「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -396ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

復活祭の一週間

 

 

マタイ27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。


「生きて変わらぬ主,御名に栄えあれや」(英文) 2010年4月、リチャード・G・スコット、十二使徒定員会
贖罪が御父と御子の双方に要求したものは何か想像してみるのは有益であるとわたしは信じています。救い主は3つの課題に直面されました。

まず,計り知れないほどの責任の重さです。これを完全に成し遂げないかぎり,天の御父の子供たちは一人もみもとに帰ることができないということを救い主は御存じでした。子供たちは御父の御前から永久に追放されます。なぜなら律法を破ったことを悔い改める方法はありませんし,清くない者は神とともに住むことができないからです。御父の計画は無効になり,霊の子供たちは皆,永遠にサタンの支配の下で苦しむことになるのです。

第2 に,絶対的に清い思いと心をお持ちの救い主が,人類が出遭うあらゆる苦しみを,最も邪悪で卑劣な罪が引き起こす苦悩までも経験なさらなければならなかったということです。

第3 に,救い主は,肉体的にも精神的にも限界まで追い込まれているときに,サタンの手下たちの猛烈な攻撃に耐えなければなりませんでした。そして,力が限界に達し,最も助けを必要としていたときに,わたしたちには十分理解できないある理由のために,御父は重い責任を救い主御一人に背負わせ,救い主が御自身の力と能力のみで担うに任されたのです。

救い主が十字架の上から「わが神,わが神,どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたときマタイ27:46マルコ15:34,天の御父はどんなに激しい苦悩にさいなまれておられたか,わたしは想像しようと努めています。天の御父は十字架上の御子をお見捨てになったのではないとわたしは信じています。イエスは,常に御自分を支えてくださった御父の助けが取り去られるのを感じたために叫ばれたのだとわたしは信じています。救い主がほかの助けなしに御自分の力だけで贖罪を完全に欠けるところなく成し遂げる必要があることを御父は御存じでした。御父は,御子をお見捨てになったのではありません。御自身の完全な御子が贖罪の永遠の実を勝ち取ることができるようにされたのです。

贖罪のすべての効力を十分に理解できる人は,死すべき人間の中にはだれもいません。

イエス・キリストの贖罪の重要性についてわたしたち一人一人がさらによく理解できるよう努めることはどうしても必要です。その理解は,人生を築く揺るがぬ土台となるからです。土台となる標準のない世の中,欲望の追求の陰で尊厳や徳,清さが廃れてきている世の中にあって,イエス・キリストの贖罪を理解し,贖罪に信仰を持つならば,幸せな人生を送るために必要な強さと力が得られるでしょう。そしてそれは,試練のときに自信を,混乱のときに平安を与えてくれるのです。

 

 

 

復活祭の一週間

 

 

マタイ26:38-45
そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。 また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。 またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。 それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。 それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。 


「主を待ち望む-みこころが行われますように」2011年10月、ロバート・D・ヘイルズ、十二使徒定員会
わたしたち一人一人は,自分の理解や想像を超えて主に愛されているのです。互いにより優しく,また自分自身にも優しくありましょう。主を待ち望むとき,わたしたちは「主なるキリストの贖罪により……聖徒となり,……従順で,柔和で,謙遜で,忍耐強く,愛にあふれた者となり,子供が父に従うように,主が〔わたしたち〕に負わせるのがふさわしいとされるすべてのことに喜んで従〔う〕」(モーサヤ3:19) ことを忘れずにいましょう。

救い主がゲツセマネの園で御父に示された従順はそのようなものでした。主は弟子たちに「わたしと一緒に目をさましていなさい」と切にお求めになりました。しかし,3度,戻って御覧になると,弟子たちは眠っていました。(マタイ26:3839-45も参照) そばには弟子たちも,そして最後には御父もおられず,救い主はわたしたちの「あらゆる苦痛と苦難と試練」(アルマ7:11) を受けることをお選びになったのです。天使が遣わされて主を力づけ(ルカ22:43参照),主は身を引かずにその苦い杯をお飲みになりました。(3ニーファイ11:11教義と聖約19:18-19も参照)「みこころが行われますように」(マタイ26:42) と言いながら御父を待ち望み,へりくだり独りで酒ぶねを踏まれたのです。(教義と聖約76:10788:106133:50参照) この末日の十二使徒の一人として,わたしたちが強められ,生涯にわたり主と一緒に目を覚まし,主を待ち望むように祈ります。

この安息日の朝に,わたしも皆さんも,それぞれの「ゲツセマネにおいて」独りではないことを感謝します。わたしたちを見守っておられる主は,「まどろむこともなく,眠ることもない」(詩篇121:4) のです。現世でも来世でも,主の天使たちが「〔わたしたち〕の周囲にいて,〔わたしたち〕を支える」(教義と聖約84:88) のです。主の約束が真実であると,特に証します。主は「主を待ち望む者は新たなる力を得,わしのように翼をはって,のぼることができる。走っても疲れることなく,歩いても弱ることはない」(イザヤ40:31) と言われるからです。信仰をもって力強く進むことにより主を待ち望み,祈りの中で「みこころが行われますように」(マタイ26:42) と言うことができ,そして誇りをもって主のみもとへ戻れますように。救い主,贖い主イエス・キリストの聖なる御名により,アーメン

 

 

 

復活祭の一週間

 

 

マタイ25:21
主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。


「神権を行使する個人のふさわしさ」2002年4月、ゴードン・B・ヒンクレー、大管長
兄弟の皆さん、わたしの声の届く範囲の中にこの罪(虐待)を犯している人がいれば、悔い改めるようお願いします。ひざまずいて、主に赦しを求めてください。あなたの舌と強い手を制する力を主に祈り求めてください。妻と子どもたちに赦しを求めてください。マッケイ大管長はしばしばこのように語りました。「いかなる成功も家庭の失敗を償うことはできない。」(J・E・マッカロックの引用、Home: The Savior of Civilization 1924年〕、42; Conference Report、 1935年4月、116)  また、リー大管長は「わたしたちが行う主の御業の中で最も大切なのは、家庭という囲いの中で行う仕事である」と語りました(ハロルド・B・リー、Doing the Right Things for the Right Reasons、 Brigham Young University Speeches of the Year〔1961年4月19日〕、5)

わたしたちが神の裁きの座に立つとき、この世でどれほどの富を蓄えたかとか、どれほどの名声を手に入れたかということについてはほとんど言われないとわたしは確信しています。しかし、家庭内の関係については念入りに尋ねられるでしょう。伴侶や子どもたちに愛と尊敬と感謝の気持ちで人生を歩き通した人々だけが、永遠の判士から次の言葉をかけられるとわたしは信じています。「良い忠実な僕よ、よくやった。……主人と一緒に喜んでくれ。」(マタイ25:21)