「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -395ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

復活祭の一週間

 

 

マタイ27:54
百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。


「彼らを最後まで愛し通された」(英文)1989年10月、ジェフリー・R・ホランド、七十人定員会
イエスは最終的にはひとりで贖いの酒ぶねを踏まなければなりません。しかし, だからといって, すべてのうちで最も暗い瞬間, 最大の苦痛の衝撃に耐えることが可能なのでしょうか。その苦痛はいばらやくぎによるものではなく, まったくの孤独感を味わう恐怖から来るものです。「エロイ, エロイ,ラマ, サバクタニ… わが神, わが神,どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ15:34) いったい,主は私たちの罪に加えてさらには恐れや孤独のすべてを背負うことができるのでしょうか。イエスは背負わされました。そして, 現在もそうされており,将来もそうされるのです。

どのようにしてその大いなる悲しみに耐えることができるのか, 私たちには知る由もありません。太陽もいたたまれずに顔を隠し, 神殿の幕が引き裂かれ, 全き御子の苦しみに地が震えたのも不思議ではありません。少なくともこの一部始終を目にしたひとりのローマ人の軍隊長は, 事の重大さを感じとり, 恐れおののいて次のような永遠に至る宣言をしたのです。「まことに,この人は神の子であった。」(マタイ27:54)
 

 

 

復活祭の一週間

 

 

マタイ27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。


「キリストの贈いの血の効力を及ぼす」(英文)1997年10月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会
イエスは徐々に近づく順罪の重圧を感じ始めたとき, 「そのためにこの世にきた」(ヨハネ18:37ことを認識しておられました。兄弟姉妹の皆さん,わたしたちも, 現世で自分のために準備されている経験をくぐり抜けるために「この世にきた」のです。たとえわたしたちの経験が主のものとは異なっているとしても, この世の経験に耐えることが, わたしたちも地上に来た理由なのです。この目的を熱心に追い求めれば, 現世での生活に究極の意義がもたらされます。それは, 信仰をもって救いの計画というパビリオンに入って, さらに理解を広げる大きな助けになります。こうして, 目的の探求は終わりますが, さらに栄光あふれる発見がわたしたちを待っています。ああ,教会員は時々, 大急ぎで名所を回る旅行者のように, さらなる霊的発見に十分な時間を取ろうとしないのです。

次に,小さな試練や苦難に遭うとき,わたしたちも,イエスがされたように,御父に助けを求めることができます。「身を引く」すなわち逃げ出すことがないように祈るのです(教義と聖約19:18参照)。身を引かないことは, 生き残ることよりも重要です。さらに,恨みを持たずに苦難を経験するのは, イエスの行為をまねることでもあるのです。

わたしたちもこの世で, 長い間, 孤独を経験するかもしれませんが, イエスが経験されたこととは比較になりません。それにもかかわらず, わたしたちの祈りに時々「なぜ」という言葉が入ってくるので, わたしたちも初めに神の沈黙を経験するかもしれません(マタイ27:46参照)

この世での「なぜ」という疑問のあるものは, ほんとうの問いかけではなく, 憤りの現れです。また, 試練がもっと後ではなくて「なぜ」今なのかという場合もあります。主への信仰が,主の時に対する信仰を締め出したかのようです。ストレスの最中の「なぜわたしが」という疑問の中には, 「今わたしには何が必要だろうか」というような「何が」という質問にすれば, はるかによくなるものがあります。すなわち,モロナイの言葉を言い換えれば,こうなります。「もしわたしが十分にへりくだるなら, どの弱さが強さに変わるだろうか。」(エテル12:27参照)

 

ブリガム・ヤング大管長は, イエスから「なぜ」という問いを引き出されたものについてこう話しています。

「ゲツセマネとカルバリでの激しい苦悶のときに, 御父はある時点で, 御自身と御霊とをイエスから退けられた。」(Journal of Discourses『説教集』3:205-206参照) それによって, イエス御自身の勝利が達成され, 隣れみは完全になったのです。主は,「すべての下に身を落とした」ので, 人類のあらゆる苦難について,自ら完全に悟られたのです(教義と聖約88:6;122:8参照)。昔の霊歌には, とりわけ感動的で洞察に満ちた歌詞があります。「だれも知らないわたしの苦しみ。だれも知らない, イエスのほかは。」(アルマ7:11-12参照)  確かにイエスは, ほかのだれよりも鋭敏な「悲しみの人」(イザヤ53:3)でした。
 

 

 

復活祭の一週間

 

 

マタイ27:27-30
それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。 そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、 また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。 また、イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。


「いばらの冠, 栄えの冠」(英文)1991年4月、ジェームズ・E・ファウスト、十二使徒定員会
大工だったイエスはとげのある木についてよく知っておられたことでしょう。子供のころから, 木の扱い方を間違わなければ, とげで苦しむようなことはめったにないということも知っておられたと思います。また, とげは小さくても刺されば痛く, それによって大事なことに気持ちが向けられなくなるということも知っていました。イエスが受けられた苦しみにもとげが幾分か関係しています。

「総督の兵士たちは, イエスを官邸に連れて行って, 全部隊をイエスのまわりに集めた。

そしてその上着をぬがせて, 赤い外套を着せ, また, いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ, 右の手には葦の棒を持たせ, それからその前にひざまずき, 嘲弄して, 『ユダヤ人の王, ばんざい』と言った。

また, イエスにつばきをかけ, 葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。」(マタイ27:27-30)

おそらくこの残酷な行為は, 皇帝が月桂冠をかぶるのをまねた悪意に満ちたからかいだと思われます。こうしてキリストの頭にいばらの冠がかぶせられました。キリストはこの苦しみを,自分に約束された偉大な賜のひとつとして受け入れました。いばらが, アダムのために地がのろわれたときの神の怒りを象徴していることを考えると,言うに言えない感情を覚えます。しかしその冠を頂くことによって, イエスはいばらを栄光の象徴に変えられました。エミリー・ディキンソンはこれを次のように表現しています。

「その貴き人はだれも求めぬ冠を求め, いばらの冠を栄光の冠に変えた。」(トーマス・H・ジョンソン編「エミリー・ディキンソン全詩集」pp.703-704) キリストは人に与えることのみを考えておられました。したがって世の称賛もあざけりもその働きを変えることはできませんでした。

救い主は肉体を持つ者として, 私たちが味わう苦しみのすべてをご存じでした。キリストは人間のすべての弱さを知っておられました。みずから苦しみを受けられることにより, 私たちを悩ます, すべてのとげ, あざみを理解されたのです。