな!」

 えむ「あれは本物だ!だから違う!」

 ひげ「まあ、テーマとしては、駿はキューブリックとどう違うか、だな」

 えむ「アレな若者が"キューブリックってイイよね!"っていう世界に到達するかって事か?」

 ひげ「おおよそそんな感じだ」

 えむ「それは無理だろ。というか、並列で語れないだろ」

 ひげ「まあなあ。見ないと詳しいことなんもいえんしなあ」

 えむ「じゃあまあ見に行くか。ちょうど新宿のピカデリーへ行きたいと思ってたんだ」

 ひげ「まあいくか」



という事で、本日夜に友人とポニョを見ることになりました。


ええ、

 妙齢の男二人で。

  それもレディースデーに。

   お洒落なシネコンへ。





ちと、見る前からネタバレっぽい話をしますので、読みたくない人は読み飛ばすべし。
・・・アメブロって折り曲げ機能がねえんだよな・・・


今のところの考えは
 「プロモーションで嘘つく、ということ」
 「それがそれであると伝えないこと」
 「崇高すぎる何かは、大衆娯楽ではないということ」
という事ですね。











たけくまさんの「たけくまメモ」は、非常に微妙な反応です。

宮崎駿のアヴァンギャルドな悪夢
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_fb6c.html

ポニョ2回目
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_51ec.html


乙木さんの「さて次の企画は」は、非常に激怒しておられます。
ポニョ見たけど、師匠も男友達もいない宗介と、オタク的に都合の良い「聖なる女性賛美」が強すぎて駄目でした
http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20080727

乙木さんが激怒しておられる理由はすごくよくわかります。
しかし、たけくまさんのテキストを見る限り、それが的外れなことがわかります。
でも、純粋に乙木さんが混乱しているのは「この作品をエンターテイメントだと言い切っている」制作サイドの立ち位置によるものだと思うんですよね。


乙木さんの憤りは、おそらく私が「相棒」の映画に感じた感想と同じなのです。

あの映画は「エンターテインメントだと言いながら、文法は完全に左翼系ファクション・プロパガンダ映画」でした。
(※注:ファクション:fact+fiction=実際の事件をベースに再構成した作品)
私は、「相棒」が刑事ドラマとして持つべき要素をすべて捨てて、アナーキズムとテロリズム賛美に走ったことに、憤りを感じました。
加えて言うなら、サヨクと呼ばれる人たちが使う、視野狭窄に陥ったままのエセヒューマニズムや、唯我独尊的な平和の押し付けが非常にキライです。そして、私の愛する「秩序と情け」をテーマとしたドラマがすべて捨て去り、禁じ手に近いほどの卑劣なプロパガンダの走狗に成り果ててしまった事に対して、失望したのです。

一方で、広報戦略は完全に定型たる刑事ドラマにアクションが追加された超大作というウリだったわけです。
事実は「台本レベルから、刑事ドラマのあるべき文法を守っていない」という世界でしたので、広報戦略は「客を騙してでも映画館に連れてこい」だったと思います。もしくは「真のテーマでは客を呼べない」という判断になったのかもしれません。

まあ、「私が相棒の映画だったら、秩序と情けを重んじる刑事が活躍し、きちんとしたカタルシスを得られる映画だと思い込んでいた」という部分が問題だったわけで、「テレビ朝日が作る映画とは何か、という事を考慮していなかったのが悪かった」という結論に達します。


たぶん、そういうことなんだろうなあ、と思ってるんですわ。

という事で「エンターテインメントの皮をかぶった実寺山修司」だという認識で行って来ます!

ちと、いろいろな人と会って、いろいろと話をしてきました。
今日もまた誰かさんに会いに行くのです。

しばらくは、こうした日々が続きそう。


ひととあって話をすることは、わたしにとって非常に面白いことです。
わたしの楽しみのひとつといっても良いでしょう。

いろいろな世界、いろいろなジャンル、いろいろな生き方、いろいろな考え方。

そういうものにずっと触れていたいのです。

なんか一昨日にハリーポッターが発売になってんじゃん!
まるで忘れてたYO!

・・・ごめんね。おこさまでごめんね・・・


まあ、ぶっちゃけたところ、私はこの本の翻訳は非常に下手だと思います。
なんというか、原文が透けて見えるというか、日本語っぽくないというか。


でもまあ、読むんだよなあ。


しかし、この本たけえなあ。

日雇い派遣が全面的に禁止される様子です。

派遣禁止で「日雇い不況」も
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20080717/165631/?P=1


私には、不遇の時代がありました。
ほんの数年前、正規雇用での給料が激安で、土日に日雇い派遣で働いて、なんとか生きていたわけです。

その頃には、すでにワーキングプアという存在を肌で感じていました。そして、この腐った雇用形態の中で腐ってしまった人たちを見てきました。
この日雇い派遣のシステムは腐っています。しかし、おおよそこの10年間運用された腐ったシステムの中で20代の貴重な時間を過ごしてしまった人たちには、地獄の様な未来が待っていることでしょう。そしてその地獄を支えるのは、我々の世代の仕事です。それもまた地獄でしょう。


この日雇い派遣と言う仕事は、非常にリスクの小さい仕事です。ピンハネ屋という蔑称で呼んでも良いくらい、不正直な商売であると言えるでしょう。
この商売の商品が労働力です。そしてカラクリとしてすごいところは「在庫リスクがゼロ」なのです。こんなにすごい商売はありません。


つまり、通常の商売はなんであれ、元手を使って「在庫」を手に入れ、それに付加価値を付けて販売します。
しかしこの商売では、労働力を登録しているだけの状態では、在庫にコストが発生しないのです。
営業に失敗し「本日はお仕事がありません」という状態になっても、在庫にかかるお金は限りなくゼロなんです。
そして、販売先(派遣先)が見つかったとき、初めて在庫に原価が発生するわけです。


そりゃあ、儲かるよ。マジで。


まあ、いろいろなくなると困るとか言っているんですが、要は「日雇い派遣」が禁止になるわけであって、「日雇い」は禁止になりません。
つまり、各現場がきちんと人事システムを持って一日アルバイトを雇えばそれでOKという事になると思います(あくまで予測)。
また「派遣業務」ではなく「請負業務」については禁止されないと考えられますから、企業がきちんとマネジメントと雇用の責任を果たしさえすれば、それほどの影響は無いように思いますがねえ。どことは言いませんが、運輸会社のしっかりとしたところは、日雇い派遣ではなく、自社で日雇いを行っていましたから、そういうきちんと企業責任を果たしてきたところには、ほとんど影響がないはずです。


欧米に比べて、日本はなあなあのビジネススタイルです。本来であれば、雇用する側とされる側がお互いの心を読みあってやらなきゃならない場面について、目の前のコストダウンだけを追いかけていれば、そりゃあこういう結果が待っていることは、容易に想像できたはずなんですけどね。


さて「腐ったシステムが生んだ未来の地獄」について話しましょう。

彼は4年前の時点で28歳でした。ある配送工場で一緒に働いていました。ある派遣会社から、大手メーカーの配送工場へ派遣されていたのです。
当時同じ職場には、お笑い芸人のタマゴがおりました。昼休みなど、3人で飯を食ったりしたものです。
私以外の二人は、土日以外もその配送工場で働いていました。私は土日だけでした。芸人タマゴは1年目、彼は5年目でした。
私は結局2年やりました。私が去るときも、ふたりはまだ工場に残っていました。

それで、私とほぼ入れ違いでひとりこの配送工場を去って行きました。その人は営業の仕事が見つかったそうです。

「彼」はそれを見て、この仕事以外の仕事を探したりしてました。
そしてぽつりと「僕ね、IT企業に勤めたいんだ」と言い出したことがありました。
私と芸人タマゴは「お?コンピューター使えるの?」と聞きました。「彼」は使えないと答えました。
タッチタイピングも出来ないというより、使ったこともないという事でした。
「彼」に、「なぜITがいいの?」と聞くと「儲かりそうだから」と答えました。
そして、何社か受けたけど、さっぱり受からないと嘆いていました。

私は「IT業界には、コンピューターが好きでたまらない人間が多くいる。そんなところに、コンピューターが使えない人が、入れるわけが無いでしょ」と言いました。芸人タマゴは「僕ですら情報収集のためにインターネットを使っている。まずはコンピューターを買わないと」と言いました。そして「彼」はそっかーと言いました。それ以来、IT企業を受けるのをやめました。

その後芸人タマゴが私に「ひげさん、残酷な事言いますね」と言って来ました。私は「かなわない夢を見続けている人を放置するほうが残酷だ」と言いました。芸人タマゴは「それもそうっすね」と言いました。


果たして「彼」が今何をしているのか、私は知りません。
確かに「彼」は、バリバリと考えて、ガツガツと生きてゆくタイプの人ではありませんでした。しかし、悪い人では無かったですし、仕事もきちんとできる人でした。なんらかの職人にはなれていたと思うのです。しかし世の中の「なんとなく生きていきやすいシステム」「ギリギリで人を殺さないシステム」の中にどっぷりとつかりこんで、その中でなにも出来ない人になってしまいました。


「彼」が若かりし頃、この腐ったシステムさえなければ、いずれかの正規雇用なりなんなりの職に「就くしかなかった」状態であったはずです。


そして「彼」が60歳を迎える頃の話です。
おそらくはまっとうに生きてゆく仕事に付いていると考えることは、かなり難しい話だと思っています。
また、その派遣事務所には、「彼」以上の社会不適合者が数多くいました。
少なくともその中の数名は、60歳を迎えるまでに、自分の力を使って、憲法で保障される「最低限の生活」を維持できなくなるでしょう。
そういう人々がどれほどいるのか。考えるだけで恐ろしいです。


されば、我々は彼らに対し、憲法の名の下において、生活を保障しなくてはなりません。
我々は国家と言う生活共同体を営んでいるわけですから、彼らの生活を守らなくてはならないのです。
今見える未来予測の中で、自分たちの生活すら手一杯なのに、そういう人たちを生かすためのコストを捻出することが出来るのでしょうか?


他人は関係ないのじゃありません。
日本国の日本国憲法下に生きている限り、我々日本国民は、日本国民を「より生産性の高い存在」へと導いてゆく仕事をしなくてはなりません。
石油も出ません。石炭も出ません。鉄も出なければ、レアメタルも出ません。
この国は、ひとりひとりが何らかの生産者であるか、生産者にぶら下がる存在でなければ、生きることが出来ない土地なのです。

しかし、この国は、今までの10年、最も人口が多い年代のひとつである団塊ジュニアの世代を、まるで生産性の低い人間にしてしまう政策を取ってきました。
企業は本来の目的を忘れ、手段や条件でしかない利益のみを追求してきました。
しかし、それは未来に掴むべきものを、前借してきただけの事だったのです。来年蒔くべき種もみを、今食べても良い米として間違えてカウントしてきただけなのです。

ワーキングプアの真の恐ろしさは、あと30年経ってから来るでしょう。



ああ、やんぬるかな、やんぬるかな。

DSのピクトチャットで情報戦 「DS鬼ごっこ」がブームに
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1147421.html


自分たちが子供の頃を考えても、何でも遊び道具にしてきたわけで、これがさしてめずらしい現象だとは思わないです。


でも、やっぱり子供はすばらしいなあって思うわけですよ。すばらしい。

「遊び」というものをいろいろと分析してゆくと、ひとつの学問になってしまうくらい奥が深いものなのだけれども、いろんな事にかまけていて、なかなか研究が進まないです。
だけれども本当は、こういうものを正しく研究していかないと、良いものを作れないのではないかと思ってしまいます。


子供は、生きる知恵を学ぶために遊びます。
それはネコでもイヌでもおんなじです。じゃれあって、狩りを学ぶのです。
それはおそらく無意識下にある感覚から生まれてくるもので、おそらく後付でしか理由は付けられないのだろうと思いますが。


そういう延長線上に遊びの真髄があると思うのです。

戦前の子供たちに比べて、今の子供たちは戦争をモチーフにした遊びをしないのです。
陣取り合戦にしろ、騎馬戦にしろ、町内対抗ケンカ大会にしろ。

一方で、こうした情報戦略を遊びの中に取り入れてゆくわけです。そのアンテナが正しいとするのであれば、虚実の混じった情報戦略というものが、これからの世界のスタンダードになってゆくのやもしれません。


まあ、なりつつあるんですけどね。

「企業=人格」という捉え方はちょっと可哀想だよなー。(まー!)

http://gamenokasabuta.blog86.fc2.com/blog-entry-719.html



どーなんだろーなー。
言わんとしている事はわからないでもないけれど。


■ 混乱しているのは正しい事じゃない。


なんというか、所詮ゲーム産業もビジネスなので「トップマネジメントが混乱していることは仕方がない」というのは、間違いだと思うんだよね。

例えば、僕たちは「またテレ朝か!」とか、「またトヨタかよ!」とか、そうやって企業をひとつの人格として扱う事がよくあります。良くも悪くもきちんとトップマネジメントが出来ていれば、こうやってひとつの人格として企業を扱うことができると思うのです。


DAKINIさんの見解である

まー、確かに企業を語る上では、単純化しないと話がしにくいです。でもそのコンテキストが徐々に通じなくなってるのを、みんな、感じてるんじゃない? マルチプラットフォーム時代の到来と海外市場の安定成長、さらに大企業どうしの合併の影響で、「企業=人格」という捉え方は有効じゃなくなってます。

というのが正しいとすれば、ゲーム会社そのもののマネジメントが、混乱し始めている(したまま進みそう)という事だと思うんです。

「合併したから混乱してても大丈夫」という事ではない、とは思いますが、「混乱しててもしかたがない。どんどん混乱してゆく」という考え方にはちょっと納得できません。というか、混乱したまま、企業が生き残っていけるとは思えないからです。


各幹部が思惑が違うのは当たり前の事でしょう。しかし、トップマネジメントの決定のないまま、会社に属する人の人格で、その思惑を公言したり実行に移す事は、企業としてはあり得ない事です。もちろん、トップマネジメントがトップマネジメントと機能していない場合も多々ありますが、だからと言ってやって良い事と悪い事があったりするわけです。


■ 多角戦略というのはアリ。


一方で「多角戦略」というマネジメントが有効になっていても、同じような風景になるのが難しいところですね。
DAKINIさんは「ヒドラ」という表現をしているので「トップマネジメント何人かいて、それぞれがが別々の事を考えて動いている」という事だとは思うんですけども、それとはちょっと違う可能性ですね。


正しくマルチプラットフォーム、マルチジャンルを戦略として捉え、トップマネジメントから正しい責任分担が存在すれば、もそっと違う展望が見えてくるかもです。

例えば、親任天堂や反任天堂というスタイルも、過去の企業規模では「両方です」というのは許されなかったとかもしれません。しかし、現在であれば「まあ商売ですから両方がんばっとりますんで」というスタイルが許されるはずである、ということろです。また、ジャンルにおいても「美少女ゲームも作るし、幼児向けも作るよ」という将来展望とリスクヘッジを兼ねた包括的な戦略をとる事も可能でしょう。問題は「寄せ集めると結果的にそうなる」事と「目的を持って集めてくる、広げてゆく」事が根本的に違うというところでしょうか?

なんというか、多角戦略が多角戦略としてトップマネジメントから落ちてくるようになれば、いかに多角展開をしていたとしてもヒドラには見えないでしょうし、「企業=人格」として扱えるようになってくると思います。その人格が今と同じレベルなのかどうかは別として、なんですが。


■ まあ今回の件はアレだ。


まあ、業界の中を見回してみますと「相当グダグダ」なのは理解してますんで、今回のバンナムさんの件については、連絡系の単純なミスだと思います。
だけれども、そう決め付けた上での意見になるんですが、こうしたトップマネジメントが二転三転する事や、ぎりぎりのタイミングで連絡系に不備が出たりするのは企業としてどうなんだろうなあ、というのがアレなところです。

IT業界に激震走る!

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20080606/306796/?ST=system&P=1


骨子としては以下の事が禁止になるみたい。

それも会計の問題で。


 要件定義、設計、開発、テストの各工程を一括で契約。

 要件定義の終わらないまま、開発作業に着手する。

 契約の変更・追加なしに、開発途中の大幅な仕様変更を実施する。

 サーバーやネットワーク機器といったハードウェアとソフトウェアの開発を一括で契約する。


いやあ。これさ。

ブラックな親会社は死亡でしょ。

法律的に罰せられるとかいう問題じゃなくて、下請けの会計が通らないんで、そもそもこういう開発ができなくなるっていう寸法でして。


あいまい開発で、あいまいで押し通して儲けてきた会社にビジネスモデルの変革を強制されるわけですね。さてはて、いまさらマトモな方法を選択することが出来るのでしょうか?

知る限り、出版で下請けを押さえつけて伸びてきた会社は、この不況で軒並み赤字になってますので、難しいでしょうねえ。


これでもう少し開発がまともになるといいなあ。

というか、正確な人日出すことになるんで、時給換算とかみえちゃってへこむことになるんだろうなあ。


まあ、ゲーム開発に適用されるかどうかわかりませんが。

経験上、ソフトウェア開発の会計システムを導入しているので、とは思うんですけど。

【PV】六本木~GIROPPON~ 鼠先輩


ぽっぽぽぽぽぽ ぽっぽー

ワイドショーでいろいろ報道されてるのは、どうも夜の街(ギロッポン)からはやり始めたという経緯があるみたい。