復活祭の一週間
マタイ27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
「キリストの贈いの血の効力を及ぼす」(英文)1997年10月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会
イエスは徐々に近づく順罪の重圧を感じ始めたとき, 「そのためにこの世にきた」(ヨハネ18:37) ことを認識しておられました。兄弟姉妹の皆さん,わたしたちも, 現世で自分のために準備されている経験をくぐり抜けるために「この世にきた」のです。たとえわたしたちの経験が主のものとは異なっているとしても, この世の経験に耐えることが, わたしたちも地上に来た理由なのです。この目的を熱心に追い求めれば, 現世での生活に究極の意義がもたらされます。それは, 信仰をもって救いの計画というパビリオンに入って, さらに理解を広げる大きな助けになります。こうして, 目的の探求は終わりますが, さらに栄光あふれる発見がわたしたちを待っています。ああ,教会員は時々, 大急ぎで名所を回る旅行者のように, さらなる霊的発見に十分な時間を取ろうとしないのです。
次に,小さな試練や苦難に遭うとき,わたしたちも,イエスがされたように,御父に助けを求めることができます。「身を引く」すなわち逃げ出すことがないように祈るのです(教義と聖約19:18参照)。身を引かないことは, 生き残ることよりも重要です。さらに,恨みを持たずに苦難を経験するのは, イエスの行為をまねることでもあるのです。
わたしたちもこの世で, 長い間, 孤独を経験するかもしれませんが, イエスが経験されたこととは比較になりません。それにもかかわらず, わたしたちの祈りに時々「なぜ」という言葉が入ってくるので, わたしたちも初めに神の沈黙を経験するかもしれません(マタイ27:46参照)。
この世での「なぜ」という疑問のあるものは, ほんとうの問いかけではなく, 憤りの現れです。また, 試練がもっと後ではなくて「なぜ」今なのかという場合もあります。主への信仰が,主の時に対する信仰を締め出したかのようです。ストレスの最中の「なぜわたしが」という疑問の中には, 「今わたしには何が必要だろうか」というような「何が」という質問にすれば, はるかによくなるものがあります。すなわち,モロナイの言葉を言い換えれば,こうなります。「もしわたしが十分にへりくだるなら, どの弱さが強さに変わるだろうか。」(エテル12:27参照)
ブリガム・ヤング大管長は, イエスから「なぜ」という問いを引き出されたものについてこう話しています。
「ゲツセマネとカルバリでの激しい苦悶のときに, 御父はある時点で, 御自身と御霊とをイエスから退けられた。」(Journal of Discourses『説教集』3:205-206参照) それによって, イエス御自身の勝利が達成され, 隣れみは完全になったのです。主は,「すべての下に身を落とした」ので, 人類のあらゆる苦難について,自ら完全に悟られたのです(教義と聖約88:6;122:8参照)。昔の霊歌には, とりわけ感動的で洞察に満ちた歌詞があります。「だれも知らないわたしの苦しみ。だれも知らない, イエスのほかは。」(アルマ7:11-12参照) 確かにイエスは, ほかのだれよりも鋭敏な「悲しみの人」(イザヤ53:3)でした。
